歴史の解明を促進する「方位の考古学」
古代史の解明には,文献と考古学の両方が必要である。
これは何も多元史観の人たちだけでなく,
一元史観の人も否定しないだろう。
だから何か出土物が出ると,
日本書紀のこれこれに当たるのではないかと
新聞でも取り上げられたりする訳だ。
しかし,遺物というのは危険も伴う。
1つの遺物は移動可能なものが多く,
運ばれたらおしまいだからだ。
そこで,類似の遺物の大量出土が効果を発揮する。
たとえば,近畿中心に銅鐸圏があったり,
その西に銅剣・銅矛・銅かの文化圏があることが古くから知られている.。
その考古学の歴史解明の方法を,
さらに促進すると思われるのが「方位の考古学」という新手法だ。
その内容を簡単に言えば,
「国家の意思は,方位を刻んだ地中の穴や礎石等に残され,
地上の人間が殺されようとも,建物や文献が燃やされようとも,
頑固に歴史の真実を刻み続けている」ということだ。
私たちは,古田武彦氏によって,九州王朝説や
7世紀と8世紀の間に画期(ONライン)があることを教わってきたが,
それを発展させて,九州王朝内での画期を刻んでいる地下に注目して,
多元史観による歴史解明の素晴らしさを皆さんにわかってもらいたいと思う。
5世紀・・・中国南朝の都の方位だった「東偏」に倣い,倭国・九州王朝は各地の直轄地等に「東偏」を命令する。
6世紀・・・,南朝側であった倭国・九州王朝は,北朝つまり中国の伝統で言えば北テキ(ほくてき=北方の野蛮人)にすぎない北魏の王が天子を名乗り都を「正方位」に変えた(王都の設計思想として、文字通りに天子が南面する形をとった)ことがきっかけで,6世紀半ばから末に「正方位」にする。「東夷=東方の野蛮人である我も天子を名乗れるし、名乗るべきだ」と考えたのではないだろうか。やがて来たるべき北朝による中国統一に備えて・・・。
九州年号(512年)を定め始めたり,律令を取り入れたり,のも6世紀のことである。
7世紀・・・太宰府を首都にして,,中央集権国家を志すが(7世紀半ば),白村江の戦いで唐・新羅に敗れ滅亡する。
(この間近畿王朝は,「西偏」に方位を変えてしまう。「西偏」は,唐に逆らわない方位だからである)
8世紀・・・九州王朝滅亡のあとを受けて,近畿王朝は「正方位」をサイズアップして君臨。律令制を敷く。
9世紀以降・・・律令制の衰えと共に「正方位」は「西偏」や「東偏」に変化していく。
この動きをよく伝えている遺跡が,福島県の泉官衙遺跡で,変遷図があるので載せたい。
上の年表では,6世紀に作られ,9世紀に滅ぶ感じだ。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-841c.html
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肥沼さんへ
九州王朝が方位を正方位に変えたのは7世紀ではなく、6世紀半ばから末とすべきでしょう。また南朝が滅びたからではなくて、北朝つまり中国の伝統で言えば北テキ(ほくてき=北方の野蛮人)にすぎない北魏の王が天子を名乗り都を正方位に変えた(王都の設計思想として、文字通りに天子が南面する形をとった)ことがきっかけだったのではないでしょうか。530年代です。東夷=東方の野蛮人である我も天子を名乗れるし、名乗るべきだと考えたのではないでしょうか。やがて来たるべき北朝による中国統一に備えて。
投稿: 川瀬 | 2019年3月 2日 (土) 12:25
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
いつもお世話になっています。
6世紀のところを書き直させていただきました。
投稿: 肥さん | 2019年3月 3日 (日) 03:40