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2019年2月 5日 (火)

「下野国府ー1,300年前の県庁ー」の東山道ルート

川瀬さんがコメントで紹介されていた上記のパンフをリンクしてみた。
東偏の推定地D(木下良さんの『国府』掲載)に目もくれず,
南側をスルーして,その後東進。
いかにも近畿王朝が作りそうなコースです。

私は東偏のD推定地の真ん中を通り,本国分寺に至る道が,
もともとの東山道だったのではないかと考えます。

「下野国府ー1,300年前の県庁ー」

http://www.maibun.or.jp/newsPDF/20120821.pdf#search=%27http%3A%2F%2Fwww.maibun.or.jp%2FnewsPDF%2F20120821.pdf%27

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>東偏の推定地D(木下良さんの『国府』掲載)に目もくれず, 南側をスルーして,その後東進。
いかにも近畿王朝が作りそうなコースです。

 この説明はおかしいです。
 肥沼さんは現在の下野国庁Ⅰ期を九州王朝の時代のものだと推定しています。であるならば、この国庁の南を東西に走っている直線的な東山道もまた九州王朝時代の産物ということになります。
 上の説明は、東偏の推定地D=九州王朝時代の下野国庁で、正方位の国庁=近畿王朝時代の国庁と考えて初めて成り立つものです。

>私は東偏のD推定地の真ん中を通り,本国分寺に至る道が,もともとの東山道だったのではないかと考えます。
 肥沼さんは古代道路を、九州王朝が隋・唐との対抗を考えてつくった「古代軍事道路」だったと考えてきたはずです。だからこそ地形などをかなり無視して直線的に作られたとも。
 しかし「東偏のD推定地の真ん中を通り,本国分寺に至る道」は地図で明らかなようにかなり折れ曲がっていて、どうみても直線的ではありません。
 この説明は、「東偏のD推定地」=九州王朝時代の遺構という推定と、「本国分寺」という地名に引っ張られた間違いだと思います。

 木下さんの著書「国府」に掲載された東山道推定位置は、まだ発掘が進んでいない時代の、地名を歴史地理学的に解析した知見に基づいたもの。そのご発掘が進んで、実際に古代東山道跡が各所で出てきたものに基づいて作られたのが、このパンフにある、下野国庁の南を東進する道。
 木下さんの著書の東山道推定位置が正しいとしても、それは下野国が置かれ国庁が建設される以前の東山道であって、その後国庁が今の位置に作られるとともに、九州王朝によって付け替えられたと考えることも可能です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

何本もの道があって,混乱してしまいました。

(1) 東偏のDに対応する道路・・・旧東山道(くねくねしている)

(2) AのⅠ期とⅡ期に対応する新道路・・・幅12mの直線的道路(新東山道)

この2つが九州王朝時代の東山道ということで。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(3) AのⅢ期とⅣ期(奈良時代)の時代の東山道(道幅次第にダウン)

(4) Bの「総社」に対応する平安時代の道路(道幅狭い)

(5) Eの「府中」に対応する鎌倉時代以降の道路(道幅狭い)

肥沼さんへ

 またまた新しい仮説を出しましたね。
 東山道に新旧があって、旧は直線道路ではなく(自然地形にそったもの)、新が直線の軍事道路だと。でもこれだと仮説に仮説を積み重ねているだけですよ。

 東偏のDに対応する東山道は、本国分寺に至る折れ曲がった道ではなくて、Dのすぐ南を北東に延びている想定東山道だと思います。
 このもともと直線的だった東山道を、正方位で国庁を作った際に、Dの南で東にまげて国庁の南を通す形に改造したのだと思います。正方位の国庁が九州王朝が作ったものなら、この改造も九州王朝です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 東偏のDに対応する東山道は、本国分寺に至る折れ曲がった道ではなくて、
Dのすぐ南を北東に延びている想定東山道だと思います。

Dと1.5キロも離れている道を、「Dのすぐ南を北東に延びている」と言われる理由が聞きたいです。
真ん中を貫くか,周囲にあるのが主要道ではないのですか?
あと,その道は北の印役神社とは反対の南側を通っていることも解せません。

肥沼さんへ

 なぜ主要道が官衙遺跡のすぐそばに無ければいけないのでしょうか。1.5キロ離れていてもそこにつながる接続道を設ければ問題はないはずです。多くの国庁遺跡を見てみれば、主要道がその真ん中を貫く例もあるが、少し離れたところを通る例もあるし、何キロか離れたところを通る例もあります。
 そして何より私が古国分に至る折れ曲がった道路を肥沼さんが東山道としたことに違和感があります。
 またなぜ印役神社の側を通ってなくてはいけないのですか。
 印役神社は国府の印をご神体として祀ったと考えられる神社で、その近くに国府があったということを示すだけです。主要道がその印役神社のそばを通るか通らないかは、実際の国府がどこにあったかを確定しなければわからないことです。

 肥沼さんの論は、
「東偏Dが九州王朝時代の評の中心官衙という仮説」を基礎とし、さらに「本国分」という地名は、本来ここに「国分寺=国府寺があったという仮説に依拠したものです。
 でも本国分という地名が、国分寺遺跡と国分尼寺遺跡も含む地域の地名であれば、この仮説は成立しません。そして東偏Dが本当に東偏の遺構であるという保証はありません。
 その上この二つを結び付ける道路は、どう考えても直線ではなく、地形にそって折れ曲がったものなので、肥沼さんがずっと主張してきた「軍事道路としての東山道」ではありえません。
 そこで肥沼さんは「旧東山道」なる仮説を持ち出してきて、自分の説を補強した。
 これは仮説の上に仮説を積み重ねたものにすぎず、どう考えても非論理的な展開です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  その上この二つを結び付ける道路は、どう考えても直線ではなく、地形にそって折れ曲がったものなので、肥沼さんがずっと主張してきた「軍事道路としての東山道」ではありえません。
 そこで肥沼さんは「旧東山道」なる仮説を持ち出してきて、自分の説を補強した。

川瀬さんは,九州王朝が幅12mの古代ハイウェーを建設する前に,
村と村をつなぐ,もっと細い道(旧東山道)があったとは思いませんか?
私はあったと思います。人々の生活と密着しているやつです。
それが,7世紀になって事態が変わり,直線の道路が必要になった。
それが,九州王朝が作った「軍用道路としての新東山道」です。
(前に,「東山道武蔵路の地下には,出雲に続く縄文道や弥生道があるのでは?」とも言いました)

〉  これは仮説の上に仮説を積み重ねたものにすぎず、どう考えても非論理的な展開です。

私は思いついたことを書くので,非論理的な展開もしばしば出てくると思います。
でも,私は素人ですから(研究者はそうはいかないでしょうが),
妄想とは言いませんが,「素人の直感」でブログに書きます。
もちろん打率は低いかもしれませんが,時々は当たることもあるでしょう。
多元的「国分寺」研究のスタートとなった「7度西偏」や「国分寺建立の詔には「国分寺」がないこと」,
九州王朝系の建物の東偏の多さから,中国にその淵源を求めたこと等,
私の思いつきをブログに書いたことがその出発点となりました。

私は思いつきをブログに書きます。もちろん全部が正しいなんて思ってはいません。
でも,私も多元的古代の読書やフィールドワークを始めてから30年が経つので,
少しはお役に立てることがあるのではないかと考え,毎日更新しています。

なお,これは私の考えですが,ブログのやり取りというのは,
その話題を書いた人で終わるのがいいと思っています。
そうしないと,キリがないからです。(荒らしの人は,よくこの手を使います)
私はよほどのものでない限りコメントは原則載せていますが。
いくらコメントしても内容が直らないのは,コメントの悪いせいではなく,
「人間はそんなに論理的には生きていない」ということだと思いますので,
(相手を怒らせておいて,心変わりしなさいというのは,やはり難しいですよね)
それがいやなら,自説を自分のブログで展開するしかないのでしょう。

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