常陸国府の「東偏時代」の候補地・・・その名も「方八町」!
昨日は晴耕雨読で,久しぶりに木下良著『国府』(教育社)を再読した。
この本は,古代の国府の研究のヒントを私に与え続けてくれる名著で,
つい最近でも下野国府(都賀評衙)の件でお世話になった。
メモを取りながら読んでいったのだが,3年前からの懐かしい思い出が蘇ってきた。
(2016年6月,この本の「諸国の国府付属寺院」の分布図を作ったのが「初仕事」)
それが良かったのだろうか,今朝起きたら「研究の神が降臨」してきて,
「ここ掘れ,ワンワン!」とこの本のP105の「想定 常陸国府とその周辺」を
見るよう命令されたのだった。
そこで目を凝らして見てみたら,「工業団地」という東偏の土地が目に入った。
実は,こういうのは危ないのである。下手に手を出すと即日「それは現代のものですよ」と
必ず川瀬さんの厳しいコメント(お叱り)をいただくからだ。(危ない,危ない)
と思って,目をさらに1cmずらして見た。目を疑った・・・。
なんと,そこには,あの懐かしい,「方八町」という地名があったからである。
(周防国府と同じ規模の土地と地名が,タイムマシンに乗って私のところに届いた!)
前にも紹介したが,周防は東偏の街並みを今でも残し,「現役」である。
それに対して,残念ながら常陸の場合は,工業団地の下にあり,今は見ることはできないが,
工業団地を作る際に発掘調査が行われ,その報告書が出ている可能性が高い。
その図面を見れば,第三の男・・・ではなく,「第三の東偏都市」に常陸国府も名乗りがあげられる。
今そんな興奮の中,発掘調査報告書をどのように入手しようかと考え始めたところである。(つづく)
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肥沼さんへ
この石岡市にある「方八町」という土地は、工業団地になっている場所でしょうか。
方八町ですから800m四方ぐらいの土地。
工業団地はそれくらいの面積ですが、「国府」掲載の地図で見ると「根当」という地名のすぐ南側に書いてあるので、石岡市根当地区がこれにあたるのではないでしょうか。
グーグルやヤフーの地図で「石岡市根当」と検索すると、この町は東西が800mほど、南北が600mほどです。
できればこの地域の古地図が見たいですね。
明治初期の参謀本部の地図とか。
そして初期国府候補地として、国分寺や国分尼寺との位置関係をみると、尼寺から3キロほど北。僧寺からみると5キロほど北です。
ちょっと離れすぎではないでしょうか。
投稿: 川瀬 | 2019年6月11日 (火) 17:31
追伸
東偏時代の国府候補地。
現在の石岡市街を見ていると、正方位の国府の東に南北の直線道があるが、この直線が臭い。なぜなら国分寺の東側はぐっと東に偏して北に延びており、さらに国府の南の方も南東ー北東と東に偏しているからだ。
本来この道は東偏の南北道であったのではないか。そしてこの東偏の南北道に添って、国分寺僧寺より少し南に東偏の国府があったのではないか。つまり今の国府遺跡の東。
しかし正方位の国府をその西に作ったので、それに沿って南北道を東偏だったのを正方位のまっすぐな道にしたのではないか。
私はこう考えています。
つまり東偏時代の常陸国衙は、今の国衙遺跡の東側にあると。
あと「方八町」に注目されたのであれば、石岡市の著作物の中に古い地名について解説したものがあると思うので、これを石岡市立図書館や歴史館で確認してみてはどうでしょうか。
投稿: 川瀬 | 2019年6月11日 (火) 18:11
肥沼さんへ
「方八町」の謎。解けましたよ。
『国府』の当該のページの地図をよく見てください。「方八町」の文字は、元から印刷されている地図の地名の文字とは字体が異なって「太字」になっています。そしてこの文字のすぐ上にある「根当」の地名を○で囲んでありますので、これはこの「根当」に国府に相当する古代遺跡があると考えられているという意味だと思います。
つまりこの「根当」のあたりの道路や水田の区分などの地形を見ると「方八町」にあたるという意味。
したがってこれは従来常陸国府があった場所として想定されていた場所の一つだという意味です。
ちなみに肥沼さんもダウンロードされた『田島遺跡(田島下地区)』に掲載されている遺跡地図をみてください。p4です。
これを見ると「方八町」の文字の下方にある工業団地のところには古代遺跡がまったく見つかっていないことがわかります。北方の根当の地に遺跡があるかどうかは不明ですが。
ということで、この「方八町」の地が東偏時代の常陸国府の候補地となるかどうかは、奈良時代の遺跡があるかどうかの確認をしないと最終的には決められませんね。かなり可能性は小さいと思います。
なおこの「方八町」の南方に□で囲まれた鹿の子遺跡というのがあります。ここは「田島遺跡」報告書の歴史環境で確認すると、奈良時代の遺跡が出ていて、そこから漆文書が出土しているとありますので、ここにも何らかの官衙遺構があったということで、国府候補地の一つだったのではないかとおもわれます。
投稿: 川瀬 | 2019年6月11日 (火) 22:50
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
一日インターネット検索しましたが,それらしい情報が得られず,
柏原工業団地は「幻の東偏都市」になりそうです。
ただ,現在の正方位の国府から鹿の子遺跡の距離が遠く,
まだ捨てきれないでいますが・・・。
正教一致で国分寺僧寺・尼寺と隣接するところとなれば,
当然現在の正方位の国府跡に近いところになるものと思われます。
「方八町」の三文字は,これを国府のキーワードにしてきた木下良さんの
「置き土産」だったのでしょうか?
柏原工業団地の形状が,あまりにも魅力的に見えてしまいました。
投稿: 肥さん | 2019年6月12日 (水) 00:17
肥沼さんへ
木下良さんの『国府』掲載の常陸国府関係地図に戻って考えたこと自体は良いことだと思います。
この地図は下の注にあるように、元の地形図に歴史地理学や考古学の知見を書き込んで、常陸国府を考察したものですから。
ただ「書き込みがある」ことを肥沼さんは忘れてしまっていたので、「方八町」が木下さんの書き込みであることに気が付かなかっただけ。
あのあとわたしもいろいろ奈文研のサイトで調べてみましたが、工業団地ではまったく遺跡が出ていないようです。また根当の「方八町」の場所では縄文時代の遺跡が出ているだけです。
さらに興味深いのが鹿の子遺跡群。この中の鹿の子遺跡と鹿の子A遺跡からは大規模な製鉄工房跡が出ており、どちらも常陸国府曹司と考えられているとのこと。
しかも鹿の子遺跡は東偏。鹿の子A遺跡は正方位ですので、正方位の常陸国府にとともに、東偏の常陸国府が付近にあることは確実だと思います。
詳しくは「新たな東偏国府をもとめて」の方にコメントします。
投稿: 川瀬 | 2019年6月12日 (水) 12:20
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 さらに興味深いのが鹿の子遺跡群。この中の鹿の子遺跡と鹿の子A遺跡からは大規模な製鉄工房跡が出ており、どちらも常陸国府曹司と考えられているとのこと。
私も昨日常陸風土記の丘の鹿の子遺跡の建物の復元と解説を見てそう思いました。
〉 しかも鹿の子遺跡は東偏。鹿の子A遺跡は正方位ですので、正方位の常陸国府にとともに、東偏の常陸国府が付近にあることは確実だと思います。
方位の変遷があったとは心強い。もうひと頑張り出来そうです。
投稿: 肥さん | 2019年6月13日 (木) 07:58