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2019年4月 8日 (月)

「エビノコ郭」の堀(2)

飛鳥宮の「エビノコ郭」に深さ1mほどの堀があったという話を先日書いたが,

その幅については書いていないということだった。(『古代国家形成の舞台・飛鳥宮』)

ところで,そのページには写真が出ていて,深さから見て,1.5~2mくらいと思われた。

Img_2020

つまり,「エビノコ郭」を畳1枚を横に立てたくらいの規模の堀が,

ぐるっと囲んでいたということであり,

九州王朝の天皇を幽閉には格好の条件だということだ。

(堀に水が入っていたかどうかはわからないが・・・)

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 エビノコ郭の周囲に深さ幅共に1mと少しの堀がめぐらされている。この事実を元に肥沼さんは、これは九州王朝の天子を幽閉したものと断定しています。
 でもよく考えてください。
 府中の多摩郡衙や国府付属の建物群はみな、これと同程度の規模の堀で囲まれています。国分寺も同様です。
 したがってこの程度の規模の堀は、堀で囲まれた地域が神聖な区画であることを示すものであって、中に住む人を幽閉するものではないと思います。
 肥沼さんの思考は飛躍のしすぎ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

これは「出口が西門だけ」という最初の条件の上に,
さらに加わるものだということです>
他の巨大建物は門(出入り口)が2つ以上あるものは少なくないのではのではないでしょうか?

肥沼さんへ

 私の一番の疑問は「幽閉」という語を肥沼さんが使っていることです。
 幽閉というのは一か所に閉じ込めて他との交渉をさせないことです。しかしこのとき九州王朝天子は文字通りまだ天子であり、彼の命がないと全国に命令できません。したがって新しい令を出したり詔勅を出したり、この時代でもまだ九州王朝の天子は近畿天皇家の監視下ではありますが活動していたわけです。
 後岡本宮のエビノコ郭は立派な宮殿仕様です。ここに住んだかどうかは不明ですが、少なくとも令を出したり詔勅を出したり、さらに高級官僚を任命したりと、そうした儀式を行う場であったと思うのです。ただ近畿天皇家の意志に反することができないように、行動を監視され制限されていたと思うのです。
 この意味でこれは「幽閉」ではなくて、「軟禁」状態。天子として行動はできるが監視下に置かれていたということ。
 だから行動を制限するために門が一つしかないのじゃないかな?
 区画溝は宮殿に伴うものですから、行動を制限することとはかかわりがないと思います。
 そしてもう一つ大事なことは、この「エビノコ郭」宮殿は天子が常に居するばではなく、いわば「行宮」。九州の天子が都を一時的に離れ、遠く近畿天皇家の領域に御幸した途中の滞在場所なのではないかと考えます。これは前期難波宮の東方官衙も同じです。
 というのは持統紀に九州王朝の天子が伊勢に行幸して神宮を参拝し、その後大和の宮=藤原宮に入ったと読める記事があります。
 この旅はこれに関連した万葉集に採用された柿本人麻呂の歌からみて、出発地は九州の筑紫だと思います。筑紫から一路海路で伊勢に向かった。ということは「エビノコ郭」や「東方官衙」に一時滞在した九州王朝天子は一旦は九州の都に戻ったのではないか。そして九州王朝の天子のための新たな都城=藤原京が完成したので、再び大和に向かい、その旅の途中足を延ばして伊勢神宮に参拝して祖先に報告をしたうえで、ここからは陸路藤原京に向かったのではないかと考えます。
 こう考えていくと、「エビノコ郭」も「東方官衙」も天子の一時的滞在の宮=行宮と考えるのが良いと思うのです。
 ただし行動は制限しなければいけません。だからこの二つの大規模宮殿は出入り口が一か所という特異な形態なのではないでしょうか。

 肥沼さんが使用した「幽閉」という語では、こうした私の理解にはつながらないのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんが使用した「幽閉」という語では、こうした私の理解にはつながらないのです。

拉致とか保護とか,これまでいろいろ言葉を当ててみましたが,
きつすぎたり緩すぎたり,しっくりいかないので「幽閉」としました。
「軟禁状態」「近畿王朝の監視下」という言い方でしたら私も賛成です。

川瀬さんへ
質問です。
「東方官衙も出入り口が1つ」というのは,
どこから得られた情報ですか?
全体の発掘図があるのでしょうか?

肥沼さんへ
 奈文研のデータ
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104997-83213/up.jpg
 全体の発掘はされていませんが、出位置口が西の一か所ぽくありませんか? 東方官衙の南北棟の大きな建物のある一角です。

 幽閉について。
 歴史上有名なのは平家による後白河法皇の鳥羽殿幽閉。
 彼の治天の君としての権限のすべてを取り上げ、側近ですら清盛が許した人しか鳥羽殿に伺候出来ず、事実上の監禁状態。
 幽閉だとこのイメージです。
 もう一つあげれば北条氏による後鳥羽上皇の隠岐における幽閉です。
 個々はもう少し自由があって、国府を訪ねたり有力者宅で歌会をおこなったりとできましたが、治天の君の権限を取り上げられ、側近の面会も許可されなかった。
 幽閉にはこうした歴史的凡例があるので、ちょっと適当ではないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

その図だと,よくわかりませんが,南側に五間門があります。
今から「夢ブログ」に『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』(新泉社)の拡大図を載せますね。

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