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2019年3月16日 (土)

『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』

難波宮の「東方官衙」に,飛鳥宮の「エビノコ郭」みたいなのがあるということで,
上記の本(積山洋著,新泉社,2014年,1500円+税)を買った。

Img_1461

写真で紹介していこう。

(1) 前期難波宮復元図~全体像です。この中にいろいろな情報が詰まっている・・・かも

Img_1463

(2) 中心部の寸法図とCG復元~七間門の巨大さ,複廊,2つの八角建物,2つの内裏(前殿と後殿の
2つに分かれ,しかも塀で区切られ,南の前殿の方が規模が大きい)

Img_1465

(3) 東方官衙(新段階)~注目の四面庇建物のある東方官衙。石敷舗装されているところも「エビノコ郭」似だ

Img_1466

(4) 宮城西部五間門(謎の宮城西部)~西部官衙もその門の変遷が謎だらけ。地面には証拠が残されていた

Img_1471

「謎の宮城」というのは本書の著者が書いたもので,本当に困っているのだろう。こんな変遷が書いてある。

(1) まず簡素な門が南北三等分上の二カ所に計画されたが,なぜか埋め戻してしまう。
(2) つぎに同じ2カ所に桁行五間で梁行二間の「五間門」が竣工している。
(3) その後,門と堀が撤去され,築地と石組溝が設けられた。
(4) ただ,その内部は後世の攪乱によりほとんと不明で,桁行六間以上の掘立柱建物の一部と井戸などが
みつかった程度である。井戸から重圏文軒瓦が多数出土している。桁行五間の門といえば朝堂院南門と同じであり
格式の高い門である。塀と門が撤去されのちに築地に替わるとすれば,その内部の重要性は言うまでもない。

※ 井戸があるということは,儀式の場というより「生活の場」であったということである。いったい誰の?

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コメント

 宮城西部五間門(謎の宮城西部)。一体なんでしょうね。
 記述の中にある「重圏文軒瓦」というのは、聖武朝の難波宮で初めて使われた瓦で、その後は平城宮などでも使われるようになった瓦です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

東方官衙と謎の宮城西方を次のように考えてみました。
東側が儀式用施設で,西側が生活施設。
両方とも九州王朝の天皇の施設という訳です。

【宮城西方】  東側が出口  →   西側にも出口? 【東方官衙】
(生活施設)            ←             (儀式用施設)

五間の門                            石敷舗装
桁行六間以上の掘立柱建物(当然庇付?)        桁行七間の四面庇 
井戸あり(重圏文軒瓦出土)                 五間の門(南側)

肥沼さんへ
 遺跡状況を勘違いしていますよ。
 「重圏文軒瓦」が出土したということは、この宮城西部の「官衙」は、奈良時代中ごろ聖武期の後期難波宮に付随した施設です。奈文研の難波宮から後期難波宮の遺構配置図をみると、この西部官衙があります。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104997-85041/up.jpg
 聖武の時代ですから九州王朝天子がいたとは思えません。

 後期難波宮でも東方官衙が残っており、この対の位置にある二つの大きな門をもった「官衙」がなんであるのかが謎だということでしょう。
 考えられることは、後期難波宮が聖武の次の孝謙女帝の時代も存続したと思うので、内裏より立派な区画ということは、実質的なトップである聖武上皇の行宮だったのではないでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

前期の「東方官衙」と後期の「五間門区画」をくっつけて考えていた

ということですね。
すっぽり「後期難波宮」の図を抜かしていました。
どうもすいません。
でも,井戸は「後期」の図に出てこないですね。

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