石神遺跡の変遷図に,「時代の画期」を感じた
奈良県の石神遺跡の変遷図に,「時代の画期」を感じた。
というのも,滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造と原型」のなかに.
石神遺跡のA3期の図が出ていて,「迎賓館」と呼ばれていたことを思い出したからである。
では,どのようにしてそれは出来上がっていったのか?
江口桂『古代官衙』(ニューサイエンス社)には,ありがたいことにそれが出ていた。
上の左がA2で,右がA3である。この変貌ぶりはどうだろう。
本当に驚くしかない。何がなければ.このような変化は起こらないだろう。
また,果たして「迎賓館」に招かれたお客様とは,海の向こうの「外国」の方だったのか,
それとも同じ日本列島に住む「外国」の方(九州王朝の天皇)だったのか,とも想像した。
(西寄りに.四面庇が2棟ある。周りは石敷き。この先をさらに南に行くと,例の石造りの井戸を中心とした庭園がある)
それが,右下のB期になるとすっかり影をひそめ,実務中心の官衙街と変化している。(四面廂もなし)
そして,右下のC期はそれが衰えた姿に見える。(律令制の衰退?)
私は,福島県の泉官衙遺跡に二つの王朝の「栄枯盛衰」を見たが,
この石神遺跡でもまた,それに近いものを感じたのだった。
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A2期・・・白村江の戦い前(7世紀前半)
A3期・・・白村江の戦いで九州王朝が敗れた後(7世紀後半)
B期・・・日本の支配者となり,近畿王朝がスタート(8世紀)
C期・・・律令政治の衰退(9世紀以降)
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