« 楽天がソフトバンクとの接戦を制し28勝目 | トップページ | 神宮球場の「豚米串」 »

2019年6月 2日 (日)

「倭武天皇」の巡幸地図

川瀬さんからリクエストがありましたので,

ネットで「常陸国風土記地図」を探して,

「倭武天皇」の巡幸地図を作ってみました。

山間部からスタートして,霞ヶ浦に到り,

その後久慈(北部)に飛ぶというスタイルです。

海苔が採れるから「乗浜」,鯨に似ているから「久慈」とは,

こじつけといえばこじつけ。

要するに「ここは俺が名前を付けた土地」

=俺の支配地ということなんでしょうね。

Img_2805

« 楽天がソフトバンクとの接戦を制し28勝目 | トップページ | 神宮球場の「豚米串」 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 倭武天皇巡幸地図の作成ありがとうございます。
 一つ質問。この巡幸の順序は何によったのでしょうか。風土記の記載順?

 この地図が正しいとすると、下野国から下ってきて最初に新治に来て、あとは古霞ヶ浦沿いに東南に動き、その後常陸北部に巡幸したということでしょうかね?
 この地図の霞ヶ浦は現在のそれよりも大きく、利根川がありませんから、古代の地形図を再現したものに地名を入れたもののようですね。昨日のNHKのブラタモリがちょうどこの地域をやっていて、鹿島神宮と香取神宮は古霞が関の対岸同士にあって、霞が関の入り口を押える要衝の地だということをやっていました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 一つ質問。この巡幸の順序は何によったのでしょうか。風土記の記載順?

その通りです。

肥沼さんへ

 なるほど風土記の記載順。
 でも新治~行方までの経路は、下総から霞ケ浦をわたって伸びてきた「古東海道」を逆コースでたどったもの。常陸国府が置かれた石岡やおそらく茨城評衙が置かれたところから西の経路は、これは、下野から下ってきた古東山道ではないでしょうか。
 東山道が白河関を越えて陸奥に入ったのは、この陸奥南部、今の福島県あたりが常陸や下野から大量の移民を送り込んで日本国に編入して陸奥国とした時代に、下野から直接陸奥に入るルートとして作られたのだと考えます。それ以前は常陸から陸奥へ、浜通り伝いに入ったのではないでしょうか。
 つまり常陸国府は、古東海道の終点であり、同時に東山道の終点であった可能性は高いです。
 そう考えると、倭武天皇の巡幸経路は、船で関東南端の相模に至り、相模⇒武蔵⇒上野⇒下野⇒常陸と陸路でめぐり、そのあと、たとえば常陸北部から船で霞ヶ浦に戻り、今度は南岸の下総に入り、そこから下総⇒上総⇒安房と関東を一巡したのかもしれませんね。
 こう考えると、風土記の記載順も理由があることになりますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまり常陸国府は、古東海道の終点であり、同時に東山道の終点であった可能性は高いです。
 そう考えると、倭武天皇の巡幸経路は、船で関東南端の相模に至り、相模⇒武蔵⇒上野⇒下野⇒常陸と陸路でめぐり、そのあと、たとえば常陸北部から船で霞ヶ浦に戻り、今度は南岸の下総に入り、そこから下総⇒上総⇒安房と関東を一巡したのかもしれませんね。
 こう考えると、風土記の記載順も理由があることになりますね。

そうですね。私も常陸風土記の記載順は自然に思えました。
以前石岡市を訪ね,国府遺跡や茨城廃寺を見学した訳ですが,
東海道ルートと東山道ルートの2つがあるのかなとも感じました。
だいたいそれまで石岡市の存在は,まったく知らなかったのですが・・・。

 もう一つ倭武天皇巡幸経路の可能性あり。
 相模⇒安房⇒上総⇒下野⇒常陸と古東海道を巡ってきて、そのまま常陸北部⇒蝦夷(日高見国)といったあと、海路でまた常陸の霞ヶ浦に戻り、そこから古東海道を通って⇒行方⇒茨城⇒新治⇒下野⇒武蔵⇒上野⇒信濃と巡幸し、そのまま東山道に添って尾張に行き、熱田に戻る。
 この帰路を逆にして風土記は記載したかも。
 とみると、この経路からあることが想定されますね?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 とみると、この経路からあることが想定されますね?

ヤマトタケルのことなのかなあ,くらいしか思い浮かびませんが…。

肥沼さんへ

 はいそのとおり。日本書紀に書かれた日本武尊の東征説話の中の、日高見ー陸奥ー常陸ー下野の経路にそっくりなのですよ。
 ここからの結論。
 書紀の日本武尊東征説話は、九州王朝の史書にあった「倭武天皇の東国巡幸説話」を取り込んで、これが近畿天皇家の事績であるかのように偽装したものだということになります。したがって古事記におけるその説話も、天武の時にすでに九州王朝の事績を取り込もうとの意図が始まっていたことをしめすことになりますね。
 したがって、古事記の記述と日本書紀の記述を比較して真実の歴史を読み解こうとした古田さんの方法論そのものが崩壊します。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ここからの結論。
 書紀の日本武尊東征説話は、九州王朝の史書にあった「倭武天皇の東国巡幸説話」を取り込んで、これが近畿天皇家の事績であるかのように偽装したものだということになります。したがって古事記におけるその説話も、天武の時にすでに九州王朝の事績を取り込もうとの意図が始まっていたことをしめすことになりますね。
 したがって、古事記の記述と日本書紀の記述を比較して真実の歴史を読み解こうとした古田さんの方法論そのものが崩壊します。

なるほど。そういうことなってしまいますね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 楽天がソフトバンクとの接戦を制し28勝目 | トップページ | 神宮球場の「豚米串」 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ