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2019年5月14日 (火)

正方位の都は,こうして生まれてきた(改訂版)(川瀬さん)

★正方位の都は,こうして生まれてきた:改訂版

 

 中国の統一王朝では天子は天の意志によって天下の統治を任せる人
として選ばれたという思想で成り立っており、そのため天の中心である
北極点(北極星)を背中に背負って国家を統治するので、天子の宮殿
は南面して作られた。
 だが中国の王が天子を名乗る前は、都の中心は王の祖先を祭る宗廟
であり、宗廟に挟まれる形で王宮が作られていた。これは最初に皇帝を
名乗って天の指示で天下を統治するとした秦の始皇帝の時代でも都の
設計思想は前代を踏襲し、これは秦に次ぐ統一王朝である漢でも同じで
あった。

 この思想に変化が出て、天子が天を背景にして統治することを都城の
形にする思想が、前漢の最後の時期から後漢の最初に生まれ出た。
 理由は漢帝国成立から200年近く経って、漢の王室自身が始祖劉邦
の血筋からは遠く離れて直系とは言えない状態になり、天子の統治権
の権威自体が揺らいできたからだ。

 このためそれまで都とは離れた土地に天(神)と地(神)を祀る施設を
置き、そこで天子が祭礼を主催していた形式を改め、天と地を祀る祭壇
を都の南北に置き、天子が都の官僚や民の前で天と地の神を祀ること
で、天下の統治を任されていることを具現化することで、天子の権威を
維持しようとした。
 これが確立したのが後漢王朝の時代。
 だが天を祀る場所は都の南に、そして地を祀る場所は都の北に置い
たが(つまり南面する天子の宮殿の北と南に神を置いた)、その祭壇
は都の北と南の目立つ高地に置かれたため、地壇ー宮殿ー天丘を結
ぶ線は、必ずしも南北を結んだものではなかった。そして後漢の時代に
はまだ、この南北線を都の中心線とし、ここを基準に東西南北の街路
を築いて、官衙や寺院や役人庶民の家を配置するという形・思想には
なっていなかった。
 こうして後漢洛陽城は地壇・天丘を置いた自然地形の関係で、東偏
5度の都であった。

 このため後漢の時代、そしてその後の三国時代の各都や再度統一し
た魏・晋の都も後漢時代の設計プランを踏襲し、結果として都の南北
軸は東に傾いたものとなっていた。
 そしてさらに晋滅亡⇒東晋成立以後の南朝の都もこれを踏襲した。

 倭国が初めて中国王朝から冊封され、倭国王の称号を賜ったのは後
漢の時代であり、次いで魏、そして晋・南朝の時代を通じて倭国は中
国王朝から倭国王に冊封されてきた。
 したがってこの時期の倭国の都は後漢から始まる形の都城設計思
想にならったものとなる。
 だから倭国の都は東偏のものになったわけだ。

 これが変化したのが北朝の北魏の時代で、都の南北に置かれた地壇
と天丘は以前どおりに天然の丘を利用したが、地壇ー宮殿ー天丘を結
ぶ線を基準線にして都城を東西南北の街路で区切った形に設計した。
文字通りに天子が南面して天下を統治する思想を都の形として具現
化したのだ。
 だが北魏の時代の洛陽城は、漢魏洛陽城を利用して拡充した形式で
あったため、地壇天丘が自然丘であったために、都の基準線が東に5度
傾いた形のままであった。

 そしてさらに中国の都の設計思想が変わったのが、南北朝を統一し
た隋の時代であった。
 隋の都の洛陽城や長安城は、北魏の都城設計思想を継承するととも
に、宮殿の南北に置く地壇と天丘とを人口の丘としたために、地壇ー
宮殿ー天丘を貫く都城の中軸線を正確な南北に置くこととした。この
ため都城の形は、文字通りの天子南面の形がここに実現することとな
り、その都城の街路が東西南北の正方位に設定された碁盤の目の都
城として出現したったのだ。
 さらに隋滅亡後に再度中国を統一した唐は、その都である長安城を
、隋の洛陽城・長安城の新しい都城設計思想を継承して、より大規模
な都城としたのだ。

 こうした中国都城の北魏⇒隋⇒唐への設計思想の変化は、倭国が南
朝にのみ朝貢していたため、倭国に伝わることはなかった。
 この中国都城の変化を倭国が知ったのは、南朝陳を滅ぼして南北を
統一した隋王朝と交渉を始めてからであったろう。

 だが可能性としては、北の五胡十六国を統一し、南朝を北から圧迫
して滅ぼうそうとした北朝北魏の出現時において、倭国が将来を見据
えて、この新しい王朝との交渉を図ったこともあったのかもしれない。
この際には北魏洛陽城の地壇ー宮殿ー天丘を貫く線を都の中軸線と
して、この中軸線上の街路を中心としてその周囲に南北東西の街路を
設けて碁盤の目をした都城を建設するという新しい思想が、倭国に取
り入れられた可能性は残る。 
 すなわち従来の南朝の都城の東偏したままの都城が、北魏様式にな
らって改造された可能性はある。
 だが北魏と倭国との通交の記録は残っていないので、これはあくま
で可能性の問題だ。
 確実なのは、南朝陳を滅ぼして中国を統一した隋が出現したとき、
これとの通交を倭国が図ろうとしたときである。

 倭国の使節が隋洛陽城を訪れ、統一を賀するとともに、新たに通交
することを要請した。このことは「隋書」に倭国の王が「日出る国の
天子、日没する国の天子に書を致す。恙なしや」で始まる、隋皇帝に
とっては極めて無礼な国書を送ったとの記事で記録されている。
 この時倭国の使節は、隋洛陽城をつぶさに観察し、この新しい帝国
の国の在り方を大いに学んで帰国したことであろう。
 隋の二代皇帝煬帝は、倭国使節を送り返すとともに、倭国に使いを
送り、この国の国情を探るとともに、通交の可能性をもさぐった。結
果として通交はならず、国交はこの一度きりとなるわけだが、先の国
書に明らかなように、倭国は統一王朝隋に対して、対等外交を主張し
たわけだから、対抗関係上、隋の国の在り方を大いに学び、形式的に
も実質的にも対抗できる国づくりを進めたのに違いない。
 ここに倭国の都城もまた、隋洛陽城に倣った、地壇ー宮殿ー天丘を
貫く都城の中軸線を正確な南北に置き、都城の形は、文字通りの天子
南面の形とし、その都城の街路が東西南北の正方位に設定された碁盤
の目の都城に作り変えられられる事となったものと思われる。

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