« 横浜・読書会 5/13 | トップページ | 6月の楽しみ »

2019年5月14日 (火)

大仙古墳が,世界遺産に登録されそう

仁徳天皇と時代が合わないということから,

大仙古墳と呼ばれている日本最大の古墳が,

世界遺産に登録されそうだという。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6323303

私としては,次の3つをお願いしたいと思う。

(1)周濠の清掃

(2)十分な科学的調査

(3)見学コースの整備

なにしろ世界遺産になるということは,世界の人たちが見学に来るということです。

ヘドロを除去するのは最低限の仕事で,見学しやすいコースも作ってほしいし,

何より「なんで世界遺産に認定されたのか?」という理由を,胸を張って言えるようにしてほしい。

そのためには,我が国の科学技術を駆使し,後世の範となるような調査をお願いしたいのです。

 

« 横浜・読書会 5/13 | トップページ | 6月の楽しみ »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんおはようございます。
百舌鳥・古市古墳群を世界遺産に、という動きがずいぶん前からありましたが、実現するらしいと知りややビックリです。
いろいろ説があれど、公式には「日本の現王朝」の墓陵なわけですから。

そういえば古田さんは前方後円墳について「軍事要塞」説を述べられていましたが、もしそれが正しいということなら少しくらい「仁徳天皇と時代が合わない」ことはさほど問題では無いように思います。
なぜならこの説が正しいのなら、古墳は軍事要塞として実用されることが第一の目的で、仁徳の墓となったのは、「もうすでに存在したもの」を利用した結果だろうと想像するからです。
古田さんの「軍事要塞」説を知った時、私は中学の歴史の授業で、「仁徳陵は大阪湾の海上から見える」と教わったことを思い出しました。
私は古田さんの「軍事要塞」説を自分なりに考え、この時の天皇家は、仮想敵の「海上からの進入」を想定していたのかな、と考えるようになりました。
仁徳の父祖らは「崇神・垂仁朝」の正統な後継者を打倒して王者となったと伝えられていますが、その軍団は紀淡海峡を突破して淀川を遡上し近江へと攻め込みました。
そういえば神武軍も紀淡海峡を通っているわけで、応神らの後継王者たちがこの地に要塞(軍事施設・拠点)を置きたい気持ちがよくわかるのです。

私は百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を機に、古田さんの「軍事要塞説」が存在することを人々にもっと知ってもらいたいなぁ、と願ってやみません。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。


〉 私は百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録を機に、古田さんの「軍事要塞説」が存在することを人々にもっと知ってもらいたいなぁ、と願ってやみません。

そうですね。古田説の普及ということもありますね。
私は時々.九州年号の紹介をやっています。
「平成」から「令和」に変わる際にもやりました。

お二人に質問。

古田さんが前方後円墳を軍事要塞と唱えたとのこと。初耳です。どこでどう唱えたのでしょうか。教えてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

軍事要塞ではなくて,服属儀礼の場だったような気がしてきました。
だから,九州での規模より,他の地域(特に近畿)では発達したと・・・。

川瀬さんへ

私は古田さんの著書でも見た記憶がありますが、今もネット上でも確認することができます。
(古田史学会報2000年12月12日 No.41『天皇陵の軍事的基礎 』など)

私は深く考えずに前方後円墳と書いてしまいましたが、古田さんは「天皇陵」「巨大古墳」と表現されていますね。
これは厳密に使い分けるべきでした。失礼しました。

また私の認識を少し述べるなら・・・

『日本書紀』に、「麛坂王・忍熊王らが仲哀の陵墓を作る名目で山陵を築き兵を集めて神功等を待ち受けた」とあるのは、やはり彼らは「砦を作った」と解釈するしかないと思います。
そしてその時作った「砦」が明石海峡・淡路島を一望できる五色塚古墳だとするならば、やはり巨大古墳=軍事要塞とする古田さんの仮説は正しいように思います。
(明石付近の海岸沿いには五色塚古墳以外に該当クラスの古墳は存在しないので)

私自身はこの日本書紀の著述や五色塚古墳の存在、発掘状況などから、「巨大古墳」=軍事要塞(砦)説はもっと他の方々から唱えられて良さそうなものだと思うのですが、そのような学説は他では聞きませんね。
(私が知らないだけかも知れませんが)

肥沼さんへ

 古田さんは近畿で特に巨大な前方後円墳が発達したのは、この地が九州王朝に服属しないで伝統的に敵対してきた地域だからだと指摘していたと思います。そしてこの地こそ、魏志倭人伝で女王国に服属しない敵対勢力として記されている狗奴国であり、銅鐸文化圏であったとも。

 さらに私の想像では、出雲国で大量の銅鐸が村はずれに埋納されていた事実は、本来の銅鐸文化圏の中心は出雲であった可能性も示していたはずです。
 古墳時代になっても出雲の古墳の伝統は方墳です。それは弥生時代からずっと続く伝統です。
 これに対して韓国の加羅地方の古墳は円墳。
 倭国をつくった海人族はこの地方から南下した一族。
 前方後円墳は、もともと方墳を王墓とした銅鐸を主とした弥生文化圏に、北方から銅剣と鉄器を主とした海人族が侵攻し、この地域を服属させる中で、旧来の王族と新王族の合体の象徴としてうまれたのではないかと、私は想像しています。
 だから前方後円墳の発生は大和ではなく、もともとは九州北部や中国地方だったのではないか。しかし神武らによる畿内侵攻で、銅鐸文化圏の中枢を破壊し、徐々にこの地域を統合していった。この過程で旧来の豪族も血縁関係に取り込んで支配に組み込む中で、新旧統合王家の象徴としての前方後円墳の重要性は高まり、いまだ伝統的な敵対勢力の残る大和や河内や山城などでは、巨大な前方後円墳が作られ続けたと考えます。

 ただし巨大な前方後円墳が軍事施設に転用されたのは事実です。
 でもそれは時代はもっと下って戦国時代の話。戦国最後の戦である大坂の陣では、徳川家康が茶臼山という巨大前方後円墳に本陣を置いたのは有名な話。
 戦国時代には各地で巨大前方後円墳を砦として改造した例が見られます。
 この後世になっての軍事施設転用は、古田さんも指摘しています。

 ツォータンさんのご見解は、こうしたことの誤読の結果ではないでしょうか。

ツォータンさんへ

 古田さんの「巨大古墳軍事要塞説」の出典のご教示ありがとうございました。初めて読みました。
 古田さんは、箸墓などの初期巨大古墳の出現を、大和盆地周辺に強力な敵対勢力=銅鐸勢力の残存という軍事的緊張状態があったとの認識から、一旦ことがあれば軍事的要塞に転用することも可能との仮説を出されているのですね。また河内の巨大古墳は、当時倭国が高句麗との緊張状態にあったという軍事的状況から分家と言えども自由ではなかったとの認識から、聖地である大和盆地を守るための要塞への転用を仮説として出されているわけです。
 ただこの説の根拠は。
 一つは築造当時この地域は軍事的緊張状態にあった。
 一つは、後世、中世から近世にかけての時期に要塞に転用された事実がある。
 この二つですね。
 ただ疑問があります。
 巨大古墳は全体を丸い川原石で葺いてあり、各段には大量の大型の埴輪が並べられています。こんな状態の祭祀の場としてあるものを、軍事的に転用可能でしょうか。
 中世から近世の時代にはこの埴輪も葺石もすべて土中に埋もれ、巨大古墳にはすでに樹木がうっそうと茂っており、小山状態でした。したがって山頂の木を一部伐採すればすぐにも要塞に転用可能でした。自然の山と同じですから。
 実際に墓として祭祀の場として使われているものを、そしてそれは当時の権力者にとって直接の血縁の人々の墓。これを軍事要塞に転用できるとは、心情的にはできないように思います。
 この巨大古墳軍事要塞説は、古田さんの勇み足だと思います。
 ただし書紀天武紀上に、近江朝が天智天皇の御陵造営を名目にして大量の人夫=兵士を集めたという記事もありますから、御陵造営が軍事的準備の口実に使われたことは多々あったとは思います。

 それよりは私の、軍事的に統合した被征服民に対する威圧の道具、もしくは円墳と方墳を組み合わせたその形から、異なる王家の統合の象徴としての祭祀の場。こう考えた方が良いと思います。

 また古田さんは巨大古墳消滅=朝鮮式山城の出現というふうに、短絡的につなげていますが、それよりも、巨大古墳消滅=大規模な寺院出現、と考える方が良いと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 横浜・読書会 5/13 | トップページ | 6月の楽しみ »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ