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2019年4月22日 (月)

九州王朝の天皇は,「近江国府」の東郭にいた!(かも)

平井美典著,『藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁~近江国府』(新泉社),

1500円+税を入手した。

九州王朝の天皇の近畿での「居場所」探しのためである。

白村江の戦いから,日本国の成立までを,

川瀬さんは以下のようにまとめていたと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)倭国(九州王朝)敗戦(663年)。
(2)近畿王朝開始(667年)。
(3)近畿王内の権力闘争(天武クーデター、672年)。
(4)日本国建国(倭国失権、701年)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

となると,九州王朝の天皇はまず,(1)と(2)の間に近畿に連れてこられたのではないか。

つまり,近江朝は「隠し玉」として九州王朝の天皇を連れてきていて,それゆえ権力を握っていたということだ。

(もちろん古代官道の日本古代ハイウェーも,通行手形としての駅鈴も管理)

だから,天武がクーデターを起こした時,駅鈴が使えなかったりしたのだ。

しかし,有力者たちは天武の方を支持した。だから,あっという間に勢力が増大した。

(それが「方位の考古学」からも言えると思う。東偏→西偏→正方位)

そして,近江朝を倒した天武は,もっとも価値のある「戦利品(人)」として

九州王朝の天皇を飛鳥に移動させた。(エビノコ郭がその証拠)

そして,難波京の「東方官衙」,藤原京の「?(ただいま捜索中)」と移動して,

最後に平城京では日本国が成立した後であるから,「引退(用済み)」となった。

では,エビノコ郭に連れて行かれる前は,九州王朝の天皇はどこにいたのか?

これは当然出てくる疑問だと思う。

私は最近まで,「もう近江京の遺跡が残っていないのではないか」と諦めていたのだが,

今回新しい資料を見つけ,もしかしたら・・・というので上記の本を紹介する。

                 ※

最初に私がそうかもしれないと考えたのは,「近江国府」のすぐ隣にある「東郭」である。

本の題名が「藤原仲麻呂~」ということで時代をかなり後に想定してしまうところだが,

「方位の考古学」で年代をずらすことが可能なら,いけるかもしれないと思っている。

では,何枚か写真を紹介しつつ話を進めよう。

Img_2230

まず,表紙の菊花紋の鬼瓦と軒丸瓦である。16弁あるので,現在の天皇家と同じ枚数だ。

藤原氏と近畿天皇家は深いつながりがあるから,これは当然かもしれない。

あとで,違う弁数の菊花紋軒丸瓦が出てくるので,よく覚えていてほしい。

Img_2231

Photo_7

問題の「東郭」の位置は,国庁の真横にある。東にあるから東郭。

西郭はおそらく近江国庁の付属官衙であろう。

(もしかしたら,東郭のご主人の付属施設かもしれないが)

まず驚くのは,東郭の主殿の大きさである。7間×4間の規模。

そして,この建物は木造外装基壇という特別な作りなのだ。

つまり,基壇の外側が木で作られている。(彫刻がしてあったともいわれる。

例としては,平泉の毛越寺と鎌倉の永福寺くらい。「天下人」が住む場所といった趣である)

またさらに,「基壇遺構の南と西から5cm大の河原石を敷いた石敷き遺構が検出され,

外周が玉石敷舗装がされていることもわかった」とのことである。

もうお気づきの方もおられると思うが,この東郭の出入り口は南口のみ,

北側と東側には「目隠し」のためと思われる塀もある。

Img_2236

さてここで,一番最初に見た菊花紋の瓦の弁の数を思い出していただくことにしよう。

正解は,16枚。現在の天皇家の十六菊花紋と同じだということであった。

ところで,上の3枚目の写真の上に登場しているのだ菊花紋の弁数を数えてみてほしい。

先ほどとは違い,弁数が12で,4弁少ないのだ。

しかも,これは「創建堂宇に使用されていた」そうなので,古いものなのだ。

実は以前,私は,九州王朝の紋が「十二弁菊花紋」ではないか,と書いたことがある。

 ★12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2016/01/post-7e58.html

(1)熊本県の江田船山古墳の銀象嵌鉄剣の手元の方に刻まれている

(2)九州王朝の貨幣と思われる「無紋銀銭」には十二菊花紋を刻印したものがある

(3)九州王朝の版図と考えられる長門国(山口県)の祠には,十二菊花紋,十六菊花紋が混在している

などという証拠が見つかっていたからだ。

ここでまた,十二弁の菊花紋の例に出会うことになった。

私は,「十二菊花紋→十六菊花紋」への変化は,文字通り,「九州王朝→近畿王朝」への変化であると考える。

思いついたまま書いてきたので,わかりにくいかもしれないが,

最後までお読みいただきありがとうございます。

Img_2237

これまで60年,滋賀県は,私にとって不幸にも,「ただ新幹線で通過する県」であった。

36年間務めた教育現場を離れた今,自由に現地を散策し,

多元的古代の研究をさらに進めようと思っているところだ。

 

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コメント

肥沼さんへ

1: 一か所間違っています。
川瀬さんは以下のようにまとめていたと思う。
(1)倭国(九州王朝)敗戦(663年)。唐進駐軍占領統治。
(2)近江朝開始(倭国分王朝、667年)。
(3)大和朝台頭(天武クーデター、672年)。
(4)日本国建国(倭国失権、701年)。

 2の近江朝を私は「倭国分王朝」とは言っていません。これでは古賀さんや正木さんと同じです。ここから近畿王朝が始まるとしたのです。
 だから壬申の乱は近畿王朝内の権力闘争。
 また唐進駐軍占領統治も私は否定しています。これは古田さんの史料の読み間違いに基づく壮大な幻想です。

2:近江国府に壮大な東郭があることは初めて知りました。奈文研のデータベースでもこのことはちゃんと記されています。
 かなり特別な施設。それも8世紀後半期のもの。仲麻呂の時代ですか。誰のための施設ですかね?
 通常考えれば天子行幸のための施設じゃないかな。つまり孝謙天皇。

 肥沼説の根拠はここから出た12弁の菊紋の軒丸瓦ですね。ただ時代が違います。この時代まで九州王朝天子が軟禁されていたとは思えません。ましてやここは国府です。そして時代を100年遡らせることはこの地では無理でしょう。
 近江朝時代に九州王朝天子が軟禁されていたとすれば、それは大津京のどこかです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉1: 一か所間違っています。

以下のように変えさせていただきました。

(1)倭国(九州王朝)敗戦(663年)。
(2)近畿王朝開始(667年)。
(3)近畿王内の権力闘争(天武クーデター、672年)。
(4)日本国建国(倭国失権、701年)。

〉2:近江国府に壮大な東郭があることは初めて知りました。奈文研のデータベースでもこのことはちゃんと記されています。
 かなり特別な施設。それも8世紀後半期のもの。仲麻呂の時代ですか。誰のための施設ですかね?
 通常考えれば天子行幸のための施設じゃないかな。つまり孝謙天皇。
 肥沼説の根拠はここから出た12弁の菊紋の軒丸瓦ですね。ただ時代が違います。この時代まで九州王朝天子が軟禁されていたとは思えません。ましてやここは国府です。そして時代を100年遡らせることはこの地では無理でしょう。
 近江朝時代に九州王朝天子が軟禁されていたとすれば、それは大津京のどこかです。

もちろん私も年代が合わないとは思っています。
ただ,「九州王朝の天皇の隠し場所」ということを考えて,ここにたどり着きました。大津京の発掘の状況は,どうですかね?また,初期近江国府が作られた時,12弁菊花紋の瓦が使われた訳ですが,年代はどれくらいになるのでしょうか?

肥沼さんへ
 以前滋賀県の古代遺跡を精査したとき、ここもほぼ大和と同じ傾向を示していたので、年代は土器や瓦で出した編年で良いという結論になりました。
 要するに滋賀県も畿内・大和の影響下の地域。
 したがって発掘の結果として8世紀中頃と出たのですからこれに依拠するしかありません。
 したがって8世紀中ごろの初期近江国府の東郭に12弁の菊の紋が使われたということは、この時期近畿王朝もまた九州王朝と同じ紋を使っていたということを示します。そして同じくここから16弁の菊の紋が出ているということは、近江国府が健在の間のどこかの時期で近畿王朝が独自の紋である16弁菊花紋を使い始めたということを意味します。
 16弁菊花紋の紀元を考える一つの史料でしょう。
 大津京の発掘はまだまだほんの一部です。奈文研のデータベースで確認してください。

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