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2019年6月12日 (水)

新たな「東偏国府」を求めて

昨日の「方八町」の可能性が薄いということで,

新たな「東偏国府」探しの旅が始まる。

「また性懲りもなく・・・」と言われようとも,

また「舌の根の乾かぬ内に・・・」と言われようとも,私は立ち上がる!

第一.「舌の根が乾く時」は,死んじゃってる時であって,

生きている限り,人間は性懲りもなく立ち上がり,

舌の根の乾かぬ内に行動して,失敗しながら少しずつ進歩するものだと信じる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて,東偏と思しき国分僧寺と尼寺を含み,工房と思しき鹿の子遺跡も近い場所というと,

単純に考えると,東偏5度の寺と接する東偏5度の道があるということか?

(しかも,隣の「駅」からの延長線にあることも頭に入れておいて)

さらに,現在の現在の常陸国府(正方位)を含まないところというと,

隣り合っているが,北方にあたる場所と考えたくなった。

Img_2964

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 いろいろ「考察」していますね。良いことです。
 「東偏5度の道があったかも」。なるほど。一つの考え方です。でも肥沼さんが図に点線で書き込んだ道は東偏5度ではなく、30度くらいありますね。
 しかし「道」に着目したのは良いと思います。
 私も道に着目しました。というより正確には、道と官衙・寺院との位置関係です。
 この「国府」の図で北西から南東にかけての道路は石岡市の国府遺跡の西側は旧東山道、東側は旧東海道だとおもいます。
 つまり旧東山道は、下野から白河越えで陸奥にいくのではなく、古代においては、下野から東南に常陸に向かい、東南から北上した旧東海道と接続していたのではないか。旧東海道は、相模国の今の金沢八景の所で東京湾をわたって安房に行き、そこから北上して上総・下総と進み、旧霞が関を渡って常陸に入って、霞が関北岸沿いに筑波・新治方面に北西に北上した。
 この二つの道の接続する場所に常陸国府は作られた。
 こう考えます。
 そうしてみると、茨城郡衙と茨城郡寺である茨城寺はこの街道の北東側に寺、南西側に官衙が並んでいます。この観点を参考に、常陸国分寺僧寺・尼寺と国府の位置関係を見ると、国分寺僧寺・尼寺はこの旧東山道の北東側にあり、道からの距離はほぼ同じです。
 であるならば、東偏時代の旧常陸国府は、この二つの寺院の南西側。道の南西側に二つの寺院と向き合うようにあったのではないでしょうか。
 肥沼さんの想定した場所とは旧東山道を挟んで南の反対側。
 今の正方位の国庁の北西ではないでしょうか。
 若宮1丁目付近。
 残念ながらこの付近は人家が密集していて掘られていないので遺跡がでていませんが。この西側に国府曹司製鉄工房所である鹿の子A遺跡も鹿の子遺跡もあり、どちらも旧東山道沿いですので、可能性はあると思います。
 ちなみにこの地図の南北の道、北は安侯駅南は曾根駅に至る道(水戸街道)は、東海道が東京湾を渡らずに神奈川県平塚にある相模国府から東北に北上し、武蔵南部⇒下総と北上した新東海道だと思います。

 なお余計なことですが、石岡市の旧名は常陸府中。
 明治の版籍奉還後に石岡と改名されたもの。おそらく府中は国の中心なので東京以外に会ってはいけないとの思想からでしょう。
 この常陸府中には江戸時代、水戸徳川氏の分家の府中松平氏が領国を持っていました。この居城が府中城。旧常陸国府そのものです。
 この府中松平氏の次男が幕末に、越前府中本多家の養子になり、これが私の母方の二つの家、齋藤家・松本家が使えていた越前府中二万石本多家の最後の藩主となりました。常陸府中藩は5万石ですから、まあ同格の家に次男が養子に入ったという構図ですね。
 おもしろいところで縁がありました。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

詳しく解説していただいたので,それを生かしていきたいと思います。
先ほどアップしましたが,鹿の子遺跡はやはりすごいですね。
鉄の一大生産地と言ってもいいほど,施設が密集していました。

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