「常陸国風土記」における倭武天皇の登場記録
川瀬さんから新しいテーマをいただいたのでやってみることにします。
「常陸国風土記」に登場する謎の人物・倭武天皇です。
普通ヤマトタケルのことだと解釈したりしますが,どうもあやしい。
(別に,倭建という表現も出てくる。しかも,ヤマトタケルは天皇ではない)
私たちは多元史観で,九州王朝説を支持しているので,その眼鏡で観てみたいと思います。
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◆ 序 「衣手、常陸の国」
また、倭武 の天皇が、東の夷の国をお巡りになったとき、新治の県を過ぎるころ、国造のひならすの命に、新しい井戸を掘らせたところ、新しい清き泉が流れ出た。輿をとどめて、水をお褒めになり、そして手を洗はうとされると、衣の袖が垂れて泉に浸った。袖をひたしたことから、「ひたち」の国の名となったともいふ。諺に、「筑波嶺に黒雲かかり、衣手ひたちの国」といふ。
◆ 一、新治郡 「白遠ふ新治の国」
倭武天皇ではないが,昔,美麻貴の天皇(崇神天皇)がこの地を平定するためにひならすの命を遣わした。ひならすの命がこの地で新しい井戸を掘ると、清き水が流れ出た。新しい井を治ったことから、新治の名がついた 。
◆ 二、白壁郡
(記載なし)(筑波山西北、真壁、明野あたり)
◆ 三、筑波郡 「握り飯、筑波の国」
……富士の神と筑波の神、歌垣など。(筑波山南西、毛野川(小貝川)郡家=筑波山南麓)
◆ 四、河内郡
(記載なし)(今のつくば市周辺)
◆ 五、信太郡(しだ)
……葦原、乗浜など(南部、霞ヶ浦の西、竜ヶ崎市など、郡家=美浦村付近)
倭武天皇の前に,以下の井戸説話が入る。
郡より北十里のところに、碓氷がある。昔、大足日子の天皇(景行天皇)が浮島の帳の宮に行幸されたときに、飲み水に困った。そこで占部をして占ひをさせて、井戸を掘らしめた。その井戸は、今も雄栗の村にある。
昔、倭武の天皇が海辺を巡幸して、乗浜に至ったとき、浜にはたくさんの海苔が干してあった。そのことから「のりはまの村」と名付けられた。
◆ 六、茨城郡 「水泳る茨城の国」
……高浜に来寄する波…(中南部、 郡家=石岡市、国府も)
「茨の城」を作って国巣(つちぐも)を対峙したという,茨城の地名説話がある。
郡より東十里のところに、桑原の岡がある。昔、倭武の天皇が、この岡の上に留まられたとき、神に御食を供へるとともに水部に新しい井戸を掘らしめた。この清く香ぐはしい泉の水をおいしさうに飲み干され、「よくたまれる水かな」とおっしゃったので、この里の名を、田餘といふやうになった。
◆ 七、行方郡「立雨ふり、行方の国」
……夜刀の神、建借間命など(霞ヶ浦内の半島部 潮来から北、郡家=玉造町南部)
昔、倭武の天皇が、天の下を巡幸され、霞ケ浦より北を言向けられたとき、この国を過ぎ、槻野の清泉に出たとき、清水で手を清め、玉をもって井戸をお褒めになった。これが玉の清井といはれ、今も行方の里にある。
さらに車駕で国を巡り、現原の丘で神に御食を供へた。そのとき天皇は、四方を望み、侍従におっしゃった。「車を降りて歩きつつ眺める景色は、山の尾根も海の入江も、互ひ違ひに交はり、うねうねと曲がりくねってゐる。峰の頂にかかる雲も、谷に向かって沈む霧も、見事な配置で並べられて(並めて)ゐて、繊細な(くはしい)美しさがある。だからこの国の名を、行細と呼ばう」。行細の名は、後には、行方といふやうになった。諺に「立雨ふり、行方の国」といふ。また、この丘は、周囲からひときは高く顕はれて見える丘なので、現原と名付けられた。
この丘を下り、大益河に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶が折れてしまった。よってその川を無梶河といふ。茨城、行方二郡の境を流れる川である。無梶河をさらに上って郡境まで至ると、鴨が飛び渡らうとしてゐた。天皇が弓を射るや、鴨は地に堕ちた。その地を鴨野といふ。土は痩せ、生ふ草木もない。
その後に,「夜刀(やつ)の神」の説話あり。
郡より東北へ十五里のところに、当麻の郷がある。昔、倭武の天皇の巡行の折りにこの郷を巡ったとき、鳥日子といふ名の佐伯が、命に反逆したので、これを討った。そして屋形野の帳の宮に向かったが、車駕の行く道は、狭く、たぎたぎしく(凸凹してゐて)、悪路であったことから、当麻と名付けられた。野の土はやせてゐるが、紫が繁る。また香取、鹿島の二つの社がある。その周囲の山野には、檪、柞、栗、柴などが林をなし、猪、猿、狼が多く住んでゐる。
当麻より南に、芸都の里がある。昔、寸津比古、寸津比売といふ二人の国栖がゐた。寸津比古は、天皇の巡幸を前にして、命に逆らひ、おもむけに背いて、はなはだ無礼な振る舞ひをしたので、剣の一太刀で討たれてしまった。寸津比売は、愁ひ恐こみ、白旗をかかげて道端にひれ伏し、天皇を迎へた。天皇は憐れんでみ恵を下し、その家をお許しになった。更に乗輿を進め、小抜野の仮宮に行かれるときに、寸津比売は、姉妹をともに引き連れ、雨の日も風の日も、真の心を尽くして朝夕に仕へた。天皇は、そのねんごろな姿をお喜びになり、愛はしみになったことから、この野をうるはしの小野といふやうになった。
芸都の里の南に田の里がある。息長足日売の皇后(神功皇后)の御世に、この地の古都比古といふ人物は、三たび韓国に遣はされた。その功労に対し、田を賜ったことから、その名となった。また波須武の野は、倭武の天皇の仮宮を構へ、弓筈をつくろったことから、名づけられた。野の北の海辺に香島の神の分社がある。土はやせてゐて、檪、柞、楡、竹などがまばらに生へてゐる。
田の里より南に相鹿、大生の里がある。昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前の宮に留まられたときに、膳炊屋舎を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊から大生と名付けた。また、倭武の天皇の后の大橘比売の命が、大和から降り来て、この地で天皇にお逢ひになったことから、安布賀の邑といふ。
◆ 八、香島郡 「霰ふる香島の国」
……鹿島の神、童子女の松原、白鳥の里ほか(東南部、大洗町以南の鹿島灘、郡家=鹿島神社前)
毎年七月に、舟を造って、津の宮(霞ヶ浦浜の分社)に奉納してゐる。そのいはれは、昔、倭武の天皇の御世に、天の(香島)大神が、中臣の巨狭山命に、「今、御舟を仕へまつれ」とおっしゃった。巨狭山の命は、「つつしんで大命を承りました。敢へて異論はございません」と答へた。大神は、夜が明けて後に、「汝の舟は海の上に置いた」とおっしゃった。そこで舟主の巨狭山の命が、探して見ると、舟は岡の上にあった。大神は、「汝の舟は岡の上に置いた」とおっしゃった。そこでまた巨狭山の命が探し求めると、舟は海の上にあった。こんな事を何度も繰り返してゐるうちに、巨狭山の命は恐れ畏み、新たに長さ三丈余りの舟を三隻造らせて献った。これが舟の奉納の始まりである。
その南に広がる広野を、角折の浜といふ。由来は、昔、大きな蛇がゐて、東の海に出ようとして、浜に穴を掘って通らうとしたが、蛇の角が折れてしまったといふ。そこから名付けられた。また別の伝へに、倭武の天皇がこの浜辺にお宿りになったとき、御饌を供へるに、水がなかった。そこで鹿の角で地を掘ってみたら、角は折れてしまった。ここから名付けられた。(以下略)
◆ 九、那賀郡
……くれふし山の蛇など(中部、那珂川流域、郡家=水戸市南西)
◆ 十、久慈の郡
(北部、久慈川流域 郡家=水府村付近)
昔、郡家の南近くに、小さな丘があり、そのかたちが鯨に似てゐたことから、倭武の天皇が、久慈と名付けられた。
◆ 十一、多珂郡 「薦枕、多珂の国」
(北東部、日立市以北、 郡家=高萩市付近)
◆ 十二、補遺
(風土記逸文などから)
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【作業を終えて】
コピー&ベイストの作業だったので,そんなに時間は掛からなかった。
倭武天皇も含め,地名説話ばかりだ。
今と違って「名前を付ける・地名を付ける」というのは,支配宣言のような意味があったのではないか。
今でも「名付けの親」という言葉があるし。
又,井戸作りの説話が多い。現在でいうと,「水道敷設事業」で,
ただ武力だけで相手を支配することはできないので,
住民の生活を改善するための「公共事業」も必要だったのかもしれない。
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肥沼さんへ
おつかれさまです。
ずいぶんあるのですね。なるほど地名説話だ。それも水に関することが多い。
この地名の場所を地図にするとどういうことになるのでしょうね。誰が倭武天皇説話の地図をつくっていないだろうか。
投稿: 川瀬 | 2019年6月 2日 (日) 00:25