東アジアの動乱の中で,九州王朝は・・・(改訂版)
昨日の内容に川瀬さんのコメントを記入してみました。
倭国・九州王朝の列島統一の歴史が,
東アジアの動乱と深い関係を持つことが見えてくると思います。
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【中国の動き】 【倭国・九州王朝の動き】
1:北魏の華北統一と洛陽遷都(442年~493年)
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A 九州年号の採用と、列島各地への屯倉の設置と
これらと都を結ぶ街道と駅家の設置という形での
列島統一王権へ向けた動き
・全国的直線的道路網の建設開始始の可能性※
・分立する列島内王権の勢力削減※※
2:北周による華北統一(577年)
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B ・Cへの準備段階の政策
3:隋による中国統一(589年)
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C ・諸国の「国府」に国寺と尼寺を建立す
・607年,遣隋使の派遣
・ 国ー評制の全国施行と、そのための国の
境界の確立と評の境界の確立、そして
国府・評衙の建設と、全国的に直線的な
高速ハイウェイ=軍事道路の建設
4:唐による中国統一(618年)
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D ・630年,遣唐使の派遣
・645年,九州王朝の体制の「完成宣言」
・663年,白村江の戦い(敗北→滅亡へ)
・701年,近畿王朝の年号「大宝」の登場
※ 東山道武蔵路は7世紀第三四半期という年代が道路の横の祭祀遺跡(道路を建設する際に、
地の神に道路の安全を祈願したところ)から出土した土器の年代から判断されている。
これを「方位の考古学」によって100年上にあげれば、6世紀第三四半期に相当する。550年から575年。
※※ つまり九州天皇家に対抗できる王国や九州王朝内の有力な王族・豪族の力を削ぐということ。
この一つの現れが、「筑紫君磐井の乱」。これは九州王朝内の王族がその力を削ごうとの王朝の動きに反発して
起こした。そして負けてその拠点の筑紫の要地を屯倉として差し出した。
また他の一つの現れが、「武蔵国造の乱」だ。毛野君の傘下にあった武蔵国造家に内紛がおき、
北の国造家は毛野君と結び、南の国造家は九州王朝と結んで争った。結果として武蔵国造家は
北の国造家が継承したが、敗れた形の南の国造家の所領は九州王朝の屯倉とさせられ、
おそらくこの南の武蔵国造家は、この屯倉を管理する、九州王朝直属の官吏となってに違いない。
そしてこの争いによって毛野君の力は削がれ、やがて上毛野国にも下毛野国にも屯倉がつくられ、
本来一つの国だった(=古毛野王国)、武蔵・上野・下野の三国に分割される日がやってきたのだと思います。
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