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2019年3月16日 (土)

府中研究会 3/15

昨日も,ふるさと府中歴史館で例会をした。

パソコンのことで少し時間を撮った後,
「武蔵国衙跡1・本篇」の読み合わせ。
年代判定の根拠がどこにあるのか,それをつかむためだ。
読んでいくと,竪穴住居にしろ,瓦にしろ,土専(せん)にしろ,
苦しい言い訳が目立ち,専門家も苦労しているようだ。
やはり結論を先に決めてしまっているので,
まさか武蔵国分寺と初期国府が接していたなんて,想像だにしないのだろう。
しかし,「国府」内に区切りの木塀のようなものがあるという新知見を入手したので,
確認する必要があるだろう。

その他の話題。

・ 672年の壬申の乱以降,近畿王朝は九州王朝の天子を,
拉致(よく言えば保護)していたのではないかという話になった。
だから,以降の詔勅は近畿王朝が出させたもので,
その場合には「主語有無」でいうと「主語なし」で表現されているのではないかと・・・。

・ 建物で言うと,「エビノコ郭」。これは「主語なし」なので,九州王朝の天子が建てさせたもの。
ただし,近畿にいてもらう方が都合がいい訳だから,近畿王朝は喜んで建てただろうが・・・。

・近江京→飛鳥京→難波京→藤原京となれば,20年以上に渡っての拉致(保護)になるが。
その前に,白村江の戦いも入ってくる。ということは,薩夜麻は天子ではない?(皇太子?)。

このあたり,川瀬さんにお願いします。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

●「武蔵国衙」遺跡について
 総括的な報告書を精査したことで、この遺跡の変遷がよくわかりました。
1:竪穴建物群 7世紀後半~8世紀初頭
2:東偏の掘立柱建物群
3:正方位の掘立柱建物群
4:正方位の、根石付の掘立柱建物群:柱穴に瓦あり=国分寺造営期8世紀中ごろの瓦。
5:正方位の礎石建物群(瓦葺・一部の床は專敷):礎石建物付近に国分寺塔再建期9世紀中ごろの瓦。

 2がまったく無視されているが、これが東偏の多摩評衙。時代は7世紀後半~8世紀初頭。⇒6世紀後半から7世紀初頭。
 3・4が九州王朝時代の正方位の多摩評衙。時代は8世紀初頭から中ごろ。⇒7世紀初頭から中ごろ。
 5が近畿王朝時代の武蔵国庁。時代は9世紀中頃。⇒8世紀中頃。
 全部年代を100年遡らせると実態にあう。
 3・4の時に北方2.7キロに南北ほぼ正方位の東山道武蔵路沿いに武蔵国府と武蔵国寺・尼寺が正方位に作られ、これにともなって多摩評衙も正方位に作り変えられたのではないか。国府がある評の中心だから、他の評の評庁は東偏のままだったが、ここは国府と一体に正方位になったのではないか。
 この動きに伴って東偏の多摩評衙の東にあった多摩寺(多摩評寺)も多摩評衙のすぐ北側、東西道を挟んだ北側に正方位で再建されたのではないか(方形区画C:ここに大型製鉄遺跡がある)。国衙建設・国分寺建設に伴い多摩寺は衰微と遺跡から判断されている。
 そして4-5の間に、北方の正方位の国寺と国府が何らかの理由で(国寺の塔1に火災の跡があるので火災による焼失か)建設途中で廃絶してしまったので(100年動かした実年代で考えると白村江敗戦の時期と重なるので、建設途中での火災かも)、実質的に武蔵国の国府機能を担ってきた正方位の多摩評衙を大規模に改造して国府として再建したのではないだろうか。これが大型の礎石・專敷・瓦葺正殿の出現と大規模な二重の区画溝の出現ではないのか。
 この国府の移動によって従来多摩評衙の西側に北の国府からの連絡路があったのを東に移動して、新たな国府北門の正面に太い南北の連絡路を建設。そしてこの間に地元の多摩郡の豪族(郡の大領ら)によって、武蔵国寺の西に西偏7度で再建されていた武蔵国寺と、この南北の太い連絡路との連絡道が作られたのではないか。
 またこの国庁の移動にともなって、多摩郡の郡庁が北方に移動したか?
 場所は「国衙」遺跡のすぐ北側で南北連絡道の西にある、西偏の大規模な四面廂建物群か、さらに西側の区画Bか。

 「国衙」遺跡の内部にみつかった東西南北の柵列は、3・4の多摩評衙時代のもので、区画内のそれぞれの建物の機能が別なので場所を分ける役割をしていたのではないのか。そして5の時代になって武蔵国庁がこの場に移ってきて大規模に改造された際に、この柵列は撤去され、区画内を広い前庭に変えたのではなかろうか。

 以上のように考えます。
 今後確認したいこと。
1:国衙遺跡内の柵列の報告書での確認。時代は特定できるかな?
2:国衙遺跡のすぐ北側の、区画C遺構の確認と時代の判定(竪穴建物の年代からは8世紀前半以後)。
3:国衙遺跡のすぐ北側の、西偏の四面廂建物群の遺構の確認と年代の判定。
4:国衙遺跡西方の区画B遺跡の遺構の確認と年代の判定。
5:国衙遺跡東方の区画A遺跡の遺構の確認と年代の判定(たしか8世紀第二四半期との報告をコピーした?)
 以上五点を確認したいものです。

●7世紀後半の九州王朝天子の所在と地位について
 近畿の大王が天子を拉致(保護)したのは壬申の乱以後ではなくて、白村江の敗戦以後だと思います。だから天智の近江京が名目的には九州王朝天子のためのものと判断できる。
 飛鳥岡本宮のエビノコ郭や前期難波宮の東方官衙は九州王朝天子が「建てさせた」ものではなく、近畿の大王が建てて、そこに天子を置いた(幽閉?)と考えるべき。
 書紀の記事では飛鳥岡本宮のエビノコ郭と考えられる建物の記事は「九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。」とあります。「車駕」にて戻って伊勢桑名に宿したのは、天武と読まれていますが、「車駕」という単語は天子の乗り物ですので、これは天武が九州王朝天子を戴いてともに伊勢桑名に宿したと読むべき。そして桑名⇒鈴鹿⇒阿閉⇒名張⇒嶋宮⇒岡本宮へと彼らは移動した。そしてこの年に岡本宮の南に宮室を「造営」したとあるところも主語省略なので名目的には九州王朝天子の命。実質は天武の命。
 このように私は書紀原文を読みました。

 このときの九州王朝の天子は誰かという問題。
 一つは古田説。白鳳年号が白村江を挟んで続いていることから、ここは天子の交代はない(661-683)。そして近畿の王斉明の事績に九州王朝天子の事績が重ねあわされているから、この白鳳年号の時代の天子は女帝ではないか。古田さんは「斉明・さいみょう」と呼んだ。朱雀に年号が変わったところで天子が後退しているかも。
 だからこの古田説にしたがえば、薩夜麻は天子ではない、皇太子。
 書紀天智紀は、斉明紀の最後で斉明の死とともに天智も大和に引き上げたとしたのに、いきなり天智紀冒頭で皇太子が戦に向けて指揮を執ったように書く。この「皇太子」こそ薩夜麻。
 彼の帰国は、天智天皇10年(671年)11月10日。
 このあと彼がどうなったのか、そして683年の朱雀改元と同時に即位した新九州王朝天子はだれなのか。これらについてはまったく資料がないので今のところ判断できません。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ●「武蔵国衙」遺跡について
 総括的な報告書を精査したことで、この遺跡の変遷がよくわかりました。
1:竪穴建物群 7世紀後半~8世紀初頭
2:東偏の掘立柱建物群
3:正方位の掘立柱建物群
4:正方位の、根石付の掘立柱建物群:柱穴に瓦あり=国分寺造営期8世紀中ごろの瓦。
5:正方位の礎石建物群(瓦葺・一部の床は專敷):礎石建物付近に国分寺塔再建期9世紀中ごろの瓦。
 2がまったく無視されているが、これが東偏の多摩評衙。時代は7世紀後半~8世紀初頭。⇒6世紀後半から7世紀初頭。
 3・4が九州王朝時代の正方位の多摩評衙。時代は8世紀初頭から中ごろ。⇒7世紀初頭から中ごろ。
 5が近畿王朝時代の武蔵国庁。時代は9世紀中頃。⇒8世紀中頃。
 全部年代を100年遡らせると実態にあう。
 3・4の時に北方2.7キロに南北ほぼ正方位の東山道武蔵路沿いに武蔵国府と武蔵国寺・尼寺が正方位に作られ、これにともなって多摩評衙も正方位に作り変えられたのではないか。国府がある評の中心だから、他の評の評庁は東偏のままだったが、ここは国府と一体に正方位になったのではないか。
 この動きに伴って東偏の多摩評衙の東にあった多摩寺(多摩評寺)も多摩評衙のすぐ北側、東西道を挟んだ北側に正方位で再建されたのではないか(方形区画C:ここに大型製鉄遺跡がある)。国衙建設・国分寺建設に伴い多摩寺は衰微と遺跡から判断されている。
 そして4-5の間に、北方の正方位の国寺と国府が何らかの理由で(国寺の塔1に火災の跡があるので火災による焼失か)建設途中で廃絶してしまったので(100年動かした実年代で考えると白村江敗戦の時期と重なるので、建設途中での火災かも)、実質的に武蔵国の国府機能を担ってきた正方位の多摩評衙を大規模に改造して国府として再建したのではないだろうか。これが大型の礎石・專敷・瓦葺正殿の出現と大規模な二重の区画溝の出現ではないのか。
 この国府の移動によって従来多摩評衙の西側に北の国府からの連絡路があったのを東に移動して、新たな国府北門の正面に太い南北の連絡路を建設。そしてこの間に地元の多摩郡の豪族(郡の大領ら)によって、武蔵国寺の西に西偏7度で再建されていた武蔵国寺と、この南北の太い連絡路との連絡道が作られたのではないか。
 またこの国庁の移動にともなって、多摩郡の郡庁が北方に移動したか?
 場所は「国衙」遺跡のすぐ北側で南北連絡道の西にある、西偏の大規模な四面廂建物群か、さらに西側の区画Bか。
 「国衙」遺跡の内部にみつかった東西南北の柵列は、3・4の多摩評衙時代のもので、区画内のそれぞれの建物の機能が別なので場所を分ける役割をしていたのではないのか。そして5の時代になって武蔵国庁がこの場に移ってきて大規模に改造された際に、この柵列は撤去され、区画内を広い前庭に変えたのではなかろうか。
 以上のように考えます。

最初の頃には思いもよらなかった歴史がわかってきて,不思議な気持ちです。

〉  今後確認したいこと。
1:国衙遺跡内の柵列の報告書での確認。時代は特定できるかな?
2:国衙遺跡のすぐ北側の、区画C遺構の確認と時代の判定(竪穴建物の年代からは8世紀前半以後)。
3:国衙遺跡のすぐ北側の、西偏の四面廂建物群の遺構の確認と年代の判定。
4:国衙遺跡西方の区画B遺跡の遺構の確認と年代の判定。
5:国衙遺跡東方の区画A遺跡の遺構の確認と年代の判定(たしか8世紀第二四半期との報告をコピーした?)
 以上五点を確認したいものです。

まだ,これらが残されているのですね。
コピーを確認しなくてはいけませんね。

〉 ●7世紀後半の九州王朝天子の所在と地位について
 近畿の大王が天子を拉致(保護)したのは壬申の乱以後ではなくて、白村江の敗戦以後だと思います。だから天智の近江京が名目的には九州王朝天子のためのものと判断できる。
 飛鳥岡本宮のエビノコ郭や前期難波宮の東方官衙は九州王朝天子が「建てさせた」ものではなく、近畿の大王が建てて、そこに天子を置いた(幽閉?)と考えるべき。
 書紀の記事では飛鳥岡本宮のエビノコ郭と考えられる建物の記事は「九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。」とあります。「車駕」にて戻って伊勢桑名に宿したのは、天武と読まれていますが、「車駕」という単語は天子の乗り物ですので、これは天武が九州王朝天子を戴いてともに伊勢桑名に宿したと読むべき。そして桑名⇒鈴鹿⇒阿閉⇒名張⇒嶋宮⇒岡本宮へと彼らは移動した。そしてこの年に岡本宮の南に宮室を「造営」したとあるところも主語省略なので名目的には九州王朝天子の命。実質は天武の命。
 このように私は書紀原文を読みました。
 このときの九州王朝の天子は誰かという問題。
 一つは古田説。白鳳年号が白村江を挟んで続いていることから、ここは天子の交代はない(661-683)。そして近畿の王斉明の事績に九州王朝天子の事績が重ねあわされているから、この白鳳年号の時代の天子は女帝ではないか。古田さんは「斉明・さいみょう」と呼んだ。朱雀に年号が変わったところで天子が後退しているかも。
 だからこの古田説にしたがえば、薩夜麻は天子ではない、皇太子。
 書紀天智紀は、斉明紀の最後で斉明の死とともに天智も大和に引き上げたとしたのに、いきなり天智紀冒頭で皇太子が戦に向けて指揮を執ったように書く。この「皇太子」こそ薩夜麻。
 彼の帰国は、天智天皇10年(671年)11月10日。
 このあと彼がどうなったのか、そして683年の朱雀改元と同時に即位した新九州王朝天子はだれなのか。これらについてはまったく資料がないので今のところ判断できません。

本当に「拉致(保護)」を入れると,筋が通るように思えますね。
壬申の乱以降→白村江の戦い以降に変えてみます。

追伸:ココログ改正のあおりで書き込めなかったコメント

※柵列というのは読み間違い。建物の側柱列がつながっているというのが報告書の記述。
 したがって今後確認したいことの1は削除。

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