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2019年3月 9日 (土)

府中研究会 3/8

昨日も,ふるさとチョイス府中歴史館で例会を行った。

さっそくパソコンを使って,メール開通のための捜査。
試行錯誤しつつ,最後はニフティーにパスワードを送ってもらうところまで行った。
また,秋津駅の近くの修理センターも,教えていただいた。
やれることがあると,とことんやる行動力は研究者の最高の資質ですね。
ありがとヴざいました。でも,突然の自宅訪問はちょっと勘弁願いたいところです。

そのあと,東偏<正方位<西偏の切込みの例を復習し,
集計の仕方の方針(官衙遺跡や有力寺院,地域の有力者の居館が中心)の確認。

その他の話題。

・北テキの北魏が,6世紀前半に洛陽で正方位を実現(東偏にとらわれず,人口の丘を築く)したのに対して,
東夷の倭国(九州王朝)もやがて正方位を太宰府で実現していく。512年,九州年号の開始や律令も作る。
各地に屯倉の設置もしていった。

北魏(北朝)
 ↓
洛陽に都 建康に都
        (南朝) 

・6世紀(500年代)に中国の動きと相まって.九州王朝の日本列島制圧が始まってい。
各地に道路(まだ直線・幅広ではない)と駅家の整備.屯倉の設置,そして「東偏」政策。
孝徳紀に屯倉から宮への昇格記事あり。   

・難波宮・・・後期・前期・下層(東偏)の地層が重なる。
・朝堂院様式は,孝徳ではまだ早く,実験を握った天武(近畿への移行期)でないと無理。
・論争史から学べることは多い。しかし,論争中の両者には書けない。
・ある意味.郡評論争は「ONライン」論争でもあった、

・日本書紀を読み解くために・・・主語を変えている。九州王朝の天子→近畿の天皇
          ↓         地名を変えている。浪速→難波・淡海(有明海)→近江(滋賀県)
                    ・川内(熊本県)→河内(大阪府)
・しかし,年代は動かしていないのではないか?

・九州王朝の天子の居館・・・難波宮の東方官衙・飛鳥宮のエビノコ郭・藤原京の中心部(南朝風)
藤原京の時点で「政権移動」が決定」し,近畿王朝は自らの大極殿を持つ平城京の建設を開始した。(710年)
・一方.九州王朝の復活をかけて,「山沢亡命」する記事が,707年.708年,717年の3回登場する。

川瀬さん.訂正・付け足しを願います。

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コメント

一か所訂正です。私の認識間違い。北魏のこと。
北魏の王が皇帝として即位したのは398年。道武帝。
北魏の次の皇帝・太武帝による華北統一が442年。
北魏の次の皇帝・孝文帝による平城(大同)⇒洛陽遷都が493年。つまり北魏による正方位の首都洛陽建設はこのあとですから、5世紀の末から6世紀の始めです。
 華北を統一した北魏が黄河中流域の洛陽に都を移したことは、南朝を滅ぼして中国統一の意志を示したこと。これが東アジアに激震をもたらした最初です。
 このあと534年に北魏は東西に分裂し、再び華北が統一されたのは577年。西魏をほろぼした北周の武帝。
 この北周を乗っ取って581年に建国された隋が南朝をほろぼして中国を統一したのが589年。

 つまり再び中国に巨大な統一王朝ができるのではないかとの恐れを東アジア諸国に及ぼした事件は
1:北魏の華北統一と洛陽遷都(442年~493年)
2:北周による華北統一(577年)
3:隋による中国統一(589年)
 この三つの画期があるわけです。
 この1と2の間に倭国が行ったことが、年号の採用と、列島各地への屯倉の設置とこれらと都を結ぶ街道と駅家の設置という形での列島統一王権へ向けた動きだったわけです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 (肥沼) 日本書紀の中に「屯倉」がどれくらい.どの時期に出てくるか,
全文検索してみました。
14ページにわたり,79個出てきました。
そのうち.安閑天皇~宣化天皇が43個で過半数を占めました。

日本書紀の安閑天皇~宣化天皇が5世紀(400年代)のことだとすると,
「1:北魏の華北統一と洛陽遷都(442年~493年)」とピタリ重なりますね。
そういう意味では,日本書紀が「年代はずらしていない」という気がします。

肥沼さんへ
>日本書紀の安閑天皇~宣化天皇が5世紀(400年代)のことだとすると,「1:北魏の華北統一と洛陽遷都(442年~493年)」とピタリ重なりますね。
 これはありえません。彼らの父の継体の年代が530年代なのですから、その直後です。

 だから
>この1と2の間に倭国が行ったことが、年号の採用と、列島各地への屯倉の設置とこれらと都を結ぶ街道と駅家の設置という形での列島統一王権へ向けた動きだったわけです。
 としたわけです。
 つまり中国での南北統一への動きの最初の波は493年から577年なわけ。この間に継体の時代も含めてぴったりあっている。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「1と2の間に入る」ということだったのですね。
どおりで合わないと思いました。

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