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2019年2月25日 (月)

年表とグラフから,鞠智城の歴史を読む

以前載せた「鞠智城出土土器・瓦の生産地推定に関する基礎的研究(2015)」の
中に掲載されている年表とグラフを使い,鞠智城の歴史を考えてみた。

(1) 鞠智城の年表から

Img_0920

Img_0922

土器編年が100年ずれていると考えると,東偏にしたⅡ期が8世紀第1四半期を7世紀第1四半期に,
また,Ⅲ期の礎石建物の出現が7世紀第2四半期(九州王朝のピーク。白村江の戦い直前)となる。
さらに,Ⅳ期の7世紀末には礎石建物の大型化で近畿王朝に権力が移動する。
(100年と75年は迷うところではある)

Ⅴ期(8世紀後半~)には地元勢力の「礎石建物の再建」ということになり,
9世紀後半には鞠智城は廃絶したというのが,修正案。

(2) 出土した土器の量・質グラフから

Img_0924

このグラフのピーク(須恵器の割合も高い)は7世紀第4四半期~8世紀第1四半期であり
(近畿王朝の興隆の時期で一元説としてはそこにピークを持っていきたいところだろうが),
土器編年の関係で100年遡らせると,6世紀第4四半期~7世紀第1四半期,
75年なら7世紀第1四半期~7世紀第2四半期となり,白村江の戦いの前に移動する。

その後の7世紀第3四半期~7世紀第4四半期は敗戦での荒廃。
8世紀になって,近畿王朝が使用(須恵器の割合高い)するがやがて途絶え,
律令制が崩れ始めると8世紀末には地元勢力が使用(土師器多い)した。
9世紀半ば以降に廃城。土器の量と質から見ても,建物の変遷と同じような歴史をたどる。


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コメント

肥沼さんへ

 建物データで調べてみると、礎石建物の出現はⅢ期ではなくてすでにⅡ期で出現しています。例の八角形建物の周辺の東偏建物群の中の総柱建物です。
 Ⅱ期が100年土器編年を遡らせて7世紀第1四半期。方位の考古学からするとここは正方位になっているはずなので、もしかしたら土器編年は125年後ろにずれているかもしれませんね。
 正方位建物の出現はⅢ期ですので、125年遡らせれば7世紀第一四半期になり、方位の考古学のテーゼとぴったり合います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

明日の府中研究会で詳しく教えて下さい。
私の場合,画面でのやりとりは,大変手間が掛かるものですから・・・。

肥沼さんへ

 訂正です。土器編年のずれは100年です。
 正方位の建物を全て調べてみました。
 Ⅰ期:なし すべて東偏
 Ⅱ期:14号建物。総柱の掘立柱建物
 Ⅲ期:なし
 Ⅳ期:13号総柱掘立柱建物。11号・12号礎石総柱建物。60号・61号側柱掘立柱建物。

 Ⅱ期の編年が8世紀第1四半期。100年遡らせると7世紀第一四半期。九州王朝時代。
 Ⅳ期の編年が8世紀第4四半期~9世紀第3四半期。100年さかのぼさせると7世紀第四四半期から8世紀第三四半期 近畿王朝時代。
 礎石建物の出現はⅢ期です。7世紀末葉~8世紀第1四半期前半。100年遡らせて6世紀末葉~7世紀第一四半期。
 例の八角形建物はⅡ期からⅢ期ですので九州王朝時代です。

 前の鴻臚館遺跡と併せて、九州地方は土器編年を100年動かすと実態に合うと思います。
 以上訂正でした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  前の鴻臚館遺跡と併せて、九州地方は土器編年を100年動かすと実態に合うと思います。

これでまた,「方位の考古学」の研究が進みましたね。
練習はうそをつかない・・・いや,「方位はうそをつかない」ですかね。

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