「国分寺建立の詔」を読んだことがありますか?
「続日本紀」の聖武天皇のところに,「国分寺建立の詔」が出ている。741年のことだ。
皆さんは読んだことがあるだろうか。
私はたぶん,内容を読んだことがなかったと思う。
「741年,聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す」という受験用知識は覚えても,
その内容までは覚えてもしかたがないからだ。
しかし,多元的「国分寺」研究をしようとする者が,その基礎史料であるこの詔を読んでいないとあっては,
片手落ち,どころか「両手落ち」に等しい。私は研究の第一歩として,読んでみることにした。
インターネットで検索すればすぐに読むことができる。あなたもぜひ読んでほしい。現代語訳も付いている。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html
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これを読んだ時,私の中に「おやっ!」と閃(ひらめ)くものがあった。
国分寺建立の詔だから,国分寺という言葉が何回も出てくると思っていたら,
なんと1回も出てこないのである!(金光明四天王護国之寺という言葉は出てきても,国分寺はない)
そして,私は次の文章を「夢ブログ」に書くこととなった。
すなわち,「「国分寺」はなかった!」である。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2016/01/post-cfec.html
※ この題名は,古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』のマネである。
氏の場合は,三国志「魏志」倭人伝の中には,邪馬台国はなく邪馬壹国 とあることに着目し,
私の場合は,「国分寺建立の詔」の中には,国分寺はなく金光明四天王護国之寺とあることに目を付けた。
実は,国分寺と金光明四天王護国之寺はイコールではないのである。(次第に後者は前者に変貌していくが・・・)
(つづく)
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