2つの王朝の栄枯盛衰~考古学も「輪切り」の時代へ
一元史観の人たちはいざしらず,
九州王朝説を支持する多元史観の人たちは,
九州王朝が栄えた時期と近畿王朝が栄えた時期の
二つの時期があることを知っているはずだ。
(大雑把に600年頃と700年頃としよう)
では,これを図に描いたらどうなるだろうか?
昨日飯能・日高サークルで古代史研究の進行状況について話した時,
こんな図を描いてみた。
なんだか「双コブ駱駝」の背中のような感じである。
もし,この図を認めていただけるとして,
この2つの王朝が栄えては滅んでいく様子を表すような
数百年に渡る建築の様子を表している遺構があったら奇跡だろう。
実はその奇跡に近い意向を泉官衙遺跡(福島県)に見つけたのだ。
藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)の図がそれである。
左側に縦に並んでいるⅠ期(東偏)とⅡ期a(正方位・最盛期)とⅡ期b(正方位・白村江の敗戦以降)が九州王朝。
右側に縦に並んでいるⅢ期a(正方位・最盛期)とⅢ期b(正方位・次第に律令制衰退)Ⅲ期c(正方位・見る影もなし)が近畿王朝。
残念ながら著者は一元史観の方のようで,年代判定も100年以上後代にズレているが,
それを修正すれば6世紀後半から7世紀前半がⅠ期のスタートで九州王朝の東偏→正方位への変更の時期となる。
今は体内の様子も,「輪切り」で見られる時代となった。考古学の遺構も「輪切り」で見る時代を迎えようではありませんか。
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