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2019年6月 6日 (木)

常陸国分寺・国分尼寺の変遷は?

常陸国府の建物がⅠ・Ⅱ期とも九州王朝の建物ということでした。

(初期官衙を囲むように建てられているため)

そうすると,正教一致の当時なら,国分寺・国分尼寺も当然その例に従うはずであると考えました。

(論理の導くところに従って)

ところで,以前の川瀬さんのコメントに以下のものがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(2)常陸国分寺
 地割想定図は方位がない。これより調査区位置図が良い。正方位なのは正しい。

Photo_43

(3)常陸国分尼寺
 東偏5度の伽藍で良いと思う。正方位の可能性は東側の南北区画溝のみ。伽藍は変化なし。

Photo_42

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

常陸国分寺(正方位)と常陸国分尼寺(東偏5度)の差がある。

これを見てみると,尼寺だけが違う傾向(正方位ではない)を示していると言えます。

もし東偏が古い時代の建て方だとしたら,常陸国分寺もそうだったかもしれないとか。

いろいろ議論ができるように思いました。

(東側の境内の様子や地区の様子が東偏に見え,西側の方は西偏に見えたりします)

川瀬さん,いかがでしょうか。

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コメント

肥沼さんへ

 常陸国分寺の遺構の東側が東偏に見え、西側が西偏に見えるのは、現在の国分寺の周囲の街がそのように作られているからで、これが昔の名残だということもできますが、遺構が確認されない限り何とも言えません。
 それよりも次の地割想定図を見てください。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103250-3077/garan.jpg

 塔の位置。塔が金堂院の中になく、そのずっと東側にはなれて存在している。東大寺と同じ設計図で作った新しい国分寺であれば、もう少し南。中門より南側で南門の北側にくるはず。
 ということはこの寺は、元は塔は金堂院の中にあった大官大寺式の伽藍だったものを、七重の塔を造れとの聖武天皇の命令によって、金堂院の東側に作り変えられた可能性が見られます。
 であればこれは最初から正方位で建てられた伽藍の可能性大。
 尼寺付近の地形図を見てみる。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103251-3095/map.jpg
 かなり尼寺が国府から離れており、僧寺は国府直近だ。国府は前身官衙からして正方位なので、もし尼寺のように東偏が最初であったとすれば、国府も僧寺も別の所にあったのではないでしょうか。
 このあたり周辺遺構を精査してみないとわかりません。

肥沼さんへ

 奈文研のデータベースの常陸国分寺の項。建物データで見ていくと東偏の建物の可能性がでてきました。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103250-3077/91424.jpg
 金堂の掘り込み地業のあと。明らかに東偏です。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103250-3077/91425.jpg
 講堂の掘り込み地業。これもわずかに東偏。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103250-3075/91428.jpg
 西側回廊の曲がり角。礎石の位置は明らかに東偏。

 正方位の伽藍だとして伽藍想定そのものが間違っている可能性大です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 正方位の伽藍だとして伽藍想定そのものが間違っている可能性大です。

そう言っていただけてうれしいです。
今回もまた「遺跡は,嘘をつかない」と言えそうですね。

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