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2019年6月22日 (土)

美作国府(Ⅰ期とⅡ期)は「九州王朝の評衙」だった!(かも)

奈良文化財研究所のデータベースを使って,

全国の寺院や官衙を精査する作業を川瀬さんと行っている。

(多元的「国分寺」研究サークルのサイト)

下の「遺構変遷図」を見てほしい。

まず,美作国府のⅠ期が東偏しているのがわかると思う。

東偏・朴(ぼく)こと肥さんに言わせれば,これは九州王朝作の遺構だ。

Photo_20190622231201

それが理解できないと,こんな扱いを受けることになる。

次の図を見てほしい。

Photo_20190622232301

「政庁推定地前身遺構(Ⅰ期)」という奇妙な名称だ。

一元史観では説明できないので,こんな名前で呼ぶしかないのだろう。

しかし,精査の結果,Ⅱ期の遺構も九州王朝の「正方位」の時代のものと考えるに至った。

私たちはこれらを,九州王朝の作った「苫田(とまた)評衙」と呼ぼう。※訂正しました。美作→苫田

美作国は,備前国から713年に独立した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【ウィキペディア・美作国】

https://ja.wikipedia.org/wiki/美作国#国分寺・国分尼寺

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「美作評衙」との名称はありえません。「美作」。これは国の名です。
 美作国は、備前国から、英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の六郡を分けて設けられた。
 美作国の国府は、苫田(とまた)郡に設けられていたと和名抄にあり、津山市総社だと考えられてきた。
 つまりこの遺跡は美作国府ではなく「苫田(とまた)評衙」というべきでしょう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまりこの遺跡は美作国府ではなく「苫田(とまた)評衙」というべきでしょう。

そうか,これは下野国府と同じ例ですね。
つまり下野評衙ではなく,都賀評衙と呼んだように,
こちらも美作評衙ではなく,苫田評衙であると。

肥沼さんへ

 『美作国府跡 津山市埋蔵文化財発掘調査報告書第50集』1994年刊を持っていたので精査してみました。
 その結果この遺跡の性格を規定した箇所で、Ⅰ期は、東偏した回廊をもった官衙遺構であり、その回廊の中から出た井戸から出土した土器から見て、7世紀後半とされています。
 須恵器杯Gの蓋の形状から7世紀後半で飛鳥Ⅳ期だと。また須恵器杯Bと蓋は飛鳥Ⅴ(平城宮Ⅰ)に属するので7世紀後半から8世紀中葉と判断されています。
 正方位の遺跡を美作国府と判断したからではなく、出土した須恵器から年代判定しています。
 須恵器杯Bは大阪の難波宮遺跡で問題になった形式の土器ですが、飛鳥では7世紀末の藤原宮ではすでに使われていなかったと判断されています。それがここ美作では7世紀後半から8世紀中葉と判断されている。
 土器編年が畿内とは50年後ろに下げて編年されていることが明らかですね。
 つまりこの井戸は7世紀中頃から末の時期まで確実に使われていたことは確定です。
 つまりこの井戸を含むⅠ期の東偏官衙遺構は7世紀中頃以前に作られたことがわかります。私が想定した6世紀末まで遡る可能性もでてきましたね。

 ただしⅠ期の遺構は通説でも美作国府以前の遺構であることは明らかなので、明確に苫田郡(評)衙であろうと推定されています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  『美作国府跡 津山市埋蔵文化財発掘調査報告書第50集』1994年刊を持っていたので精査してみました。

おーっ,それは素晴らしいですね!

〉  つまりこの井戸を含むⅠ期の東偏官衙遺構は7世紀中頃以前に作られたことがわかります。私が想定した6世紀末まで遡る可能性もでてきましたね。

これは,いいですね。全然違う立場の報告書と我々の仮説が近いものであるということが素晴らしい。
やはり,考古学というのは自然科学に近い学問ですね。捨てたもんじゃない。

 肥沼さんへ

 考古学は遺跡や遺物が考察の基本ですから。それをどう解釈するかという点で研究者の恣意が入り込む可能性はありますが、遺物や遺構に基づく精緻な編年の問題点さえあぶりだせれば、十分科学的なものです。
 文献史学も、文献という物を基準にしているので、単なる空想ではないのですが、編纂した二次史料しかない古代史は、編纂史料そのものの歪みを判断しないと、研究ができないのが問題ですね。
 でも編纂史料である日本書紀や古事記、そして続日本紀の歪みがわかりさえすれば、これも十分に科学的です。
 史料の歪み、史料解釈の歪みの批判。
 これが史料批判という、実証主義・論理主義歴史学の根源をなすものなのですが、この方法論を知らない人が多すぎるのが最大の問題点です。
 専門の歴史研究者でもこの方法を知らない人もいますし(学部が史学科でなかった人が多い)、アマチュアの多くはこれを知りません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  これが史料批判という、実証主義・論理主義歴史学の根源をなすものなのですが、この方法論を知らない人が多すぎるのが最大の問題点です。
 専門の歴史研究者でもこの方法を知らない人もいますし(学部が史学科でなかった人が多い)、アマチュアの多くはこれを知りません。

古田さんの著作を読んで,史料批判ということを初めて知り,素晴らしいなと思いました。
ただ,これは●●の史料批判という言葉が使ってあれば十分なのではなくて,
本当に史料批判できていなければ「史料批判に値しない」ということでもあるので,
最近はだいぶ懐疑的にこの言葉を見るようになりましたが…。
リトマス試験紙のように,十分な史料批判が出来ていたら「青」,だめなら「赤」のように,
はっきりしないのが困ったところです。「史料批判という言葉をしっています。
史料批判する気持ちがあります」だけでは,意味が薄いですしね。

史料批判について。
1:まず対象となる史料の成り立ちを調べ、その史料がどのような目的や考え方で作られたものなのかを確認する。文書資料や金石文などなら、その伝来過程や解読過程も検討の対象だ。
2:この作業をして初めて、対象となる史料の性格がわかり、どこまで史実を判定するのに使える史料かがわかってくる。
 
 この際に重要なヒントになるのが、学説史の再検討です。
 これまでの日本古代史家や東洋史家がそれぞれの史料をどのようにあつかって、日本古代史の実像に迫っていったのか。その方法論とその論争の歴史を詳細に検討する。これをやってみると、日本古代史が対象とする史料には何があり、それぞれの史料の由来をそれぞれの論者がどう論じ、それをつかってどう歴史を論じてきたかがわかります。そして論争史を再検討すると、論争の当事者たちが見落とした大事な点が見えてきたり、論争の中で取り上げられながら、その後はあまり注目されなかった大事な点が見えてくるのです。
 この意味で史料批判の要諦は、その史料がいかに扱われてきたかの学説史の検討にあると言えます。
 同じことが考古史料や金石文、さらにはのちの時代の史料や当事者の書いた公式文書や日記・書簡などでもいえます。
 今私たちがやっている古代の寺院遺構・官衙遺構の方位測定作業は、ある意味で、これらの考古史料を考古学者がどう扱ってきたのかを遺跡に即して再検討しているようなものです。遺跡の建物群の方位=設計思想の復元を通して、考古学者たちが見えなかったものを見つけられるし、考古史料の編年の間違いもみつけられる。
 これも史料批判の一環と言えましょう。

 そしてある学説を理解するには、それに反対する学説の方から勉強してみると、その学説の持っている欠点や長所が浮き彫りにされる側面が大きい。したがって反対説の方を重点的に学び、もし可能なら反対説の学者に直接意見を聞いてみるのが近道です。
 前期難波宮についての論争。古賀さんはこの作業をせずに、いつも大阪歴博の学者にばかり教えを乞うています。これでは前期難波宮=孝徳の難波宮説にどんどん染まるだけ。この結果が、前期難波宮=孝徳の難波宮説が考古学会の定説になっているという誤った理解に行きついている。真実は、あまりに大阪歴博がかたくなに孝徳説を捨てようとせずに屋上屋を重ねるだけなので、他の考古学者が反論するのではなく無視に入っているというのが事実です。反対説から見ていればわかることです。

 学説理解にも反対説から見るという史料批判の方法が有効です。
 私が日本書紀を解読する際に「主語の有無」(=天皇の言動を記述する際に、主語を明記するか、あるいは明らかに天皇の行動とわかる動詞を使用して主語を省くか)があることに気が付きこれを使って、記事を、九州王朝の記事か近畿天皇家の記事かを分別できるのではないかと気が付いたのは、一つは日本書紀を原文の漢文で読んでいたからです。アマチュアの人々は現代語訳で読むからここは気が付かない。そして原文で読んでいる古代史家もここを論じた人は誰もいない。
 気が付いた二つ目は、私が「隋書」「唐書」を原文の漢文で読んでいたこと。隋王朝も唐王朝も創設者は最初は天子ではなくて、天子の有力な家臣(中国ではすべての王朝創始者が臣下からの成りあがり。だから主語有無の記述法はすべての正史に共通)。その初代王者の伝を読んでいると、臣下の間は主語を明記しているのに、即位してからは主語が無く、明らかに天子の言動とわかる特殊な動詞を使用して記述している。これを読んでいるうちに、日本書紀の編者もまたこの方法を応用して、九州王朝の天子の言動は主語を省いた明確な天子の言動と取れる特殊な動詞を使用して記述し、近畿天皇家の大王の言動には主語を明記する形で区別したのではないかと考えた。
 さらにいろんな人とこれについて論争する中で、単純に二つに分けてしまうと誰でも分けて読み取れてしまう、日本書紀が、列島誕生以来王は近畿の王であるという、書紀編纂の目的に抵触し、その編纂の意図、歴史の偽造のありさまがわかってしまう。当然執筆者はここをわからなくするために、主語の有無の使用を、文の章段単位で書くことにした。つまり九州王朝の天子の事績を書いた章段では、最初の所を主語を省いて天子とわかる特殊な動詞を使用し、その章段の途中ではところどころに、天皇という主語を入れて分かりにくくする。そして近畿の大王の事績を書いた章段では、最初の所を主語を明確に書く形にして始め、その章段の途中では時々、主語を省く記述法をとる。こうやって真実を読み解く方法を見つけにくくしたと考えた。
 肥沼さんが名付けた「主語有無の論証」が生まれた背景には、論争が行われたことと、史料を元の漢文で常に読み考えていたこと、さらに当時の史官が参照したであろう中国の正史もまた漢文で読んでいたので、主語の使い方の方法に気が付いたことがあったわけです。そしてこの方法が有効かどうかを考えるに際しては、これまでの論争史の中で「主語有無」に着目した人があったかなかったを確認しました。
 そもそもが孝徳の都が大坂なのか九州なのかという論争を行うに際して、史料原文の漢文で考えたことが始まりであり、その前に古田本を読むときにも、彼の本だけで理解するのではなく、魏志倭人伝も原文の漢文で読み、日本書紀も、そして中国正史も原文の漢文で読んできたという、私の歴史が背景にありました。つまり古田本を読むときも、古田さんがどう原史料を扱っているかを史料批判の観点を持って確認していたのです。他人の説を検討するに際しても史料批判の視点がないと、その説を鵜呑みにしてしまう危険が常にあります。
 これが私が大学の史学科で、そして教職課程で習った法学概論の教授から習った、学問の方法です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

コメントを越えて,小論文に近い量になっていますね!

〉  今私たちがやっている古代の寺院遺構・官衙遺構の方位測定作業は、ある意味で、これらの考古史料を考古学者がどう扱ってきたのかを遺跡に即して再検討しているようなものです。遺跡の建物群の方位=設計思想の復元を通して、考古学者たちが見えなかったものを見つけられるし、考古史料の編年の間違いもみつけられる。
 これも史料批判の一環と言えましょう。

なるほど,そう言えばそうですね。

〉  肥沼さんが名付けた「主語有無の論証」が生まれた背景には、論争が行われたことと、史料を元の漢文で常に読み考えていたこと、さらに当時の史官が参照したであろう中国の正史もまた漢文で読んでいたので、主語の使い方の方法に気が付いたことがあったわけです。そしてこの方法が有効かどうかを考えるに際しては、これまでの論争史の中で「主語有無」に着目した人があったかなかったを確認しました。

なるほど,なるほど。

〉 他人の説を検討するに際しても史料批判の視点がないと、その説を鵜呑みにしてしまう危険が常にあります。

なんか私,それについては,心当たりが・・・。

〉  これが私が大学の史学科で、そして教職課程で習った法学概論の教授から習った、学問の方法です。

そんなに若い頃から,史料批判についての技能を学んでおられたのですね。
年季が違いますねえ。

肥沼さんへ

 「史料批判の技能」ではなくて、正しくは「史料批判の方法論と考え方」です。考え方が中心ですね。何を目的にして、どのような視点から、どんな方法を駆使して行うか。
 歴史研究の根本ですし、学問の根本だと思います。
 他人の説を批判するなり肯定して自説を補強するなりするときは、まず他人の説の成り立ちと構造、その性格を正確に捉え、そこに従来の学説史から見てどんな斬新さがあるかを知り、それが本当に成り立つのかどうか、その説の根拠にまで遡って検証する。歴史学の説ならば、どんな史料をどのような方法・観点によって使っているかが第一に問われるわけ。
 法学でも化学でもこうした学び方は基本中の基本なのですが、案外大学でやっていないのだと思います。今の大学の学びがどんどん「役に立つもの」に特化していることが問題になっていて、そもそもの学問の目的や方法論の学びが欠けていることが近年してきされています。でも急にそうなったのではなくて、私が学んだ70年代ですでにそうだった。
 ここを鋭く突いたのが全共闘運動が主導した学生運動でした。私が入学した1969年はまだその最中でしたから、歴史学の教授たちも改めて、歴史学の目的と方法論を、学部学生に学ばせたのだとおもいます。
 国学院大学でも当時は学問への熱い想いが溢れていたと思います。
 だから私と友人たちとで、史学科には法学科や経済学科にはあるゼミが無いことを問題視し、ゼミ設置運動をしてこれを目標に学生大会の代議員選挙に出て、史学科の3年の代議員を独占できたのだと思います。
 結局ゼミはできなかったので、「自主ゼミ」を結成し、その一つとして中学校の歴史教科書批判を行い、歴史を学ぶことの目的と方法論を議論しました。

 他の大学でも同様だったようです。
 他大学で考古学を専攻して中学の教員になった人(同期)がおり、遺跡発掘関係で知り合って話したときに、「僕らの時は学部学生段階で共同体論などを論争したが、10年下の後輩たちに聞くとそんな論争はなく、大学院の修士や博士ですら共同体論争など学んだことはないと聞いた」と話してくれました。
 考古学の目的とは何かということと密接な関連のある問題として、人間社会とは何かという問題があり、人間社会は共同体なのだが、そもそも共同体とはどういうもので、なぜそこから階級が生まれ国家が生まれ、次第に共同体を解体して、現代のようにアトム化された社会ができたのかが当時問題になっていました。これは現代社会の矛盾を解決するには、再度、昔とは異なるレベルでの共同体の復活が必要なのではないかという議論(これが社会主義とは何かという議論に直結)につながるものでした。
 1960年代の後半から70年代の始めは、こういう雰囲気ですから、学問とは何かが問題になっていたのです。

 でも学生運動の波が去った10年後には、こうした根源的な学問への姿勢が大学から失われた。これは後輩たちと話していると実感することです。
 肥沼さんの学生時代はまさにこの時代。学生運動の冬の時代。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ここを鋭く突いたのが全共闘運動が主導した学生運動でした。私が入学した1969年はまだその最中でしたから、歴史学の教授たちも改めて、歴史学の目的と方法論を、学部学生に学ばせたのだとおもいます。
 国学院大学でも当時は学問への熱い想いが溢れていたと思います。

なるほど,それで「謎」が解けてきました。
私が長谷川宏さんの赤門塾に通い,その後OBとして活動していたのですが,
その時の議論は,「なぜ〇〇をするのか?」という根源的なものが多かったと思います。
私たちはなかなかそれがイメージができず,「なぜ〇〇するのかと言われても困りますよ」
という感じでした。しいていえば,「楽しいから学ぶのだ・・・」と。
そして,その後私は仮説実験授業と板倉聖宣さんにに出会い,
教員としての生きがいを持つことが出来るようになったのだと思います。
板倉さんも学生運動に関わっておられ,よく若い頃のお話を聞きました。

〉  1960年代の後半から70年代の始めは、こういう雰囲気ですから、学問とは何かが問題になっていたのです。
 でも学生運動の波が去った10年後には、こうした根源的な学問への姿勢が大学から失われた。これは後輩たちと話していると実感することです。
 肥沼さんの学生時代はまさにこの時代。学生運動の冬の時代。

私が大学に入学したのは1977年ですから,最初の試験が郵送でのレポートになったくらいで,
立て看板はあったものの,まったく「正常化」されていました。 

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