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2019年4月 6日 (土)

「方位の考古学」とは何か?

 

 

「方位の考古学」とは何か?

 

「方位の考古学」という新しい考古学の方法で研究しています。

今は国家が「どのような方位で建物を建てろ」などと命令することはありませんので,

信じられないと思いますが,古代にはそういうことが行われ,

実際都や都市,国府や国寺(のちの国分寺)などでは,その指示に従って建物が建てられてきました。

 

歴史上,敵対する相手を殺し,建物を焼き,書類を焼けば,「勝者が歴史を改ざんすること」が可能だ

(完全犯罪できる)とも考えられてきました。そして,多くの人は今でもそれを信じています。

しかし,放射性炭素測定法や年輪年代法などの開発によって,その常識は崩されようとしています。

地域によっては,現在比定されている年代が大きく遡るという事実も出てきているのです。

(弥生時代の開始が,大きく移動した)

 

私たちの提唱する「方位の考古学」は古代における二大権力(九州王朝と近畿王朝)が,

どのような歴史をたどったかを地面の下に探るものです。

具体的に言うと,掘立柱建物の穴や礎石・根石,柵の穴や堀の方位から,

その時期にはどういう権力のどんな時期だったのかを推理します。

九州王朝の「東偏→正方位」と近畿王朝の「(九州王朝の東偏)→西偏→正方位」

という変化を捕まえるのです。

 

その結果,典型的な泉官衙遺跡(福島県)の変遷を,九州王朝の東偏→正方位→

白村江の戦いの配線・滅亡→近畿王朝の正方位→律令制の崩壊による衰退のような

いくつかの段階に「歴史の物差し」を思い描くことが出来ました。

また,泉官衙遺跡ほどではなくとも,その時期にどのような変化が予想されるかも

おおよそわかりました。(東京都府中市=武蔵国府について調査したのが,府中研究会です)

それによれば,地域によっては土器編年で100年以上の狂いが生じていると考えています。

 

これは,741年に出された聖武天皇の「国分寺建立の詔」が,

国分寺の実体と大きくかけ離れ,歴史をゆがめているのとよく似ています。

実際「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉は1回も出てこず,

(すでに建てられている九州王朝の国寺に加えて)七重塔を造れ。

そうしたら,金泥の経を納めよう」と言っているように読めるのです。

国分寺跡からは,少なくない白鳳時代の瓦が出土し,

どうして詔の50年以上前の瓦が出土するのだろうと不審に考えられ,

「これはきっと地元の豪族の私寺なのだ」で思考停止することに陥っているのです。

 

日本書紀に従って一元史観で歴史を考えることをやめ,九州王朝説をはじめとする多元史観により,

日本列島の本当の歴史が明らかにできると考えています。ぜひご理解・ご協力をいただければ幸いです。

 

(昨日の川瀬さんの「府中研究会の歩み」を受けて,これを掲載いたしました)

 

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【南相馬に躍動する古代の郡役所~泉官衙遺跡】

 

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-8b9e.html

 

【泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!】

 

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/10/post-e73e.html

【2つの王朝の「方位」の変遷(改訂版)】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/12/post-9384.html

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