倭武天皇の「玉乃井」伝説
これはまた別サイトに載っていた「口訳・常陸風土記」の一節から。
「また,倭武の天皇が,東の夷の国をお巡りになった時,
新治の県を過ぎるころ,国造のひならすの命に,新しい井戸を掘らせたところ,
新しき泉が流れ出た。輿(こし)をとどめて,水をお褒(ほ)めになり,
そして手を洗はうとされると,衣の袖が垂れて泉に浸った。
袖をひたしたことから,「ひたち」の国の名となったといふ。
諺に,「筑波嶺に黒くもかかり,衣手ひたちの国」といふ」
「新治の県を過ぎるころ・・・」を今風に言うと,
「茨城県に入ったあたりで・・・」ということになります。
【玉井(茨城県小美玉市)】
https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/c8b21876c5116176f33a1a7a12d02718
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コメント
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肥沼さんへ
こういう伝承地を提示するときはちゃんと場所が分る情報が欲しいね。地図とか。
調べてみたら、「茨城評衙」の項の図の高浜街道をすこし東に下ったところですね。詳しいサイトがありました。
https://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/c8b21876c5116176f33a1a7a12d02718
投稿: 川瀬 | 2019年5月31日 (金) 12:50
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
ご紹介のサイトをリンクさせていただきました。
投稿: 肥さん | 2019年5月31日 (金) 13:05