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2019年5月27日 (月)

倭の五王の朝貢の回数と九州年号の制定

中国南朝に朝貢した倭の五王の使いは多いが,そのほとんどが宋の時代である。

60年に最大10回。その後,2回➙1回➙0回

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宋・・・420~479年・・・倭の五王の朝貢【讃】?【讃】【讃】【讃】?【珍】【済】【済】【済】?【興】【興】

斉・・・479~502年・・・【興(武?)】 479年の王権樹立【武】

梁・・・502~557年・・・502年の王朝樹立【武】

・・・557~589年・・・一度も行っていない(隋によって滅ぼされる)

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最後の朝貢のあと,20年後の522年には,最初の九州年号「継体」が定められているところをみると,

柵封体制を利用しつつも,梁の「鎮東大将軍」や陳の「征東大将軍」という低い軽いに失意して,

独自の路線を歩むようになったように見える。

その表現の一つが,九州年号という訳である。

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【九州年号・一覧表】

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆  【大和年号】
大化・・・695~703年(9年間)◆ 大宝…701~704年
大長・・・704~712年(9年間)   慶雲…704~708年

                       和銅 …708~715年

                       (以下…令和まで)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんを初め皆さんは、倭国の動きを南朝との関係だけで見ていますが、目を中国北部や朝鮮半島にも向けてみる必要があると思います。
 中国北部では442年に北魏によって統一され、ここに北朝が成立します。そして471年に即位した孝文帝によって急速に国力を伸ばし、493年には、それまで都が置かれていた平城(山西省大同)から中原地帯の洛陽に都が移されました。この都は漢魏洛陽城を大規模に改造したもので、ここに初めて地壇ー宮殿ー天丘を貫く南北道が都の中軸線とされる、東西南北に碁盤の目に道路が張り巡らされた大規模な都城が建設されました。
 時代は南朝斉の時代にであり、倭国では武の時代にあたります。
 中国に漢民族以外の「野蛮人」の王朝が出現し、やがては中国を統一するのではないかとも見えたのです。
 この動きは534年に北魏が東魏と西魏に分裂するまで続きました。
 この中国北部の動きと倭国の南朝への朝貢の動きを連動させて考えてみてください。
 ちょうど朝鮮半島では北の高句麗がどんどん強大化し、南の百済や新羅を圧迫し、それは倭国の領域にも迫っていました。
 倭国が中国南朝に繰り返し朝貢の使いを送り、官職を要求したのは、この高句麗の動きに対抗するために中国王朝の権威が欲しかったからです。
 しかし南朝は倭国に朝鮮半島の支配権は認めず、そのうえ次第に北朝に押され、明らかに力は低下していったのです。
 倭国が初めての年号を建てたのが517年。
 ちょうど北魏が洛陽に遷都したとき(493年)と、その北魏が東西に分裂し南朝への圧力が一時的に低下したとき(534年)の間の出来事です。
 ちょうどこの時期に倭国は、南朝への朝貢を辞め、独自の年号を建てて中国から自立の道を選んだのです。
 倭国が南朝から自立して独自路線とった背景には、北魏という強大な「野蛮人の王朝」が中国に成立したことと南朝という中国正統王朝の落日があったと思います。
 ここを見ないと、のちに中国を統一した「野蛮人の王朝」隋が出現したとき、倭国が自分自身も天子を名乗り、隋と対抗するかのような姿勢を見せた背景が理解できないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

南朝の動きだけ見ていてはわからない,北朝の動きも・・・ということですね。
それはもちろんその通りです。
今回の私の趣旨は,倭の五王の朝貢を「グラフ化」してみようと思ったのです。
11回の朝貢は4つの王朝に均等だったのか,それとも極端に違っていたのか。
私は川瀬さんのような歴史著述者ではないので,いきなりバランスの取れた記述は不可能ですよ。

肥沼さんへ

>私は川瀬さんのような歴史著述者ではないので,いきなりバランスの取れた記述は不可能ですよ。
 そういうことを言いたいのではなく、肥沼さんの作業を基礎にしてどんな情勢が読めるか考えた方が良いといっているだけです。

>今回の私の趣旨は,倭の五王の朝貢を「グラフ化」してみようと思ったのです。
11回の朝貢は4つの王朝に均等だったのか,それとも極端に違っていたのか。
 この意図は良くわかります。
 ではどういう結論になるのか。
 倭国は宋王朝には頻繁に使いを送っているが、次の斉にはあまり遣使せず、さらに502年成立の梁王朝には王朝成立の祝賀の使いだけで以後まったく使いをおくらず、次の陳は全く無視。
 つまり強大な南朝宋王朝があるうちはなんとかその力を利用しようとしていたが、それが弱ってきて北方に強大な北魏が出現すると、倭国の南朝に対する姿勢に変化がでたということです。
 つまりは南朝の利用価値がなくなった。
 南朝への遣使の最後が502年だということは大事な視点です。
 この時点ですでに北朝北魏王朝が成立し、493年には洛陽に遷都していよいよ南朝をつぶしにかかる動きが始まっている。
 言い換えればこの時点ですでに、倭国が南朝から自立するお手本が出現していた。
 「野蛮人」でありながら皇帝を唱え、元号も制定し、「魏」というかつて中国を統一してた漢族の王朝の名を名乗った国が。
 調べてみると北魏は、その西方に夏という強大な敵国を抱えていたので、東の高句麗や南の南朝ともことを構えていなかった。この夏を滅ぼしたのが431年。そして北部統一が442年。つまり宋が強大な間は北魏も南朝や高句麗との対立を構えなかったということですね。
 宋が弱体化して潰れるとともに、北の北朝北魏はより強大化し、東の倭国もまた南朝からの自立を図ったと読み取れますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

このように丁寧に説明していただくと,私の脳ミソにも大切な情報が入ってきます。
今後ともよろしくお願いいたします。

継体という宋または斉の皇子?の亡命者を倭国の天子として担いだ。
元々主従の関係なので旗として担ぎやすく
これ以降倭国は倭国の皇帝の御門と倭国王の筑紫の君(宰相)という統治体制に移行したのではとも考えられる。
継体朝からは元号を建て天子を称するとういう突然の変化は
大陸の王朝から天子をいただいたと考えると分かりやすくなる。

宋の孝武帝の話を武烈帝に、最後の順帝の話を倭彦王にあてたと考えると
斉の皇子かなとか想像する。

こういう説も考えられるかなという程度ですが。

Rさんへ
コメントありがとうございます。

〉 継体朝からは元号を建て天子を称するとういう突然の変化は
大陸の王朝から天子をいただいたと考えると分かりやすくなる。

なるほど。
いきなり国内から「継体」というのはいかにも唐突ですから,
そういうことも考えられるかもしれませんね。

あとこれと似たような事が天武朝で起きたのかなと思える。
筑紫の君が担いだ継体朝から淡海の君が担ぐ天武朝への政権交代。

淡海の君が担いだ天子はどこから来たのか?あえて公ではなく君と。どっちもキミなので。
武則天の武氏から天子を担いで旗とし筑紫の君が担いだ継体朝を倒したのかなと。
武、武、武だし急に天皇と名乗ったり
白村江の戦と武則天の支配する唐。

これもこういう説も考えられるかなという程度です。

Rさんへ
コメントありがとうございます。

〉 これもこういう説も考えられるかなという程度です。

いろいろと歴史を勉強なさっていると思いますので,
ぜひ遠慮せず「自説を根拠を示して主張」して下さるといいと思います。
そうすると賛成したり,反論したりできると思いますので。

というのは,「こういう説も考えられる」という話ばかりだと,
議論が先に進まなくなってしまうからです。
私も白黒はっきりさせるのはあまり得意ではないのですが,
できるだけそうしようと思っています。

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