九州王朝の天皇は,白村江の戦い以降どこにいたか?
各地のいろいろな遺跡の発掘図を見ているうち.
こんなことを考えるようになってきた。
すなわち.「九州王朝の天皇は,白村江の戦い以降どこにいたのか?」だ。
また,天武は飛鳥宮にエビノコ郭を造り,難波宮に東方官衙を造り,
持統の時代には藤原宮の真ん中に特別区を造ったが,
その時どんなところにいたかと思ったのだ。
つまり,それらの場所には近畿の天皇(当時は大王)が住む
その格以上の御殿が建てられているのだ。
その御殿は゜ほかでもない,九州王朝の天皇のために
造られたものではないかと考えている。
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番号 誰が どこに 何を造った 大体の年代の予想 関係事件
(1) 天智 近江京 太い柱の御殿 663年くらい 白村江の戦いの敗北で拉致か
(2) 天武 飛鳥京 エビノコ郭(四面庇) 670年くらい
(3) 天武 難波京 東方官衙(四面庇) 680年くらい
(4) 持統 藤原京 南朝風の都 690年くらい
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それぞれの遺跡の発掘図を見ていただくと,さらに説得力があると思う。
古い順に見ていただくことにする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/近江大津宮
南東に位置するのが「エビノコ郭」である。
本体の飛鳥宮と比べて,いかに立派なものかがわかるだろう。
ここにふさわしいのは,白村江の戦いに敗れたとはいえ,
まだ日本の最高権力者だった九州王朝の天皇だったと考える。
東方官衙の中に四面庇の御殿が見えるだろうか。
これでも石敷舗装,五間門付きである。
ONラインによれば,700年前は近畿王朝自ら詔を出せなかっただろう。
それができるようになったのは,701年からだろうから,
それまでは九州王朝の天皇に出してもらっていたりのではないか。
そのためには,よく言えば「保護」,悪く言えば「拉致」をして,
「身体の自由」はなかったのではないかと考えている。
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