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2019年2月28日 (木)

府中研究会 2/27

昨日は,まず「夢ブログ」で検討している
熊本県の鞠智城のことから始まった。

第Ⅰ期・・・東偏(もう九州王朝の東偏政策は始まっている)
第Ⅱ期・・・東偏の中に一部正方位(14号建物)
第Ⅲ期・・・礎石建物の出現。白村江の戦いに突入か
第Ⅳ期・・・近畿王朝の時代(正方位建物の数が4つに)
第Ⅴ期・・・地元豪族の支配か

その他の話題(一部)。

・『古代東国の地方官衙と寺院』をめぐる話題(新田郡家,下寺尾廃寺など)
・土器・瓦の編年の見直し(100年!)
・青銅器の分布(西日本・・・銅剣・銅矛・銅カ,近畿・・・銅鐸,東日本・・・銅鈴?)
・近畿を間にして,九州と関東が同じ文明を持っている(装飾古墳・縄文土器・葬送方式)
・統一政権の始期の早まり・・・3世紀。すると,神武東侵も九州王朝のその表れか
・中国が統一されると朝鮮半島や日本列島の統一も進み,中国が乱れるとその影響で乱れる
・九州王朝の中でも,主導権争うが当然あったし,近畿王朝の中でもあった
・熊襲とは,熊(熊本県南部)と襲(鹿児島県)のこと。物部氏が滅ぼしたか
・「大化の改新」は,九州王朝の列島統一の宣言か

※ 川瀬さん.訂正願います。

昨日で,発掘調査書(ダイジェスト版)の精査を終了した。ヽ(´▽`)/
最初は「永遠に続く道のり」に見えたが,時々の発見もあったりして,ここまで続けられた。

掘立穴の発掘記録

Img_0985

次回は,国府周辺と東偏・正方位・西偏の「切込み」遺跡の再確認を行う。
夏に始まった府中研究会も,秋冬を経ていよいよ春になろうとしている。(o^-^o)

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

>※ 川瀬さん.訂正願います。

 大きな間違いはありません。しかし説明不足なので補足します。

★列島統一王権はいつできたかとの問題

・青銅器の分布(西日本・・・銅剣・銅矛・銅カ,近畿・・・銅鐸,東日本・・・銅鈴?)
・近畿を間にして,九州と関東が同じ文明を持っている(装飾古墳・縄文土器・葬送方式)
・統一政権の始期の早まり・・・3世紀。すると,神武東侵も九州王朝のその表れか
 この三項目は一番下の「統一政権の始期」の問題にかかわって出てきたもので、魏志倭人伝の邪馬壱国が統合している範囲はかなり列島の大部分に広がっている。この女王国に対立した狗奴国が古田説に言うように大和盆地を中心とした銅鐸圏であるのならば、少なくとも西日本はすでに女王国に統合されている。ということは神武の「東征」はこの東の敵対国を服属させる試みということになり、3世紀にすでに倭国王権は列島統一に乗り出していたということ(卑弥呼と神武が同時代人との古田説に基づく)。
 となるとその銅鐸圏の東側の地域と女王国との関係はどうだったのか。
 銅鐸圏は西は淡路島あたり、東は東海地方だから、その東の関東甲信越は3世紀に女王国との関係はどうだったのか、という問題が出てくる。
 すでに縄文時代において熊本の縄文文化と関東の三浦半島の縄文文化が同じということは古田さんが指摘している。そして南関東の装飾古墳文化は同じく熊本の装飾古墳文化と同類であることも示されている。ではその前の弥生時代。卑弥呼の時代は弥生末期から古墳初期なのだが、この時期の関東甲信越と女王国の関係は如何に?
 こう考えると、女王国に統合された西日本は銅剣・銅鉾の文化地域で真ん中の近畿が銅鐸地域。では関東甲信越の弥生時代を代表する銅器は何かという問題がでてくる。古田さんは関東の古墳文化は銅鈴文化だと言ったが、では弥生時代はという問題だ。

★列島統一をめぐる騒乱

・中国が統一されると朝鮮半島や日本列島の統一も進み,中国が乱れるとその影響で乱れる
・九州王朝の中でも,主導権争うが当然あったし,近畿王朝の中でもあった
 これも一つの問題。私が主に論じたのは、近畿王朝が九州王朝を攻めたと理解される事績は書紀には二つある。
 一つは仲哀の遠征。もう一つは継体の遠征。
 継体の遠征は、反乱を起こした筑紫君磐井を討滅するために家臣の物部アラカヒ軍を遠征させた話。古田さんは最初は九州王朝天子である磐井に対する継体の反乱としたが、のちには反乱そのものを架空とされて否定した。だが私はこれは、九州王朝内の反乱で、天子に対して天子の一族である磐井が反乱を起こし、天子は筑紫から長門に逃げざるを得なかった。この乱を従えるために天子は、韓半島遠征軍と、継体を大和の大王にするために送っていた援軍である物部アラカヒ軍を呼び戻すことで、乱を起こした磐井を討滅したと読んだ。
 近畿天皇家の内部の反乱は、たとえば雄略王朝に対する継体の反乱と理解することもできる。
 そしてほぼ同じ時期に起きている関東の武蔵国造の乱も、九州王朝天子が列島の統一王権を目指して、分家も含む諸豪族の勢力を削減しようとする中で起きたことではないかと私は理解した。
 つまり西から、筑紫君磐井の乱、継体の乱、武蔵国造の乱はそうして統一王権強化に対する諸豪族の反乱だったと。

 そうすると仲哀の九州遠征の性格が未解決だ。
 古田さんは仲哀の皇后神功の事績の中に、筑紫の香椎宮を拠点とする筑紫女王の北部九州と韓半島南部の統一檀が挿入されているとされたが、仲哀の九州遠征そのものについては論じなかった。
 私はこれは九州王朝の分家である近畿天皇家による本家に対する最初の乱であったのではないかと思う。
 しかし失敗して仲哀は戦死し、その幼子を奉じた神功とそれを援助した九州王朝軍の連携によって、近畿の仲哀王権は討滅され、その幼子が大王に即位して、のちに応神とおくりなされた。こう理解すると良いのではないか。
 つまり仲哀の九州遠征もまた、列島の支配権をめぐる争いの一つだと。

★熊襲と物部氏の関係

・熊襲とは,熊(熊本県南部)と襲(鹿児島県)のこと。物部氏が滅ぼしたか
 書紀の景行紀にある九州一円征服譚は古田説にあるように、九州王朝の天子「前つ君」の事績だ。この話を読んで行くと、この王は宇佐を起点として九州東海岸を巡幸して日向まで赴く。その先にある敵国が「襲」国だ。そしてその先にあるのが「熊」国だ。この二つを征服した先にこの王がたどり着くところが、火の国の葦北の津。今の水俣だ。したがって「熊」国とは、今の熊本県・肥後国の球磨川地方のこと。そして「襲」国とは今の鹿児島県・薩摩大隅だ。
 この肥後南部の球磨川流域と薩摩北部の川内川流域を、この地が征服された以後に「河内国」と呼んでいたのではないか。宣化紀に諸国の屯倉の税を集積する倉庫を難波津に作って、各地の屯倉からそれぞれの重臣に命じて税を集めさせたとの記事がある。(おそらく近畿天皇家の事績と読める部分だけが書紀に採用されたのだろうが)物部アラカヒに命じられたのが「河内」国の屯倉。そして蘇我稲目に命じられたのが伊賀・伊勢の屯倉。
 前者の「河内国」は書紀では近畿の「河内」であるかのような書き方をしたが、実際は九州の河内ではなかったか。
 こう考える証拠の一つが、崇峻紀の物部守屋の乱の最後にでてくる、守屋の軍人の一人、捕鳥部萬。
 彼は守屋の難波館を守っていたがその後茅渟縣有眞香邑に向かいそこで朝廷軍に刃向って交戦と書かれている。
 そして朝廷軍の総帥として河内国司が出てくる。
 従来は定説派も古田学派も、難波は近畿の難波と読み、この捕鳥部萬の乱を近畿天皇家内の反乱と読んだ。さらに古田学派の中には、ここに捕鳥部萬を攻めたのが朝廷と書かれているのだから、すでにこの時期に河内は九州王朝の支配下にあったことを示し、さらに捕鳥部萬の遺体が切り刻まれて八か国にさらされたとあるので、畿内近国の八か国もすでに九州王朝の支配下にあったとする論すら出ている。
 だがこの難波館を九州王朝の中枢の難波にあったものと考えると、捕鳥部萬の乱は九州で起きたことであり、捕鳥部萬が逃げ込んだ茅渟縣有眞香邑は、畿内の河内ではなくて、九州の河内、すなわち今の薩摩川内と球磨地方の出来事であり、捕鳥部萬の遺体がさらされた八カ国とは九州王朝の畿内八か国なのではないか。
 こう考えてみると、捕鳥部萬とは隼人の武人ではなかったか。
 球磨と襲を平定した九州王朝の将軍が物部氏であったと考えるほかないと思う。
 河内国を九州南部と考え、ここを支配していたのが物部アラカヒと考えると、物部守屋と捕鳥部萬の乱のとらえ方は代わってくる。或る意味これも6世紀末における九州王朝の列島統一権強化に伴う反乱だったのかもしれません。

★大化改新がなぜ「大化」なのか

・「大化の改新」は,九州王朝の列島統一の宣言か
 私はこの「改新の詔」は、主語有無の論証から、九州王朝の統一宣言だと考えます。そしてこの詔群は書紀が記した年代に出されたもので、本来の年号は常色の時代。
 しかし書紀編纂時にこれを近畿天皇家の事績に見せかけるために常色の年号は消されたが、九州王朝から近畿王朝に列島支配権が移行したのが、九州年号の大化年代だったので、この年号を残すために改新詔」群の年代を「大化」としたのではないか。

 以上は私が書紀を原文で、主語有無の論証で読んでみて考えたことです。
 できるだけ早急に、書紀の新たな読みをまとめたいと思っています。

追伸
 大事なことが抜けました。
 昨日の話の一番重要なことは日本書紀の性格です。
 古田さんはこの書を偽造の書と呼びましたが、どこをどう偽造したかまでは明らかにしませんでした。
 実際は、近畿天皇家の事績に九州王朝の事績を都合よい部分だけ取り入れて作った歴史書で、主語を全て近畿天皇家であるかのように偽造したのです。
 したがって書かれてあることは、その内容も時期も事実だと判断できます。
 ただし読み方としては、近畿天皇家にとって都合の悪い事実は削除されていることが注意されるべきで、そのうえで、どの出来事が近畿天皇家の出来事で、どの出来事が九州王朝の出来事なのかを、主語有無の論証と難波は二つあることに注意して読み込むことが大切だとういうことです。
 先に肥沼さんが整理してくださったことは、この読み方で私が読んだ結果です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  大きな間違いはありません。しかし説明不足なので補足します。

この量は,とても「補足」というようなものではありませんね。

〉 追伸
 大事なことが抜けました。
 昨日の話の一番重要なことは日本書紀の性格です。
 古田さんはこの書を偽造の書と呼びましたが、どこをどう偽造したかまでは明らかにしませんでした。
 実際は、近畿天皇家の事績に九州王朝の事績を都合よい部分だけ取り入れて作った歴史書で、主語を全て近畿天皇家であるかのように偽造したのです。

主語有無の論証は,日本書紀の分析には欠かせないものだと思いますので,
ぜひよろしくお願いいたします。

再追伸

 先ほどの補足に間違いがありました。河内国のこと。
 宣化紀に記録される難波官家に諸国の屯倉の税を集めさせる記事では、河内国の屯倉から税を運ばせたのは阿蘇の君でした。阿蘇の君がなんで畿内の河内国を管轄しているのか。この疑問から、ここにいう河内国とは阿蘇の君が依る火の国の南にあるのではないかと推理した。
 そうすると薩摩川内がある。そしてこの北方で火の国の南部にあたる球磨川の地域も気になる。
 そこでここにいう河内国とはこの火国の南部の球磨と襲国の北部の川内を合わせた地方ではないかと推理した。
 したがって物部守屋の乱に続いておきた捕鳥部萬が逃げ込んだ茅渟縣有眞香邑も、畿内の河内のそれではなく、九州の河内と考えた。
 したがって出てきた結論が、そこに逃げ込んだ捕鳥部萬こそ襲国の勇者である隼人の武人ではなかったかとの推理がでてくるわけだ。そうすると物部氏と隼人の関係は如何にという問題が新たに出てくる。
 以上訂正でした。

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