« 犬塚清和さんの訃報 | トップページ | 本日と明日は,最後の学総体 »

2019年5月28日 (火)

『長舎と官衙の建物配置(資料編)』

先日買った「報告偏」に続き,値段が2倍近くする「資料編」を買った。

Img_2767

Img_2768

どういう本かというと,奈良文化財研究所のデータベースを使って,

現在川瀬さんと二人三脚で「全国の遺跡精査」をしているのだが,

その主要な遺跡が350ページあまりにわたって掲載されている。

もうすでに精査したものもあるし,これからのものもあるが,

私にとってペラペラ眺めるだけでも楽しい「絵本」なのだ。

さっそくグッド・ジョブがあって,常陸国の国衙の図を見ていて,

「初期国衙」が柵列型(九州王朝が作った正方位)に対して,後の者はロの字型(近畿王朝が作った正方位)

だということに気が付いた。(泉官衙遺跡の場合は,さらにその前に東偏の建物が入っている)

こんなことも,本だからこそ気付きやすかったのだと思う。

これからも,アナログの強みとデジタルの強みの「良いとこ取り」をしてやっていきたい。

« 犬塚清和さんの訃報 | トップページ | 本日と明日は,最後の学総体 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
 常陸国府の変遷。どこから近畿王朝でしょうか。
 編年が100年後ろに下げられていると考えると、Ⅲ期以後ではないか。とすると初期官衙と1期・2期が九州王朝時代。
 もっとも不思議なのが初期官衙。なんとこの官衙は正方位だが、東側が正面だ。ロの字型に長殿を配した中の西寄りに、東を正面にした正殿がある。
 これは一体何なのだろう。
 奈文研のサイトで常陸国府を見ると、この初期官衙の東西の中間の南北軸にそって、Ⅰ期の国府は建設され、その前庭の中に初期官衙がすっぽりと含まれている。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100929-83542/etc-0.jpg
 (図5 遺構変遷図・初期官衙 参照)
 さらに不思議なのはⅢ期。なんと東西に二つの正殿がある。西側と東側に二つの国府が並んでいるかのようなようそう。肥沼さんの図では下の左側。
 奈文研のデータでは、図8遺構変遷図・Ⅲ期。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100929-83542/etc-3.jpg
 Ⅰ期・Ⅱ期が初期官衙を包み込むように作られていたのに、Ⅲ期aで出現した西方官衙は、初期官衙をわざと外して作られている。その後Ⅲ期bでは、西方官衙が廃止されて東方を拡充。

 以上の変遷は何を意味しているのかな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上の変遷は何を意味しているのかな?

それは,驚きです。
私は初期官衙だけを九州王朝(正方位)のものと考えていました。
柵列連結型とロの字型とは,1世紀近く間があると考えたからです。
しかも,初期官衙は東が正面とは・・・。

肥沼さんへ

 私の判断の根拠を示しておきます。
 「方位の考古学」の成果の一つとして、関東は編年が100年ほど後ろに下げられているとの認識があります。これを元にすると常陸国府の変遷の年代は次のようになります。
 初期官衙 7世紀末   ⇒6世紀末
 国府Ⅰ期a 8世紀前葉  ⇒7世紀前葉 
 国府Ⅰ期b 8世紀前半  ⇒7世紀前半
 国府Ⅱ期  8世紀中葉 ⇒7世紀中葉 西側に曹司出現
 国府Ⅲ期a  9世紀前葉⇒8世紀前葉 西側に大規模な曹司完成
 国府Ⅲ期b 9世紀後半 ⇒8世紀後半 西側曹司縮減
 国府Ⅳ期 10世紀前半 ⇒9世紀前半

 国府Ⅰ期は初期官衙をその前庭にそのまま保存するかのように建てられており、Ⅱ期で出現しⅢ期aで拡大した「曹司」は、其の正殿が国庁正殿より大きく、規模も国庁より大きい。しかしⅢ期bでこの「曹司」は縮減されて国庁とは分離されました。
 初期官衙と国府Ⅰ期・Ⅱ期は九州王朝時代。Ⅱ期の後半以後が近畿王朝です。
 したがって九州王朝時代の国府は初期官衙を保存する形をとり、近畿王朝時代になるとともに、その西側に「別の国庁」が作られたと考えるべきではないでしょうか。
しかし何らかの理由でこの「新国庁」は廃棄された。

 では国庁前庭に「保存された」初期官衙となんなのでしょうか。
 一つの仮説は、ここがそもそも常陸国府が置かれる前の「茨城評衙」だったとのもの。
  しかし「茨城郡衙」は国府の東南に比定されているので、ここから移動したと考えても、その遺構を保存することが理解できません。
 二つ目の仮説は、国庁がある場所の初期官衙は、常陸国にとって神聖な官衙だったというもの。これなら遺構を保存することは説明できます。
 では何か。
 常陸国府は南北に走る大道を中心にして西側が国庁、東側に方形街路が置かれている。つまり国庁のすぐ東には南北に走る大道がある。
 初期官衙はこの大道の西側に接して建てられ、正面がその東側の道に向いていたのではないか。
 では何か。
 正方位で建てられていることから、これは九州王朝の宮殿と考えられる。
 とすると常陸風土記にある「倭武天皇」の行宮だったとの仮説もできてきます。

以上です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 では国庁前庭に「保存された」初期官衙となんなのでしょうか。
 一つの仮説は、ここがそもそも常陸国府が置かれる前の「茨城評衙」だったとのもの。
  しかし「茨城郡衙」は国府の東南に比定されているので、ここから移動したと考えても、その遺構を保存することが理解できません。
 二つ目の仮説は、国庁がある場所の初期官衙は、常陸国にとって神聖な官衙だったというもの。これなら遺構を保存することは説明できます。
 では何か。
 常陸国府は南北に走る大道を中心にして西側が国庁、東側に方形街路が置かれている。つまり国庁のすぐ東には南北に走る大道がある。
 初期官衙はこの大道の西側に接して建てられ、正面がその東側の道に向いていたのではないか。
 では何か。
 正方位で建てられていることから、これは九州王朝の宮殿と考えられる。
 とすると常陸風土記にある「倭武天皇」の行宮だったとの仮説もできてきます。

「論理の導くところへ行こうではないか。たとえそれがいかなる所に到ろうとも。」
というソクラテスの言葉がありますが,まさに今回はそれにふさわしいコメントですね。

肥沼さんへ

 今回の、常陸国府「初期官衙」が「倭武天皇の行宮」との仮説。
 基礎となる事実は以下のとおり。
1:初期国庁Ⅰ期・Ⅱ期ともに、初期官衙をその中庭に「保存」するかのような様相を呈している。
 これはピンときました。前期難波宮と後期難波宮の関係と同じだと。
 後期難波宮は前期難波宮の前庭の中にすっぽりと納まり、前期難波宮の燃えてしまった宮殿の柱を「保存する」かのように建てられている。この遺構は、大阪歴博の李さんに「後期難波宮を建てた聖武天皇にとって前期難波宮を建てた人との密接な関係をしのばせる」と言わしめましたし、「前期難波宮が焼失した時期と後期難波宮が建てられた時期は、文献史料で確認されるよりも、もっと短い期間だったのではないか」との発言も引き出しています。つまり前期難波宮焼失直後に後期難波宮は建てられた。後期難波宮が建てられたのは8世紀前半で聖武天皇による。これは確定した事実ですので、前期難波宮焼失もまた8世紀前半だということを示しています。
 常陸国府の初期官衙と国庁Ⅰ期の間も「7世紀末」と「8世紀前葉」という、きわめて近接した時期が想定されています。

2:初期官衙のすぐ東側には大きな南北道が走っていて、初期官衙の正殿はこの道に相対する形で作られている。
 南北道は陸奥へと通じる幹線道路。そこに面する形で門ー正殿を並べているのだから、この道路と密接な関係がある。通常は「駅」や「郡衙」が想定できるが、わざわざ遺構を残しているので、宮殿など特別のものと考えられる。

3:初期官衙の形態は、柵列でその聖域を区切るのではなく、長殿を連ねて聖域を区切るという、官衙遺構の最も古い形をとっており、古い宮殿はみなこの形態であること(大和ではそうだ)。

 以上の事実に常陸風土記の記述を論理的につなげてできた仮説です。
 自分でも予期せぬビックリの結論です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 1:初期国庁Ⅰ期・Ⅱ期ともに、初期官衙をその中庭に「保存」するかのような様相を呈している。
 これはピンときました。前期難波宮と後期難波宮の関係と同じだと。

先の川瀬さんのコメントに触れられていなかったので,学総体から帰ったらコメントに書こうとしたら,
もう書かれてしまいました。

〉  以上の事実に常陸風土記の記述を論理的につなげてできた仮説です。
 自分でも予期せぬビックリの結論です。

常陸風土記の信ぴょう性が高まりましたね。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 犬塚清和さんの訃報 | トップページ | 本日と明日は,最後の学総体 »

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ