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2019年4月 5日 (金)

府中研究会の歩み(川瀬さん)(8ポイントで工事中)

昨年の7月から始まり,今年の3月まで行われた府中研究会の歩みを

川瀬さんが書いて下さいました。転載させていただきます。

(送ったいただいた文がかなり横長だったので,短く改行させていただいきました。

そのため,その弊害が出ています。どうもすみません。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●府中研究会の歩み

0:前史

肥沼さんが国分寺参道口を尋ねたことで(7/15)興味を持った私が参道口を尋ね、改めて国分寺と国府の位置関係について考える(7/18)。

さらに府中郷土の森博物館に行き7/20)、「武蔵国府」のリーフレットを手に入れて、国衙遺構が国府に相応しいかどうかを再確認。

遺構の現状からしてここはどう見ても郡衙。やはり武蔵国府はもっと国分寺に近い所と推定。

学芸員さんと国府の問題を話していて、その場は、「北は国分寺国府連絡路と南北路の交点で、

南は南北路と東山道武蔵路のそばの泉から伸びている斜交道路の交点。

この南北やく1㎞の地点の、南北路の両側500mの範囲か、南北路の東側か西側の1キロの範囲と場所を指定し、

この遺跡のない空白地帯こそ本来の国府の場所である」と推定。

さらに東京農工大の敷地の住所が「幸町」であることに気づき、多くの国府所在地の地名が

「幸(こう)町」であることとの関連を疑い、手始めに「府中市幸町」の遺跡精査から始めることを決めた。



1:7/25 第一回府中研究会

幸町の遺跡発掘報告書を手に入れる。分析は帰宅してから。分析の結果「国衙遺跡はこの幸町2・3丁目ではない。

ではどこか。 新たに出てきた候補地は、府中幸町にある東京農工大キャンバスとその西側の府中晴見町にある

府中刑務所の北側の地域。住所で言えば、府中市栄町と新町、さらにその北側の国分寺市東元町付近だ。

要するに国分寺遺跡の東側から東南側。」。


2:7/27 第二回府中研究会

府中市「栄町」「新町」の遺跡確認。分析は同じく帰宅後。結果は「栄町二丁目から出た大きなV字の溝は近世の用水路。

栄町に国府があるとの印象は薄まり、候補地としては府中刑務所のある晴見町が再浮上。


3:8/1 第三回府中研究会

府中刑務所の北側の栄町三丁目の遺跡を確認。検討は帰宅後。この地域には国府と思しき遺構はないことが判明。

ただし国分寺口遺跡の精査で、門柱遺構の成立が平安時代9世紀以前としていたことがわかる。

つまりこの時期、つまり国分寺金堂院が出来た時点にはすでに国府は国分寺の傍にはなく、

今の国衙遺跡、つまり大国魂神社付近に移動していたことがわかった。

また東山道武蔵路のすぐ東側に100m四方の区画溝に囲まれた南北棟の掘立柱建物を発見。国庁か?

同時に周囲にある武蔵台遺跡に多くの正倉と取れる建物があることに気が付き、ここが国府に伴う工房群ではないかと気付く。


4:8/10 第四回府中研究会

東八道路のすぐ南側の、東山道武蔵路の左右の遺跡を精査。報告書の点検は帰宅後。

100m四方の官衙はその区画溝の規模から、国庁ではなく国庁に伴う官衙と結論。

武蔵台一丁目の遺跡は想定通りに国府に伴う工房の可能性があることを確認。


5:8/15 第五回府中研究会

武蔵台東遺跡の報告書を手に入れる。検討は帰宅後。工房であることはたしかだが、

東偏・正方位・西偏の建物群に分かれるので国府に伴う工房の可能性が出た。

さらに武蔵台一丁目遺跡から上野国分寺の創建瓦が工房の竪穴建物の炉の部材として利用されていることが判明。

つまりこの地に上野国分寺を建立した技術者集団が移住していたことを示す。

また参道口遺跡報告書の精査により、この参道口は「9世紀に作られて11世紀後半には廃絶した」ことが判明。

「武蔵台遺跡・武蔵台東遺跡・武蔵台一丁目道路建設に伴う遺跡」の報告書を府中中央図書館で手に入れる必要。

武蔵台遺跡と同様に国府工房の可能性のある「国分寺市四中遺跡」の報告書を国分寺市の図書館で手に入れる必要。


二つの課題が出た。

府中中央図書館に川瀬が8/24

国分寺市資料館に肥沼が8/23。


国分寺市四中遺跡にも多くの正方位の建物群があることと、さらに国分寺の塔1の北にも正方位の建物群が

あることを発見。国分寺四中遺跡は、東側の正方位建物群と西側の西偏建物群に分かれている。

東側の建物群の中には工房と見られる竪穴建物があり、バックル金具などが出ているので国府に伴う工房の可能性。

西側の西偏建物群では「寺」との墨書土器が出土し、

ここにも工房と思しき竪穴住居があるので、ここが西偏の国分寺に伴う工房群の可能性大。

6:8/29 第六回府中研究会

この日はこの間のそれぞれの調査の確認と課題の確認。 国分寺四中遺跡:時代の異なる遺跡をわける。

正方位の遺跡群の出現から、正方位の塔1の真南に武蔵国庁があった可能性が出現。

これの精査と、さらに府中の町が東偏・正方位・西偏の異なる時期の町が重なっている可能性があるので、

この出現の順序を遺構の重なり具合で確認する必要がでた。

※このあと肥沼さんが、府中の東偏の町の背景を考える中で、「九州王朝支配時代は東偏だった」との仮説を出し、

その背景として「九州王朝が仕えた中国南朝の都も東偏だったのではないか」との仮説を立てて調査を開始。

この過程で南朝の首都であった建康(今の南京)が東偏25度の都城であったことが発掘調査で確認されていたことを

発見(8/30)。さらにこのアイデアと発見を『古代に真実を求めて』出版記念講演会(9/1)で公表し話題となる。

これに加えて私が、中国の漢魏洛陽城が東偏5度であることと、佐川英治著「中国中古の都城設計思想と天の祭祀という

論文によって、「皇帝の権威を高めるために都の北に地の神を祭る地壇(方形)、南に天の神を祭る天壇(円丘)を

作るようになったのは後漢の時代で、それが後漢洛陽城であることを確認。この段階では自然地形を利用して

地壇と天壇は築かれたが、北魏洛陽城になると、宮の真北真南に人工的に地壇・天壇を築くようになったために、

都が正方位に作られ始めた。この北魏洛陽城の設計思想が、隋唐に引き継がれた」との学説があることを確認(9/2)。

ここから肥沼さん主唱の「方位の考古学」がはじまる。肥沼さんは全国の遺跡から東偏5度の遺跡を集め始める。


9月5日に国分寺の図書館で、国分寺遺跡を精査。国分寺四中遺跡のすぐ東に国庁ありとの可能性は否定される。

そして国分寺の塔1の北に東西に延びる掘り込み地業が確認されていた遺跡を報告書で確認。さらに東に延びるので

僧房の可能性を確認。さらに9月7日に府中ふるさと歴史館にて、塔1の南で見つかった南北区画溝がさらに南の

府中市域に延びているかどうかを確認。結論としては伸びていないのだが、この探査の中で塔1の南90mで見つかった

掘り込み地業(これは礎石建物の痕跡だ)のずっと南に、現在確認されている国分寺・国府連絡路を同じ形の古代道路が、

その東にあることを発見。これこそ塔1を中心とした創建伽藍に繋がる参道跡である可能性と、この参道のすぐ南に

武蔵国庁があった可能性を発見。ここから「国分寺創建伽藍と初期武蔵国庁の復元」を書き上げる(9/8)。

以後は府中市域の遺跡の悉皆調査を行い、東偏・正方位・西偏の建物群の出現順を、遺構の柱穴の重なり具合で

確かめる作業に移行する。

7:9/14 第七回府中研究会

この間の研究で出てきた課題。
1:寺地区画溝と思われる二つの溝の報告書での確認。
2:参道と考えられる三つの道路遺構と溝の報告書での確認。
 以上で創建伽藍の復元は完成。あとは瓦の編年の再検討だ。
3:国庁は発掘されていないので手の付けようはない。
4:国府に伴う官衙遺構の年代の再検討。対称は第四中学校遺跡・武蔵台東遺跡・武蔵台遺跡・
武蔵台一丁目道路建設に伴う遺跡。

この四つ。報告書を見る限りでは9世紀から11世紀と判断されている模様。本当にこれで良いか再検討。
5:正方位での多摩郡衙(評衙)以前の東偏多摩郡衙とその市街の復元と年代の判定。
 このうちの2・4・5に手を付ける。

8:9/21  第八回府中研究会 肥沼さんが失念して欠席。

※この日から肥沼さんが、奈良文化財研究所のデータベースを使用して奈良県古代寺院の方位調査を開始。

この作業をネットを通じて一緒にやっていくなかで、奈良県の古代官衙遺構は、それまでは東偏だったのに、

6世紀末以降は西偏に変更し、それが7世紀中ごろ以後(後に正しくは7世紀末)に正方位に変更したことを

川瀬が確認(10/8)。近畿天皇家は6世紀末から九州王朝と異なる政治的動きをしていたことが遺構からわかる。

以後奈良文化財研究所のデータベースに基づいて、近畿地方全体の古代遺跡の方位精査を進めることとなる。


9:10/12 第九回府中研究会

 

10:10/17 第十回府中研究会

国衙遺跡における正方位と東偏建物の関係、区画Aの遺跡調査報告の確認、国衙遺跡北方の西偏四面廂建物の

遺跡調査報告の確認。



11:10/31 第十一回府中研究会

府中市の発掘調査概報の悉皆調査開始。東偏・正方位・西偏の建物群の重なり具合から、その出現年代を確定するため。

※11月6日より、古代遺跡の方位悉皆調査は、「夢ブログ」から「多元的国分寺研究サイト」へ移動。

12:11/14 第十二回府中研究会

悉皆調査続き。

「武蔵国分寺」の出土遺物まとめ報告書の軒丸瓦精査から国分寺の歴史を復元したものを報告。

1:6世紀末から7世紀中ごろの時期に塔1を中心として正方位の伽藍が創建された。

この伽藍は最初はとても原始的な素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれていたが、

次にとても均整のとれた美しい素弁蓮華文軒丸瓦に一度葺き替えられた。その後おそらく火災で塔1を残して焼失。

2:743年に聖武詔で七重塔を建てることになった際に、焼損したが焼け残った塔1を解体して塔基壇を拡大して

七重塔として再建した。そして火災で焼けた創建伽藍の遺構を避けて(理由は不明)、その西側に西偏7度の軸で

金堂などの主要伽藍を作った。このとき塔1も金堂なども平城京系の素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれ、

創建伽藍の区画溝を利用して、現在確認されている国分寺ができた。750年代のこと。

3:平安時代に「神火」で塔1が焼失したので、新たにその西に同規模で塔2を「再建」した。

この際に屋根に葺かれたのは蓮華文の中心が巴文の瓦。

4:その後鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱で国分寺全体が焼損したことに伴い、伽藍の修繕が行われたが、

その際に講堂は解体され、基壇も拡大して金堂と同規模のものに再建された(このときの瓦は不明)。



13:11/28 第十三回府中研究会

悉皆調査続き。


14:12/12 第十四回府中研究会

悉皆調査続き。「クルル鉤」発見の報告書を見つける。場所は区画Bの西南。後日(12/19)再度府中歴史館に赴き、関連の報告書を精査。

この鉤の見つかった遺構は国府上級官人の家と考えられ、年代は平安時代後期。

この遺構の南側、高安寺付近に平安時代後期の国庁機能をもった役所が存在した可能性を示す。

ここから国庁の移動が明確に。

 

1:初期国庁(国分寺のすぐ南)⇒2:多摩郡衙へ国庁機能の移動⇒3:多摩郡の有力者居宅へ国庁機能の移動。

1は九州王朝時代の末期。評制の時代。この初期国庁は「国府寺」ともども未完成であった可能性大。2は近畿天皇家時代。

奈良時代から平安時代初期。この時代に本来郡庁である建物群が大改造されて、

大規模な二重の区画溝に囲まれた方100mほどの大規模な官衙となり、正殿も礎石建物で床が專敷の華麗なものになる。

おそらく武蔵国分寺金堂院はこの時代の産物。3は王朝国家が衰微した10世紀以後中世のもの。

おそらく初期国庁の南で郡庁の西側にあった多摩郡の有力豪族の館(おそらく武蔵国造で多摩郡大領であった豪族)の館周辺に国庁機能が移動。

これが今回見つけた遺構とその南側。この時代に暗闇祭りがはじまり、国庁の神社である大国魂神社の神輿を中心として武蔵国の一宮から六の宮の

神輿が国庁の前に集まり、国司から礼拝を受けたのではないでしょうか。



15:12/26 第十五回府中研究会

悉皆調査続き。


16:1/11 第十六回府中研究会

悉皆調査続き。国司館遺跡の検討。

※国分寺追加調査(1/18)。国分寺市図書館にて、国分寺北方遺跡の調査。正方位の初期伽藍に伴う工房遺跡の可能性確認。

ここから「国寺」の墨書土器が出ている。これは国分寺は当初は「国寺」と呼ばれていた可能性を示している。つまり武蔵国寺。略して武蔵寺。



17:1/23 第十七回府中研究

悉皆調査続き。



18:1/30 第十八回府中研究会

悉皆調査続き。国衙遺跡の北門が東偏していることを発見。



19:2/8 第十九回府中研究会
 

悉皆調査続き。区画AでN2=奈良時代Ⅱ期(726~750年)の東偏が見つかった。つまり関東の土器編年は100年ずれていることを確認

(この時期までに長野が50年ずれ、群馬県が100年ずれていることを確認し、武蔵も同じだろうと推測していた)。



20:2/13 第二十回府中研究会

悉皆調査続き。



21:2/20 第二十一回府中研究会

悉皆調査続き。



22:2/27 第二十二回府中研究会

悉皆調査続き。発掘調査概報の精査は終了。次回は国衙遺跡を再確認。

23:3/8 第二十三回府中研究会

国衙遺跡の再確認。

24:3/15 第二十四回府中研究会

悉皆調査続き。前回コピーした「武蔵国衙跡1・本篇」の読み合わせ。この遺跡の年代と推移を報告書で確認。

●「武蔵国衙」遺跡について

総括的な報告書を精査したことで、この遺跡の変遷がよくわかりました。


1:竪穴建物群 7世紀後半~8世紀初頭
2:東偏の掘立柱建物群
3:正方位の掘立柱建物群
4:正方位の、根石付の掘立柱建物群:柱穴に瓦あり=国分寺造営期8世紀中ごろの瓦。
5:正方位の礎石建物群(瓦葺・一部の床は專敷):礎石建物付近に国分寺塔再建期9世紀中ごろの瓦。

 2がまったく無視されているが、これが東偏の多摩評衙。時代は7世紀後半~8世紀初頭。
⇒6世紀後半から

7世紀初頭。
 3・4が九州王朝時代の正方位の多摩評衙。時代は8世紀初頭から中ごろ。⇒7世紀初頭から中ごろ。
 5が近畿王朝時代の武蔵国庁。時代は9世紀中頃。⇒8世紀中頃。
 全部年代を100年遡らせると実態にあう。

3・4の時に北方2.7キロに南北ほぼ正方位の東山道武蔵路沿いに武蔵国府と武蔵国寺・尼寺が正方位に作られ、

これにともなって多摩評衙も正方位に作り変えられたのではないか。国府がある評の中心だから、

他の評の評庁は東偏のままだったが、ここは国府と一体に正方位になったのではないか。


この動きに伴って東偏の多摩評衙の東にあった多摩寺(多摩評寺)も多摩評衙のすぐ北側、

東西道を挟んだ北側に正方位で再建されたのではないか(方形区画C:ここに大型製鉄遺跡がある)。

国衙建設・国分寺建設に伴い多摩寺は衰微と遺跡から判断されている。


そして4-5の間に、北方の正方位の国寺と国府が何らかの理由で(国寺の塔1に火災の跡があるので火災による焼失か)

建設途中で廃絶してしまったので(100年動かした実年代で考えると白村江敗戦の時期と重なるので、

建設途中での火災かも)、実質的に武蔵国の国府機能を担ってきた正方位の多摩評衙を大規模に改造して国府として

再建したのではないだろうか。これが大型の礎石・專敷・瓦葺正殿の出現と大規模な二重の区画溝の出現ではないのか。


この国府の移動によって従来多摩評衙の西側に北の国府からの連絡路があったのを東に移動して、

新たな国府北門の正面に太い南北の連絡路を建設。そしてこの間に地元の多摩郡の豪族(郡の大領ら)によって、

武蔵国寺の西に西偏7度で再建されていた武蔵国寺と、この南北の太い連絡路との連絡道が作られたのではないか。

またこの国庁の移動にともなって、多摩郡の郡庁が北方に移動したか?

場所は「国衙」遺跡のすぐ北側で南北連絡道の西にある、西偏の大規模な四面廂建物群か、さらに西側の区画Bか。

  今後確認したいこと。

1:国衙遺跡内の柵列の報告書での確認。時代は特定できるかな?
2:国衙遺跡のすぐ北側の、区画C遺構の確認と時代の判定(竪穴建物の年代からは8世紀前半以後)。
3:国衙遺跡のすぐ北側の、西偏の四面廂建物群の遺構の確認と年代の判定。
4:国衙遺跡西方の区画B遺跡の遺構の確認と年代の判定。
5:国衙遺跡東方の区画A遺跡の遺構の確認と年代の判定(たしか8世紀第二四半期との報告をコピーした?)

以上五点を確認したいものです。(1は削除)

25:3/20 第二十五回府中研究会

国衙遺跡周辺の官衙遺跡の年代確認。

▼各地区の年代と性格について。

●区画B:国衙遺跡の西北。区画溝と内部の掘立柱建物双方とも西偏。南に開いたコの字型の建物配置。

氷室や大型井戸有。ということで官衙遺構でもしかしたら、郡衙か郡の正倉院。年代は9世紀中頃までに廃絶。


この遺構のすぐ西側・区画溝に接した地帯に、西偏の大きな多面廂の建物二つ(1033次発掘)。

この建物の北側東側に広い畑と思しき畝あり。したがってこの西偏の大きな多面廂の建物が郡の高級役人の役宅か。


●区画Bの西南、1033次の大型建物の南側に、東偏の多面廂の大型建物(1062次発掘)。

ここから役所の門や倉庫の鉤としてつかわれる「クルル鉤」が出土。年代は平安時代初頭の竪穴建物群を掘立柱建物が

壊しているので、平安時代中ごろ以降か?この建物のさらに南、東西を走る府中街道に面した箇所あたりに、

平安中頃から鎌倉期の武蔵国庁があった可能性あり。


●区画E:国衙遺跡の府中街道を挟んだ北側。国分寺とつながる幅12mの南北道路に面したところ。

大型の区画溝に囲まれた官衙と思しき遺跡。大きな正方位の掘立柱建物あり。また北東部に国府域最大規模の製鉄遺構あり。

年代は8世紀初めの竪穴建物群が集まったところを壊して掘立柱建物群出現。したがって8世紀中ごろの官衙遺構。

9世紀中頃には内部に多数の竪穴建物群が出現するので、この時期には廃絶か。

●区画A:国衙域の北東にある東偏の区画溝に囲まれた東偏の官衙。巨大な井戸あり。時代は8世紀第一四半期と。

したがって

1:区画Aとその南の多摩寺とその西の国衙域の東偏官衙遺構はすべて同じ年代。8世紀初頭。100年あげて7世紀初頭。

国衙域の東偏官衙が多摩評庁なら、区画Aが多摩評督の役宅で、多摩寺は多摩評寺。すべて九州王朝時代。

2:区画Eの正方位の建物群と国衙域の正方位の掘立柱建物群はほぼ同じ8世紀中ごろのもの。


100年年代をあげれば7世紀中頃となり、九州王朝時代の最後。
この時期の初期国庁が国分寺のすぐ南にあったとしたら、

国衙域の正方位の建物群が多摩評庁で、その道路を挟んだ北側の区画Eは多摩評督の役宅か?

このEの北側と西側にも多くの大規模な多面廂の建物を伴う官衙群が存在する。


二つの南北道に挟まれた国衙域の北側には「多研」と墨書された硯の土台出土。

ここも多摩郡庁と推定されている。いつの時代の多摩郡庁なのか。


国衙域の正方位の掘立柱建物群が正方位の礎石瓦葺建物に建て替えられたのが9世紀中頃までとされている。

100年時代をあげれば8世紀中頃聖武朝あたり。これが奈良時代の武蔵国庁であれば、

ここにあった多摩評庁⇒郡庁は、そのすぐ北側に移動したか? この箇所の官衙群の年代を知りたい。

以上が先週と昨日の府中研究会で確認した各官衙遺構の年代とその性格についての分析。

次回は国衙遺跡の北側の官衙遺構群の時代と性格を確認したい。これで府中の官衙遺跡の分析は終了。


26:3/27 第二十六回府中研究会

国衙遺跡北側の西偏四面廂建物の年代確認。8世紀中ごろから9世紀。西偏7度。

100年年代を上げれば7世紀中ごろから8世紀初。九州王朝から近畿王朝への移行期。

国分寺金堂院や熊野神社古墳と同じく西偏7度。移行期に多摩郡の有力者がこの地に国庁機能を移したのか。

以上の研究からの府中における古代官衙の歴史は以下のようになる。


1:6世紀後半から7世紀初頭。
 九州王朝治下の東偏官衙群。
 ・区画A:多摩評衙か多摩評督の館。
 ・国衙遺跡の下にある東偏官衙:多摩評衙かこれに伴う官衙。
 ・多摩寺:多摩評寺。
 この近くに多摩評衙に伴う東偏の正倉院があるはず。候補地としては多摩寺の東方。
 ※この時代に上野国府と武蔵国府を結ぶ東山道武蔵路が作られる。

2:7世紀初頭から中ごろ。
 九州王朝治下の正方位の官衙群。
 ・国衙遺跡の正方位掘立柱建物群:多摩評衙。
 ・その北区画E:多摩評督館。
 ・区画Bの正方位総柱建物:多摩評衙に伴う正方位の正倉院。
 ・東山道武蔵路に添う二つの寺院:
   塔1を中心とした四天王寺式伽藍:武蔵寺。  武蔵国分尼寺:武蔵尼寺。
 ・武蔵寺南方の大規模官衙?:第一期武蔵国庁。※この国庁と国寺周辺に大規模な正方位の工房群。

3:7世紀末から8世紀初頭。
 九州王朝から近畿王朝への過渡期における地方豪族(多摩郡大領か?の作った官衙群。
 ・官衙遺跡の北側の西偏7度の四面柱建物を中心とした官衙遺構

=元は多摩評衙に伴う正方位の官衙群のあった場所:武蔵国庁の機能を移す。
 ・武蔵国分寺の西偏7度の金堂院:何らかの理由で消えた武蔵国寺の再建。
 ※この多摩郡大領の墓と思しきものが、西偏7度の玄室を持った熊野神社古墳。
 ※武蔵国寺初期伽藍と武蔵国庁はともに火事で塔を除いて焼失か?

4:8世紀中ごろから9世紀中ごろ。
 近畿王朝治下の正方位の官衙群。
 ・国衙遺跡の正方位の礎石瓦葺建物群:元多摩評衙だったところに武蔵国庁を正式に移し、
国府の体裁を伴った大規模官衙に改造。
 ※これに伴い多摩郡衙は、国衙遺跡北側の西偏四面廂建物を中心とした官衙群に移動。
その西にある郡の正倉院も西偏で整備(区画B)。
 ・武蔵国分寺金堂院の再整備。聖武詔に伴い塔を七重に改造。南に移った国庁との連絡路を
国庁から北に延びた南北路に結合。

5:9世紀中ごろ以降。
 近畿王朝の律令制国家が衰微した時期。
 国家の統合力が弱る中で、国庁そのものが衰退し消失。国庁機能は多摩郡の豪族の館に移動。
 ・高安寺東の坪宮から北上した道路と国衙遺跡の北の東西道路の交点付近
:武蔵国庁と多摩郡衙の機能を併せ持った官衙(多摩郡豪族館)?
 ・その北の東偏大型四面廂建物:国庁と郡衙機能をもった官衙の現地官人の館(「クルル鉤」出土地)。

6:鎌倉時代以後
 国庁と郡衙機能共に廃れ、武蔵府中の中心は国衙跡に作られた六所宮(大国魂神社)に移動。


 以上で研究会は終了。

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コメント

肥沼さんへ

 ところどころ文の末尾が切れてしまって読めませんね。
 文字の大きさはなんとかなりませんか? コピーして貼り付ける場合は文字が小さくなるのかな?他の記事でもそうですから。
 コピーして貼り付けの場合に文字の大きさを設定できると思うのですが?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

11ポイントから10ポイントに下げましたが,まだだめで,
現在は8ポイントにしてあります。
全体を入れるには,ここまで下げないと無理のようです。

肥沼さんへ

 8ポイントじゃ読めないですよ。試みにここに全文コピーしてみますね。幅を短く改行しました。
これでやってみてください。

●府中研究会の歩み

0:前史
 肥沼さんが国分寺参道口を尋ねたことで(7/15)興味を持った私が参道口を尋ね、
改めて国分寺と国府の位置関係について考える(7/18)。さらに府中郷土の森博物
館に行き7/20)、「武蔵国府」のリーフレットを手に入れて、国衙遺構が国府に相応し
いかどうかを再確認。遺構の現状からしてここはどう見ても郡衙。やはり武蔵国府は
もっと国分寺に近い所と推定。学芸員さんと国府の問題を話していて、その場は、
「北は国分寺国府連絡路と南北路の交点で、南は南北路と東山道武蔵路のそばの
泉から伸びている斜交道路の交点。この南北やく1㎞の地点の、南北路の両側500m
の範囲か、南北路の東側か西側の1キロの範囲と場所を指定し、この遺跡のない空
白地帯こそ本来の国府の場所である」と推定。
 さらに東京農工大の敷地の住所が「幸町」であることに気づき、多くの国府所在地
の地名が「幸(こう)町」であることとの関連を疑い、手始めに「府中市幸町」の遺跡精
査から始めることを決めた。

1:7/25 第一回府中研究会
 幸町の遺跡発掘報告書を手に入れる。分析は帰宅してから。分析の結果「国衙遺
跡はこの幸町2・3丁目ではない。ではどこか。 新たに出てきた候補地は、府中幸町
にある東京農工大キャンバスとその西側の府中晴見町にある府中刑務所の北側の
地域。住所で言えば、府中市栄町と新町、さらにその北側の国分寺市東元町付近だ。
要するに国分寺遺跡の東側から東南側。

2:7/27 第二回府中研究会
 府中市「栄町」「新町」の遺跡確認。分析は同じく帰宅後。結果は「栄町二丁目から出
た大きなV字の溝は近世の用水路。栄町に国府があるとの印象は薄まり、候補地とし
ては府中刑務所のある晴見町が再浮上。

3:8/1 第三回府中研究会
 府中刑務所の北側の栄町三丁目の遺跡を確認。検討は帰宅後。この地域には国府
と思しき遺構はないことが判明。ただし国分寺口遺跡の精査で、門柱遺構の成立が平
安時代9世紀以前としていたことがわかる。つまりこの時期、つまり国分寺金堂院が出
来た時点にはすでに国府は国分寺の傍にはなく、今の国衙遺跡、つまり大国魂神社付
近に移動していたことがわかった。
また東山道武蔵路のすぐ東側に100m四方の区画溝に囲まれた南北棟の掘立柱建物
を発見。国庁か?
 同時に周囲にある武蔵台遺跡に多くの正倉と取れる建物があることに気が付き、ここ
が国府に伴う工房群ではないかと気付く。

4:8/10 第四回府中研究会
 東八道路のすぐ南側の、東山道武蔵路の左右の遺跡を精査。報告書の点検は帰宅後。
 100m四方の官衙はその区画溝の規模から、国庁ではなく国庁に伴う官衙と結論。武
蔵台一丁目の遺跡は想定通りに国府に伴う工房の可能性があることを確認。

5:8/15 第五回府中研究会
 武蔵台東遺跡の報告書を手に入れる。検討は帰宅後。工房であることはたしかだが、
東偏・正方位・西偏の建物群に分かれるので国府に伴う工房の可能性が出た。
 さらに武蔵台一丁目遺跡から上野国分寺の創建瓦が工房の竪穴建物の炉の部材と
して利用されていることが判明。つまりこの地に上野国分寺を建立した技術者集団が
移住していたことを示す。
 また参道口遺跡報告書の精査により、この参道口は「9世紀に作られて11世紀後半
には廃絶した」ことが判明。
 「武蔵台遺跡・武蔵台東遺跡・武蔵台一丁目道路建設に伴う遺跡」の報告書を府中
中央図書館で手に入れる必要。武蔵台遺跡と同様に国府工房の可能性のある「国分
寺市四中遺跡」の報告書を国分寺市の図書館で手に入れる必要。
 二つの課題が出た。
 府中中央図書館に川瀬が8/24
 国分寺市資料館に肥沼が8/23。
 国分寺市四中遺跡にも多くの正方位の建物群があることと、さらに国分寺の塔1の
北にも正方位の建物群があることを発見。
 国分寺四中遺跡は、東側の正方位建物群と西側の西偏建物群に分かれている。東
側の建物群の中には工房と見られる竪穴建物があり、バックル金具などが出ているの
で国府に伴う工房の可能性。西側の西偏建物群では「寺」との墨書土器が出土し、こ
こにも工房と思しき竪穴住居があるので、ここが西偏の国分寺に伴う工房群の可能性
大。

6:8/29 第六回府中研究会
 この日はこの間のそれぞれの調査の確認と課題の確認。
 国分寺四中遺跡:時代の異なる遺跡をわける。
 正方位の遺跡群の出現から、正方位の塔1の真南に武蔵国庁があった可能性が出
現。これの精査と、さらに府中の町が東偏・正方位・西偏の異なる時期の町が重なって
いる可能性があるので、この出現の順序を遺構の重なり具合で確認する必要がでた。

 ※このあと肥沼さんが、府中の東偏の町の背景を考える中で、「九州王朝支配時代
は東偏だった」との仮説を出し、その背景として「九州王朝が仕えた中国南朝の都も東
偏だったのではないか」との仮説を立てて調査を開始。この過程で南朝の首都であった
建康(今の南京)が東偏25度の都城であったことが発掘調査で確認されていたことを
発見(8/30)。さらにこのアイデアと発見を『古代に真実を求めて』出版記念講演会(9/1)
で公表し話題となる。これに加えた私が、中国の漢魏洛陽城が東偏5度であることと、
佐川英治著「中国中古の都城設計思想と天の祭祀という論文によって、「皇帝の権威
を高めるために都の北に地の神を祭る地壇(方形)、南に天の神を祭る天壇(円丘)を
作るようになったのは後漢の時代で、それが後漢洛陽城であることを確認。この段階で
は自然地形を利用して地壇と天壇は築かれたが、北魏洛陽城になると、宮の真北真南
に人工的に地壇・天壇を築くようになったために、都が正方位に作られ始めた。この北
魏洛陽城の設計思想が、隋唐に引き継がれた」との学説があることを確認(9/2)。ここか
ら肥沼さん主唱の「方位の考古学」がはじまる。肥沼さんは全国の遺跡から東偏5度
の遺跡を集め始める。
 注:訂正。北魏ではまで正方位ではない。地壇天丘ともに自然地形なので東偏。しかし
この時期に地壇ー王宮ー天丘を貫く都の軸線が出現し、これを中心にした方形街路が
できる。この思想を隋が継承し、さらに地壇・天丘を人工物にしてこの軸線を正方位にし
天子南面を文字通りに実現した。したがって正方位の都は隋の時代に出現。

 9月5日に国分寺の図書館で、国分寺遺跡を精査。国分寺四中遺跡のすぐ東に国庁
ありとの可能性は否定される。そして国分寺の塔1の北に東西に延びる掘り込み地業が
確認されていた遺跡を報告書で確認。さらに東に延びるので僧房の可能性を確認。さら
に9月7日に府中ふるさと歴史館にて、塔1の南で見つかった南北区画溝がさらに南の
府中市域に延びているかどうかを確認。結論としては伸びていないのだが、この探査の
中で塔1の南90mで見つかった掘り込み地業(これは礎石建物の痕跡だ)のずっと南に、
現在確認されている国分寺・国府連絡路を同じ形の古代道路が、その東にあることを発
見。これこそ塔1を中心とした創建伽藍に繋がる参道跡である可能性と、この参道のす
ぐ南に武蔵国庁があった可能性を発見。ここから「国分寺創建伽藍と初期武蔵国庁の
復元」を書き上げる(9/8)。

以後は府中市域の遺跡の悉皆調査を行い、東偏・正方位・西偏の建物群の出現順を、
遺構の柱穴の重なり具合で確かめる作業に移行する。

7:9/14 第七回府中研究会
 この間の研究で出てきた課題。
 1:寺地区画溝と思われる二つの溝の報告書での確認。
2:参道と考えられる三つの道路遺構と溝の報告書での確認。
 以上で創建伽藍の復元は完成。あとは瓦の編年の再検討だ。
3:国庁は発掘されていないので手の付けようはない。
4:国府に伴う官衙遺構の年代の再検討。対称は第四中学校遺跡・武蔵台東遺跡・武
蔵台遺跡・武蔵台一丁目道路建設に伴う遺跡。この四つ。報告書を見る限りでは9世
紀から11世紀と判断されている模様。本当にこれで良いか再検討。
5:正方位での多摩郡衙(評衙)以前の東偏多摩郡衙とその市街の復元と年代の判定。
 このうちの2・4・5に手を付ける。

8:9/21 第八回府中研究会 肥沼さんが失念して欠席。
 ※この日から肥沼さんが、奈良文化財研究所のデータベースを使用して奈良県古代
寺院の方位調査を開始。この作業をネットを通じて一緒にやっていくなかで、奈良県の
古代官衙遺構は、それまでは東偏だったのに、6世紀末以降は西偏に変更し、それが
7世紀中ごろ以後(後に正しくは7世紀末)に正方位に変更したことを川瀬が確認(10/8)。
近畿天皇家は6世紀末から九州王朝と異なる政治的動きをしていたことが遺構からわ
かる。以後奈良文化財研究所のデータベースに基づいて、近畿地方全体の古代遺跡
の方位精査を進めることとなる。

9:10/12 第九回府中研究会
10:10/17 第十回府中研究会
 国衙遺跡における正方位と東偏建物の関係、区画Aの遺跡調査報告の確認、国衙
遺跡北方の西偏四面廂建物の遺跡調査報告の確認。

11:10/31 第十一回府中研究会
 府中市の発掘調査概報の悉皆調査開始。東偏・正方位・西偏の建物群の重なり具
合から、その出現年代を確定するため。
 ※11月6日より、古代遺跡の方位悉皆調査は、「夢ブログ」から「多元的国分寺研究
サイト」へ移動。

12:11/14 第十二回府中研究会
 悉皆調査続き。「武蔵国分寺」の出土遺物まとめ報告書の軒丸瓦精査から国分寺の
歴史を復元したものを報告。
 1:6世紀末から7世紀中ごろの時期に塔1を中心として正方位の伽藍が創建された。
この伽藍は最初はとても原始的な素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれていたが、次にと
ても均整のとれた美しい素弁蓮華文軒丸瓦に一度葺き替えられた。その後おそらく火
災で塔1を残して焼失。
 2:743年に聖武詔で七重塔を建てることになった際に、焼損したが焼け残った塔1を
解体して塔基壇を拡大して七重塔として再建した。そして火災で焼けた創建伽藍の遺
構を避けて(理由は不明)、その西側に西偏7度の軸で金堂などの主要伽藍を作った。
このとき塔1も金堂なども平城京系の素弁蓮華文軒丸瓦などで葺かれ、創建伽藍の区
画溝を利用して、現在確認されている国分寺ができた。これが750年代のこと。
 3:平安時代に「神火」で塔1が焼失したので、新たにその西に同規模で塔2を「再建」
した。この際に屋根に葺かれたのは蓮華文の中心が巴文の瓦。
 4:その後鎌倉幕府滅亡に伴う戦乱で国分寺全体が焼損したことに伴い、伽藍の修
繕が行われたが、その際に講堂は解体され、基壇も拡大して金堂と同規模のものに再
建された(このときの瓦は不明)。

13:11/28 第十三回府中研究会
 悉皆調査続き。

14:12/12 第十四回府中研究会
 悉皆調査続き。「クルル鉤」発見の報告書を見つける。場所は区画Bの西南。後日
(12/19)再度府中歴史館に赴き、関連の報告書を精査。この鉤の見つかった遺構は国
府上級官人の家と考えられ、年代は平安時代後期。この遺構の南側、高安寺付近に
平安時代後期の国庁機能をもった役所が存在した可能性を示す。ここから国庁の移動
が明確に。
 1:初期国庁(国分寺のすぐ南)⇒2:多摩郡衙へ国庁機能の移動⇒3:多摩郡の有力
者居宅へ国庁機能の移動。
 1は九州王朝時代の末期。評制の時代。この初期国庁は「国府寺」ともども未完成で
あった可能性大。2は近畿天皇家時代。奈良時代から平安時代初期。この時代に本来
郡庁である建物群が大改造されて、大規模な二重の区画溝に囲まれた方100mほどの
大規模な官衙となり、正殿も礎石建物で床が專敷の華麗なものになる。おそらく武蔵国
分寺金堂院はこの時代の産物。3は王朝国家が衰微した10世紀以後中世のもの。おそ
らく初期国庁の南で郡庁の西側にあった多摩郡の有力豪族の館(おそらく武蔵国造で
多摩郡大領であった豪族)の館周辺に国庁機能が移動。これが今回見つけた遺構とそ
の南側。この時代に暗闇祭りがはじまり、国庁の神社である大国魂神社の神輿を中心
として武蔵国の一宮から六の宮の神輿が国庁の前に集まり、国司から礼拝を受けたの
ではないでしょうか。

15:12/26 第十五回府中研究会
 悉皆調査続き。

16:1/11 第十六回府中研究会
 悉皆調査続き。国司館遺跡の検討。
※国分寺追加調査(1/18)。国分寺市図書館にて、国分寺北方遺跡の調査。正方位の
初期伽藍に伴う工房遺跡の可能性確認。ここから「国寺」の墨書土器が出ている。これ
は国分寺は当初は「国寺」と呼ばれていた可能性を示している。つまり武蔵国寺。略し
て武蔵寺。

17:1/23 第十七回府中研究会
 悉皆調査続き。

18:1/30 第十八回府中研究会
 悉皆調査続き。国衙遺跡の北門が東偏していることを発見。

19:2/8 第十九回府中研究会
 悉皆調査続き。区画AでN2=奈良時代Ⅱ期(726~750年)の東偏が見つかった。
つまり関東の土器編年は100年ずれていることを確認(この時期までに長野が50年ず
れ、群馬県が100年ずれていることを確認し、武蔵も同じだろうと推測していた)。

20:2/13 第二十回府中研究会
 悉皆調査続き。

21:2/20 第二十一回府中研究会
 悉皆調査続き。

22:2/27 第二十二回府中研究会
 悉皆調査続き。発掘調査概報の精査は終了。次回は国衙遺跡を再確認。

23:3/8 第二十三回府中研究会
 国衙遺跡の再確認。

24:3/15 第二十四回府中研究会
 悉皆調査続き。前回コピーした「武蔵国衙跡1・本篇」の読み合わせ。この遺跡
の年代と推移を報告書で確認。
 ●「武蔵国衙」遺跡について
 総括的な報告書を精査したことで、この遺跡の変遷がよくわかりました。
1:竪穴建物群 7世紀後半~8世紀初頭
2:東偏の掘立柱建物群
3:正方位の掘立柱建物群
4:正方位の、根石付の掘立柱建物群:柱穴に瓦あり=国分寺造営期8世紀中ご
ろの瓦。
5:正方位の礎石建物群(瓦葺・一部の床は專敷):礎石建物付近に国分寺塔再
建期9世紀中ごろの瓦。

 2がまったく無視されているが、これが東偏の多摩評衙。時代は7世紀後半~8
世紀初頭。⇒6世紀後半から7世紀初頭。
 3・4が九州王朝時代の正方位の多摩評衙。時代は8世紀初頭から中ごろ。⇒
7世紀初頭から中ごろ。
 5が近畿王朝時代の武蔵国庁。時代は9世紀中頃。⇒8世紀中頃。
 全部年代を100年遡らせると実態にあう。
 3・4の時に北方2.7キロに南北ほぼ正方位の東山道武蔵路沿いに武蔵国府と
武蔵国寺・尼寺が正方位に作られ、これにともなって多摩評衙も正方位に作り変え
られたのではないか。国府がある評の中心だから、他の評の評庁は東偏のままだっ
たが、ここは国府と一体に正方位になったのではないか。
 この動きに伴って東偏の多摩評衙の東にあった多摩寺(多摩評寺)も多摩評衙の
すぐ北側、東西道を挟んだ北側に正方位で再建されたのではないか(方形区画C:こ
こに大型製鉄遺跡がある)。国衙建設・国分寺建設に伴い多摩寺は衰微と遺跡から
判断されている。
 そして4-5の間に、北方の正方位の国寺と国府が何らかの理由で(国寺の塔1に
火災の跡があるので火災による焼失か)建設途中で廃絶してしまったので(100年動
かした実年代で考えると白村江敗戦の時期と重なるので、建設途中での火災かも)、
実質的に武蔵国の国府機能を担ってきた正方位の多摩評衙を大規模に改造して国
府として再建したのではないだろうか。これが大型の礎石・專敷・瓦葺正殿の出現と
大規模な二重の区画溝の出現ではないのか。
 この国府の移動によって従来多摩評衙の西側に北の国府からの連絡路があったの
を東に移動して、新たな国府北門の正面に太い南北の連絡路を建設。そしてこの間に
地元の多摩郡の豪族(郡の大領ら)によって、武蔵国寺の西に西偏7度で再建されて
いた武蔵国寺と、この南北の太い連絡路との連絡道が作られたのではないか。
 またこの国庁の移動にともなって、多摩郡の郡庁が北方に移動したか?
 場所は「国衙」遺跡のすぐ北側で南北連絡道の西にある、西偏の大規模な四面廂
建物群か、さらに西側の区画Bか。
  今後確認したいこと。
1:国衙遺跡内の柵列の報告書での確認。時代は特定できるかな?
2:国衙遺跡のすぐ北側の、区画C遺構の確認と時代の判定(竪穴建物の年代からは
8世紀前半以後)。
3:国衙遺跡のすぐ北側の、西偏の四面廂建物群の遺構の確認と年代の判定。
4:国衙遺跡西方の区画B遺跡の遺構の確認と年代の判定。
5:国衙遺跡東方の区画A遺跡の遺構の確認と年代の判定(たしか8世紀第二四半
期との報告をコピーした?)
 以上五点を確認したいものです。(1は削除)

25:3/20 第二十五回府中研究会
 国衙遺跡周辺の官衙遺跡の年代確認。
 ▼各地区の年代と性格について。

●区画B:国衙遺跡の西北。区画溝と内部の掘立柱建物双方とも西偏。南に開いた
コの字型の建物配置。氷室や大型井戸有。ということで官衙遺構でもしかしたら、郡
衙か郡の正倉院。年代は9世紀中頃までに廃絶。
 この遺構のすぐ西側・区画溝に接した地帯に、西偏の大きな多面廂の建物二つ
(1033次発掘)。この建物の北側東側に広い畑と思しき畝あり。したがってこの西偏
の大きな多面廂の建物が郡の高級役人の役宅か。

●区画Bの西南、1033次の大型建物の南側に、東偏の多面廂の大型建物(1062次
発掘)。ここから役所の門や倉庫の鉤としてつかわれる「クルル鉤」が出土。年代は平
安時代初頭の竪穴建物群を掘立柱建物が壊しているので、平安時代中ごろ以降か?
この建物のさらに南、東西を走る府中街道に面した箇所あたりに、平安中頃から鎌倉
期の武蔵国庁があった可能性あり。

●区画E:国衙遺跡の府中街道を挟んだ北側。国分寺とつながる幅12mの南北道路に
面したところ。大型の区画溝に囲まれた官衙と思しき遺跡。大きな正方位の掘立柱建
物あり。また北東部に国府域最大規模の製鉄遺構あり。年代は8世紀初めの竪穴建
物群が集まったところを壊して掘立柱建物群出現。したがって8世紀中ごろの官衙遺
構。9世紀中頃には内部に多数の竪穴建物群が出現するので、この時期には廃絶か。

●区画A:国衙域の北東にある東偏の区画溝に囲まれた東偏の官衙。巨大な井戸あ
り。時代は8世紀第一四半期と。

 したがって
1:区画Aとその南の多摩寺とその西の国衙域の東偏官衙遺構はすべて同じ年代。8
世紀初頭。100年あげて7世紀初頭。国衙域の東偏官衙が多摩評庁なら、区画Aが多
摩評督の役宅で、多摩寺は多摩評寺。すべて九州王朝時代。

2:区画Eの正方位の建物群と国衙域の正方位の掘立柱建物群はほぼ同じ8世紀中ご
ろのもの。
 100年年代をあげれば7世紀中頃となり、九州王朝時代の最後。この時期の初期国
庁が国分寺のすぐ南にあったとしたら、国衙域の正方位の建物群が多摩評庁で、その
道路を挟んだ北側の区画Eは多摩評督の役宅か?

 このEの北側と西側にも多くの大規模な多面廂の建物を伴う官衙群が存在する。
 二つの南北道に挟まれた国衙域の北側には「多研」と墨書された硯の土台出土。こ
こも多摩郡庁と推定されている。いつの時代の多摩郡庁なのか。
 国衙域の正方位の掘立柱建物群が正方位の礎石瓦葺建物に建て替えられたのが
9世紀中頃までとされている。100年時代をあげれば8世紀中頃聖武朝あたり。これが
奈良時代の武蔵国庁であれば、ここにあった多摩評庁⇒郡庁は、そのすぐ北側に移
動したか? この箇所の官衙群の年代を知りたい。

 以上が先週と昨日の府中研究会で確認した各官衙遺構の年代とその性格について
の分析。
 次回は国衙遺跡の北側の官衙遺構群の時代と性格を確認したい。これで府中の官
衙遺跡の分析は終了。

26:3/27 第二十六回府中研究会
 国衙遺跡北側の西偏四面廂建物の年代確認。8世紀中ごろから9世紀。西偏7度。
100年年代を上げれば7世紀中ごろから8世紀初。九州王朝から近畿王朝への移行期
。国分寺金堂院や熊野神社古墳と同じく西偏7度。移行期に多摩郡の有力者がこの地
に国庁機能を移したのか。

以上の研究からの府中における古代官衙の歴史は以下のようになる。
1:6世紀後半から7世紀初頭。
 九州王朝治下の東偏官衙群。
 ・区画A:多摩評衙か多摩評督の館。
 ・国衙遺跡の下にある東偏官衙:多摩評衙かこれに伴う官衙。
 ・多摩寺:多摩評寺。
 この近くに多摩評衙に伴う東偏の正倉院があるはず。候補地としては多摩寺の東方。
 ※この時代に上野国府と武蔵国府を結ぶ東山道武蔵路が作られる。

2:7世紀初頭から中ごろ。
 九州王朝治下の正方位の官衙群。
 ・国衙遺跡の正方位掘立柱建物群:多摩評衙。
 ・その北区画E:多摩評督館。
 ・区画Bの正方位総柱建物:多摩評衙に伴う正方位の正倉院。
 ・東山道武蔵路に添う二つの寺院:
   塔1を中心とした四天王寺式伽藍:武蔵寺。  武蔵国分尼寺:武蔵尼寺。
 ・武蔵寺南方の大規模官衙?:第一期武蔵国庁。※この国庁と国寺周辺に大規模
な正方位の工房群。

3:7世紀末から8世紀初頭。
 九州王朝から近畿王朝への過渡期における地方豪族(多摩郡大領か?の作った
官衙群。
 ・官衙遺跡の北側の西偏7度の四面柱建物を中心とした官衙遺構=元は多摩評
衙に伴う正方位の官衙群のあった場所:武蔵国庁の機能を移す。
 ・武蔵国分寺の西偏7度の金堂院:何らかの理由で消えた武蔵国寺の再建。
 ※この多摩郡大領の墓と思しきものが、西偏7度の玄室を持った熊野神社古墳。
 ※武蔵国寺初期伽藍と武蔵国庁はともに火事で塔を除いて焼失か?

4:8世紀中ごろから9世紀中ごろ。
 近畿王朝治下の正方位の官衙群。
 ・国衙遺跡の正方位の礎石瓦葺建物群:元多摩評衙だったところに武蔵国庁を正
式に移し、国府の体裁を伴った大規模官衙に改造。
 ※これに伴い多摩郡衙は、国衙遺跡北側の西偏四面廂建物を中心とした官衙群
に移動。その西にある郡の正倉院も西偏で整備(区画B)。
 ・武蔵国分寺金堂院の再整備。聖武詔に伴い塔を七重に改造。南に移った国庁
との連絡路を国庁から北に延びた南北路に結合。

5:9世紀中ごろ以降。
 近畿王朝の律令制国家が衰微した時期。
 国家の統合力が弱る中で、国庁そのものが衰退し消失。国庁機能は多摩郡の豪
族の館に移動。
 ・高安寺東の坪宮から北上した道路と国衙遺跡の北の東西道路の交点付近:武
蔵国庁と多摩郡衙の機能を併せ持った官衙(多摩郡豪族館)?
 ・その北の東偏大型四面廂建物:国庁と郡衙機能をもった官衙の現地官人の館
(「クルル鉤」出土地)。

6:鎌倉時代以後
 国庁と郡衙機能共に廃れ、武蔵府中の中心は国衙跡に作られた六所宮(大国魂
神社)に移動。


 以上で研究会は終了。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

また「幅を短く改行」版もありがとうございます。
これでアップさせていただき,「決定版」ということにしたいと思います。

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