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2019年5月 3日 (金)

「天皇陵」~100の「ウンチクの箪笥」

モノ情報誌のパイオニア『モノ・マガジン』(ワールドフォトプレス社)と東洋経済オンラインのコラボ企画。ちょいと一杯に役立つアレコレソレ。「蘊蓄の箪笥」をお届けしよう。
蘊蓄の箪笥とはひとつのモノとコトのストーリーを100個の引き出しに斬った知識の宝庫。モノ・マガジンで長年続く人気連載だ。今回のテーマは「天皇陵」。意外と知らない基本中の基本から、あまり知られていない逸話まで。あっという間に身に付く、これぞ究極の知的な暇つぶし。引き出しを覗いたキミはすっかり教養人だ。
この連載の一覧はこちら
01 天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を「陵」という。
 02 その他の皇族である皇子や皇女を葬る所を「墓」という。
 03 皇族の墓である可能性があるもので、被葬者を特定せず宮内庁が管理している墓所は「陵墓参考地」と呼ぶ。
 04 さらに分骨所、火葬塚、灰塚、髪歯爪を納めた塔や塚、本葬前に仮葬をした殯斂地も含めて陵墓と総称される。
 05 宮内庁が管理する陵墓の総数は陵墓参考地を含め897。
 06 陵は188あり、そのうち歴代天皇陵は112箇所。
 07 陵墓の所在地は兆域の重複を差し引いても459箇所。北は山形、南は鹿児島まで1都2府30県に分布している。
 08 陵墓の60%以上が京都に所在する。
 09 全国の陵墓の総面積は約652万4000平方メートル。皇居の約6倍の広さに相当する。
 10 「陵」は「りょう」「みささぎ」(古くはみさざき)と読む。
歴代天皇陵の場所が特定された時期は?
 11 歴代の天皇陵の場所が特定されたのは江戸時代。最初に治定と整備に取りかかったのは五代将軍徳川綱吉。
 12 尊王攘夷思想が高まった幕末には大半の天皇陵が確定とされ、明治以降に宮内省、宮内庁に引き継がれた。
 13 陵墓の位置や被葬者は『古事記』『日本書紀』『延喜式』などの文献や伝承を手掛かりに指定された。
 14 新資料の発見などにより位置や被葬者を修正した例もあるが、天皇陵は1889年以降見直しはされていない。
 15 陵墓は皇室用財産に指定される。文化財保護法の適用外とされ、公開や調査が厳しく制限されている。
 16 陵墓を一括して管理しているのは宮内庁書陵部。
 17 全国の陵墓は、多摩、桃山、月輪、畝傍、古市の5カ所の陵墓監区事務所が分割して管理にあたっている。
 18 陵墓は皇室の祖先のお墓として今も祭祀がとり行なわれている。
 19 昔は陵墓に立ち入る際、背中に羽をつけ烏の恰好をするなど事前に儀式を行なう習わしがあったという。
 20 日本には、大小合わせて15万から20万の古墳が存在するといわれる。
 21 そのうち前方後円墳は4700基~5200基ともいわれる。
 22 円墳と方墳を連結させた、上から見ると鍵穴のような形の前方後円墳は日本独特の墳形で、なぜこの形になったのかはいまだ謎。
 23 その他に古墳の形の種類として、前方部を短くした帆立貝型墳、円形の円墳、四角形の方墳がある。
 24 前方部と後円部の境目にある飛び出た部分は「造り出し」と呼び、祀りをした場所と考えられている。
 25 大型の古墳にはその周囲に付随するように小型の古墳「陪塚(ばいちょう)」が築造されていることが多い。
 26 初期の埴輪は円筒形や壺形が主流で、古墳の土壇を囲むように並べられ、墳丘装飾のほかに被葬者を外部から遮断する意味合いも持っていた。
 27 棺が納められる石室は、古墳時代の中頃までは竪穴式、それ以降は横穴式が主流。
 28 3世紀半ばから7世紀にかけて、古墳の築造が盛行した時代を古墳時代と呼ぶ。
 29 「古墳」とは古墳時代の墓を指すもので、それ以前の弥生時代の墓は「墳丘墓」、それ以後の奈良時代の墓は「墳墓」など区別して呼ばれる。
 30 奈良の纏向古墳群は前方後円墳発祥の地とみられる。
前方後円墳がつくられたのは600年ごろまで
 31 纏向古墳群のある桜井市巻向地区は最古の神社といわれる大神神社の西に位置し、ヤマト王権が誕生した地ともいわれる。
 32 纏向石塚古墳は3世紀初頭築造と推定され、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。被葬者は不明。
 33 定型化した最初の前方後円墳とされる箸墓古墳も纏向古墳群に所在する。
 34 箸墓古墳について宮内庁では孝霊天皇皇女・倭迹迹日百襲媛命墓「大市墓」に治定している。
 35 箸墓古墳は邪馬台国女王卑弥呼の墓説がある。
 36 第1代神武天皇陵として治定される畝傍山東北陵は、橿原宮の跡とされる橿原神宮の北側に位置する円丘墳。
 37 以降4代の天皇の陵墓が畝傍山近辺に治定されている。
 38 第9代開化天皇陵(春日率川坂上陵)は天皇陵として最初の前方後円墳となる。奈良市の繁華街にあり、ホテルの横が参道となっている。
 39 全国的に広く分布していた前方後円墳は、600年ごろには各地域で築造されなくなった。
 40 第30代敏達天皇陵が最後の前方後円墳。
 41 大化の改新後は「薄葬」という簡素な葬儀、御陵が基本となった。
 42 平安遷都以後は天皇陵の築造の地も主に京洛に移った。平安~鎌倉時代は洛西に多く造られ、龍安寺には5人の天皇が葬られている。
 43 洛南の深草北稜は第89代後深草天皇に始まり北朝天皇2代を含めて107代後陽成天皇まで12人の陵からなり十二帝両とも呼ばれる。
 44 江戸時代の天皇陵はほとんどが東山区泉涌寺の月輪陵などにまとめられている。
 45 明治天皇陵は洛南の伏見桃山御陵。豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸跡でもある。
 46 明治天皇陵は天智天皇陵を範とした上円下方墳を採用。
 47 昭和天皇の陵は東京都八王子市にある武蔵野陵。一辺が27mの上円下方墳。
 48 天武天皇・持統天皇は奈良県明日香村の野口王墓古墳(檜隈大内陵)に合葬されている。
 49 野口王墓古墳は鎌倉時代に盗掘された記録があり、その内容が『日本書紀』に記された天武・持統両天皇の合葬陵とほぼ一致していたことから被葬者が確定された。
 50 継体天皇陵として宮内庁が認定しているのは大田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)だが、学界では今城塚古墳が継体天皇陵というのが定説。
今城塚古墳は自由に立ち入れる唯一の天皇陵
 51 今城塚古墳は宮内庁指定の陵墓及び参考地ではないため自由に立ち入ることができる唯一の天皇陵といえる。
 52 今城塚古墳は2011年に歴史公園「いましろ大王の杜」として整備され、高さ11mの後円部に登ることもできる。
 53 第29代欽明天皇陵として飛鳥西部の梅山古墳が治定されるが、近くの五条野丸山古墳を真陵とする説も有力。
 54 五条野丸山古墳は全長318m、奈良県最大の前方後円墳。
 55 第37代斉明天皇陵は越智崗上陵とされてきたが、近年明日香村の牽牛子塚古墳が八角墳と分かり、こちらが真の斉明天皇陵との見方が強まっている。
 56 八角墳は天智陵、舒明陵、天武・持統陵など飛鳥時代の王墓にだけ認められたとされる特殊な墳型。
 57 日本武尊の陵「白鳥陵」は、古市古墳群の軽里大塚古墳と、奈良県御所市の2カ所に治定されている。
 58 日本武尊は終焉の地とされる伊勢国能褒野に葬られたともいわれ、ここには「墓」がある。
 59 大阪府南河内郡太子町の磯長谷は敏達、用明、推古、孝徳の4陵の天皇陵があり「王家の谷」と呼ばれる地。
 60 聖徳太子の墓、叡福寺北古墳も王家の谷にある。直径55mの円墳で、鎌倉時代の記録によれば横穴式石室には三つの棺が納められ、太子と母、妻のものとされている。
 61 最も小さい陵墓は1平方メートルにも満たない。
 62 堺市は百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目指している。実現すれば大阪初の世界遺産。
 63 百舌鳥・古市古墳群は、大阪の南部、堺市、羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがる巨大古墳群。
 64 この古墳群では4世紀後半~6世紀前半に200基を超える古墳が築造され、現在でも89基の古墳が残っている。
 65 墳丘長が200mを超える古墳は全国に40基近くあり、そのうち11基は百舌鳥・古市古墳群に存在する。
 66 百舌鳥古墳群を代表する古墳にして日本最大の古墳が墳丘の長さ486mを誇る仁徳天皇陵。
 67 仁徳天皇陵は5世紀前半から半ばにかけて築造されたと考えられている。
 68 仁徳天皇陵はエジプトのクフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵と並ぶ「世界三大墳墓」のひとつとも称される。
 69 仁徳天皇陵の平面積は47万8600平方メートルで甲子園球場が12個入る広さ。クフ王のピラミッドを上回る。
仁徳天皇陵はとにかく巨大
 70 仁徳天皇陵の墳丘総土量は140万平方メートル。10tダンプカーで27万台分に相当。
 71 仁徳天皇陵には2万個以上の埴輪、約537万個の葺石が置かれていたとされる。
 72 この古墳を造るには1日最大2000人が働いても15年8ヵ月の工期を要する。
 73 延べ作業員数は約680万人、総工事費は約800億円と試算される。
 74 仁徳天皇陵は第二次大戦後、米軍が米国人考古学者とともに発掘し、出土品が米国に送られたという巷説がある。
 75 応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は古市古墳群の代表格。墳丘長は国内2番目の大きさ。
 76 履中天皇陵に治定される上石津ミサンザイ古墳は百舌鳥古墳群のひとつ。墳丘長は365mで国内3番目の規模。
 77 安閑天皇陵古墳からは6世紀ごろのササン朝ペルシアで作られたとみられるガラスの器が出土。
 78 大阪府近つ飛鳥博物館では仁徳天皇陵のジオラマ(1/150)を見ることができる。
 79 大仙公園では体験型イベント「百舌鳥古墳群歴史リアル謎解きゲーム」も開催。
 80 堺市市役所21階展望室、三国ヶ丘駅の「みくにん広場」、百舌鳥駅前歩道橋などは仁徳天皇陵を見渡すスポットとして知られる。
 81 堺市博物館ではVR技術を用いて上空300mからの仁徳天皇陵古墳の雄大な眺めと、古墳内部の石室をCGで再現した映像を体験できる。
 82 仁徳天皇陵近くの手作りパン工場「ロアール」には古墳をイメージした「御陵パン」コーナーがあり、前方後円墳の形に焼き上げられた「御陵あんぱん」が人気。
 83 2019年に審査を迎える百舌鳥・古市古墳群。世界遺産登録が決まれば経済効果は1000億円に達するとの試算も。
 84 天皇陵の名称は、天皇の名前を冠したもののほかに、『延喜式』の記載に則った陵名がある。
 85 さらに遺跡の所在地名をあてる考古学会の遺跡命名法に基づく表記法も併用されている。
 86 たとえば仁徳天皇陵は陵名「百舌鳥耳原中陵」。遺跡名で「大仙古墳」「大仙陵」「大山古墳」などと呼ばれる。
 87 また、被葬者が仁徳天皇である確証はないことから「伝仁徳天皇陵」と呼ばれる場合もある。
 88 江戸時代は大山古墳(仁徳天皇陵)にも自由に出入りでき、役人がここで酒宴を催したという記録も残っている。
 89 江戸時代には巨大な古墳は「みささぎ登り」という行楽地になっていた。
 90 江戸時代には天皇陵探索の気運が高まり、本居宣長が大和盆地の古墳の観察記録『菅笠日記』、蒲生君平が近畿の天皇陵・旧跡の考察『山稜志』を著した。
独自の参拝記念印「御陵印」は全部で93印
 91 大阪府高槻市には、かつて大王の墓の周りに置かれていた埴輪を作っていた工場跡の史跡が残る。
 92 この史跡は現在「ハニワ工場公園」、「ハニワ工場館」として公開されている。
 93 天皇陵は一般に中に入れないが、白砂が敷き詰められた先に鳥居を望む拝所が設けられている。
 94 前方後円墳の場合は前の方形部の正面に拝所が設けられている。
 95 歴代の天皇陵にはそれぞれ独自の参拝記念印「御陵印」が用意されている。
 96 御陵印はかつて各陵墓に用意されていたが、現在は5カ所の陵墓管区事務所にエリアごとに分かれてまとめて置かれている。
 97 歴代天皇は124代122人だが合葬などのケースがあるため御陵印の数は全部で93印。
 98 宮内庁は2018年10月、仁徳天皇陵の一部を発掘調査すると発表している。
 99 神武天皇陵は皇族が成年を迎えると参拝する習わしがある。
 100 2019年3月には退位直前の平成天皇が神武天皇陵を訪れ「親謁の儀」で退位を報告した。
 (文:森谷 美香/モノ・マガジン2019年5月16日号より転載)
参考文献・HP/『巨大古墳と古代天皇陵の謎』(洋泉社)、『天皇陵謎解き完全ガイド』(廣済堂出版)、『天皇陵の謎』(文藝春秋)、〈大阪観光局〉〈堺市役所〉公式ホームページ、ほか関連サイト

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コメント

専門的で詳しいですね。
 でも明確な間違いが一つあります。
>22 円墳と方墳を連結させた、上から見ると鍵穴のような形の前方後円墳は日本独特の墳形で、なぜこの形になったのかはいまだ謎。
 日本独特ではない。戦前から朝鮮半島に複数あることは知られ、戦後も新たに見つかったものがある。戦前からこの朝鮮半島の前方後円墳は、ここが元で日本に広がったという説と、日本が元で朝鮮にも広がったとの「説がある。朝鮮半島の前方後円墳は、かつて加羅諸国と呼ばれた地方に限定されている。
 したがってこの朝鮮半島起源説がただければ次の項目も間違いとなる。
>30 奈良の纏向古墳群は前方後円墳発祥の地とみられる。

 また
> 32 纏向石塚古墳は3世紀初頭築造と推定され、前方後円墳成立期の古墳として注目されている。被葬者は不明。
 この年代比定が正しければ、卑弥呼と同時代となり、さらに前方後円墳発生と伝播の過程はさらに複雑な論争になる。

 なお後半期から広がる横穴式石室の古墳は朝鮮半島由来のものであることは確定しており、前方後円墳でこれを採用した最も古式の物は福岡県にある。
 さらにここではまったく触れられていないが、前方後円墳よりも古い、木棺直葬式の円墳は、朝鮮半島の洛東江沿いの地域、すなわち古代加羅と呼ばれた地域に古いものが分布しており、これらは朝鮮半島、それも加羅由来の葬送方式だと考えられている。
 そして弥生時代の墳丘墓がすでにこれと同じ葬送方式になっているのでこの墳丘墓の発生の源も朝鮮半島の可能性を持っている。ただし日本の弥生の墳丘墓は確認されているものは吉野ヶ里遺跡のように方形墳。そして特に関東に濃密に分布する方形周溝墓は方形の溝の中に方形の墳丘があった可能性が高いと言われている。

 なお次の記述も不十分だ。
>26 初期の埴輪は円筒形や壺形が主流で、古墳の土壇を囲むように並べられ、墳丘装飾のほかに被葬者を外部から遮断する意味合いも持っていた
 これではなぜ初期の埴輪が円筒形や壷形なのか説明していない。実はかなり古い円墳の中には木棺直葬のすぐ上の墳丘上に、木棺の場所を囲んで方形に、弥生式の壷をぐるっと取り囲んで下を埋めた形のものがあることが知られている。しかもその壷の上の口は広がっており、まるで供物を置く高高坏のような広がりを持っている。
 したがって壷形埴輪の原型は、弥生時代の墳丘墓で行われていた死者に供える供物を入れる壷や高坏だった可能性は昔から指摘されている。そしてこの壺が発見された円墳は関東だが、その壷は東海地方の弥生土器と見られている。
 つまり木棺の周りに壷を埋めて供物を備えることは、弥生時代の東海地方とみられている。
 そして円筒形埴輪の起源は吉備地方の弥生の方形周溝墓の方形墳丘の裾に円筒型の土器が埋められていたことが起源と指摘されており、これはそもそも墳丘が崩れないための土止めと言われている。

 以上補足でした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「くわしい補足」をありがとうございました。m●m

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