楽天が斗山ベアーズに快勝!
楽天が斗山ベアーズに快勝した。
斗山010000010計2
楽天001001220計6
安樂、ハーマン、ブセニッツ、高梨、福山 - 山下、石原、下妻
【練習試合のため,勝ちは付かず】
岩見 ソロ、茂木 ソロ、ヒメネス 2ラン
【練習試合のため,記録には残らず】
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楽天が斗山ベアーズに快勝した。
斗山010000010計2
楽天001001220計6
安樂、ハーマン、ブセニッツ、高梨、福山 - 山下、石原、下妻
【練習試合のため,勝ちは付かず】
岩見 ソロ、茂木 ソロ、ヒメネス 2ラン
【練習試合のため,記録には残らず】
本日,これまで母が確定申告の際お世話になっていた会計事務所に,
母の分と私の分の資料を入れた。
ここまでやればほぼ私の仕事は終わったと思う。
昨年の場合,お金の流れがイマイチわからないということで,
私が関係する預金通帳を示したところ,それでOKとなった。
今年はそれを見越して,指摘されそうなお金の流れを示すために,
最初から母と私の預金通帳を持参して対応した。
特に昨年の場合,いくつもの大きなお金の流れがあって,
(1) 旧アパートを壊して,残っているローンを,母の生命保険の解約などで埋め.た。
(2) その跡地に,新々アパートを建てた。(そのための資金借り入れと私の退職金での土地購入)
(2) 私の退職翌年の税金の増大。(聞いてはいたが,これほどとは・・・)
確定申告は,収入と支出がつじつまが合っていることがポイントなのだろう。
とりあえず,2月中にここまでやれたことを今年は祝おう。(o^-^o)
楽天が大敗した。だが,見るべきものもあったそうだ。
ロッテ000012603計12
楽 天000000000計0
西口、久保、青山、戸村 - 嶋、石原
【練習試合のため,勝ち負け付かず】
先発の西口は,4回まで0点に抑えたそうだ。
ぜひローテーションに入ってほしい。
ほぼ書類が集まった。
まだアパートの1月分の書類がないが,
他の書類から類推できるので大丈夫だろう。
探す労力の方が大きすぎる。
心配するより,早く提出してアドバイスを受け,
修正する方が近道だ。(新々アパートの件など)
来年は自分でできそうな気がしてきた。(o^-^o)
昨日は,まず「夢ブログ」で検討している
熊本県の鞠智城のことから始まった。
第Ⅰ期・・・東偏(もう九州王朝の東偏政策は始まっている)
第Ⅱ期・・・東偏の中に一部正方位(14号建物)
第Ⅲ期・・・礎石建物の出現。白村江の戦いに突入か
第Ⅳ期・・・近畿王朝の時代(正方位建物の数が4つに)
第Ⅴ期・・・地元豪族の支配か
その他の話題(一部)。
・『古代東国の地方官衙と寺院』をめぐる話題(新田郡家,下寺尾廃寺など)
・土器・瓦の編年の見直し(100年!)
・青銅器の分布(西日本・・・銅剣・銅矛・銅カ,近畿・・・銅鐸,東日本・・・銅鈴?)
・近畿を間にして,九州と関東が同じ文明を持っている(装飾古墳・縄文土器・葬送方式)
・統一政権の始期の早まり・・・3世紀。すると,神武東侵も九州王朝のその表れか
・中国が統一されると朝鮮半島や日本列島の統一も進み,中国が乱れるとその影響で乱れる
・九州王朝の中でも,主導権争うが当然あったし,近畿王朝の中でもあった
・熊襲とは,熊(熊本県南部)と襲(鹿児島県)のこと。物部氏が滅ぼしたか
・「大化の改新」は,九州王朝の列島統一の宣言か
※ 川瀬さん.訂正願います。
昨日で,発掘調査書(ダイジェスト版)の精査を終了した。ヽ(´▽`)/
最初は「永遠に続く道のり」に見えたが,時々の発見もあったりして,ここまで続けられた。
掘立穴の発掘記録
次回は,国府周辺と東偏・正方位・西偏の「切込み」遺跡の再確認を行う。
夏に始まった府中研究会も,秋冬を経ていよいよ春になろうとしている。(o^-^o)
「裸の王様と国分寺建立の詔」という題で書こうとしたら,
ウィキペディア「裸の王様」に面白いことが書いてあったので,
それで一話書くことにする。
アンデルセンが書いた「裸の王様」は有名な話で,
知っている人が少なくないと思う。(若い人は知らないかも)
いかさま職人が「見えないマント」を縫い王様をだますが,
それを一人の子どもが素直に,「王様は裸だ。裸の王様だ」と言い,
真実を見破るというなかなか痛快な話だ。
実は,これには原作があって,アンデルセンはそれを用いて,
わかりやすい形で現代風にアレンジしたという感じだろうか。
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原作と翻案との違い(ウィキペディアに掲載の表)
原話と物語の大枠は変わっていないが、元の話では、「馬鹿の目には見えない布地」ではなく、
「姦通から生まれた者には見えない布地」であり、
「王さまは裸だ」と真実を告げるのは、子供ではなく馬丁の黒人である。
一橋大学附属図書館が公開している『アンデルセンと「裸の王様」』によると主な違いは以下のようになる。
【原作と翻案との違い】
フアン・マヌエル(1335年)『ルカノール伯爵』 アンデルセン(1837年)『童話集』
題名 「ある王といかさま機織り師たちに起こったこと」 「皇帝の新しい服 」
主人公 王 皇帝
主人公の関心事 王室の財産を増大させること 美しい新しい着物
詐欺師の人数 3人 2人
誰に見えない衣裳か 父親の実の子ではない者 自分の地位にふさわしくない者や、手におえないばか者
真実を告げる者 王の馬丁をしていた黒人 1人の小さな子供
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ウィキペディア「裸の王様」
https://ja.wikipedia.org/wiki/裸の王様
「裸の王様」を笑ってくださった方に,その現代版をお届けしよう。
歴史学の呪縛とも言うべき「国分寺建立の詔」の話である。
昨日,府中研究会の際再登場して,「やはり時々「夢ブログ」にも登場させて,
その意味の大きさを知らせておくべきだと考えた。
ここでは多くの歴史的教養は要らない。(むしろ邪魔になる)
「真実の歴史を知りたい」という,探求心の問題だからある。
まず,いくつかの質問させていただくことにしよう。
Q1・・・あなたは,741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔(命令)」を出したことを歴史の時間に習いましたか。
Q2・・・では,実際に「国分寺建立の詔」を読んだことがありますか。
Q3・・・読んだという人に聞きます。その中に「国分寺」という言葉は何回出てきましたか。
Q4・・・実は,1回も出てきません。では,この「国分寺建立の詔」の趣旨を2つ言ってみて下さい。
では,実際に「国分寺建立の詔」に対面していただこう。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html
741年に聖武天皇が出したといわれる「国分寺建立の詔」(原文)には,
残念ながら「国分寺」という言葉は1回も出てこない。
趣旨も大きく2つ。「七重塔を造れ」ということと「そうしたら,自分も金文字のお経を納める」ということ。
どこをどう読んでも,ここから全国の国分寺が始まりましたとは読めない。
これを把握した時,多元的古代について30年学んできた私は,
「ははあ,これは従来ある寺院(国府寺)に加えて七重塔を造らせ,
それまでの九州王朝の事績を近畿王朝に取り込む政策の一環だ」と気が付いた。
これまで,考古学的知見でも,741年から50年も前の白鳳時代(7世紀末)の瓦が出たり,
さらに「素弁瓦」と呼ばれるさらに古い瓦が出土していたが,
例の「国分寺建立の詔」より先に国分寺があってはならないと忖度(そんたく)して,
土器や瓦の編年を大幅に後ろへずらしてきていたのだ。
(寺院は豪族たちの私寺として扱われて,決して国公立寺の九州王朝の国府寺とは評価されなかった)
その結果,九州や関東では,なんと「100年の編年のズレ」が起きているという研究成果を
「方位の考古学」ではこれまでとは違う形で提出している。
(放射性炭素C14を使った測定は心強い味方だ。
また,磁北の研究も進み,4~12世紀の800年間
日本列島が西偏時代だったことが明らかにされている)
私たちは多元的「国分寺」研究サークルという形で研究を始めたが,
古代は「政教一致」の時代であるから,
そろそろ多元的「国府・国分(府)寺」研究サークルに
名称変更した方がいいかもしれない。
※ 最初に「裸の王様」の話を出したが,あの話の最も有意義な利用の仕方は,
アンデルセンの「裸の王様」を応用して「裸の国分寺」を主張することだと思う。
「国分寺建立の詔」(原文)に「国分寺」という言葉は1回も出て来ず,
「七重塔を造れ」「金泥のお経を入れる」という趣旨の内容だったことを,
今風に言ったら「拡散」していただけたら幸いである。
※ ほかに,「日本書紀」「続日本紀」に同様の忖度(そんたく)記事が
まだまだあるのではないかと思っている。
なにしろ,これらは「勝者の歴史書」なのだから。
「野良」と「良野」の会話を翻訳してみた。
野良 「ねえ,来てごらんよ。美味しい牛乳があるよ」
良野 「本当だ。おいらも少しゴチになっていいかな?」
野良 「どうぞどうぞ」
良野 (おなかが空いていたのか,飲み干すような勢いで飲む)
野良 「ちょっと・・・」
良野 (野良の声に気が付かない)
野良 「ちょっと,ちょっと,それは飲みすぎ・・・」
良野 (気が付くがブレーキがかからない)
野良 「飲みすぎだって言ってんだろうが」と大きく伸びをして,
立場の上下を示しながら,やめるように促す。
良野 (さすがにこれはまずいと感じ,去って行く)
野良 (しばらく,興奮して落ち着かなかったが,私が牛乳を追加してやると)
野良 「じゃ,遠慮なくいただきますわ」と半分ぐらい飲む。
ここのところ元気がないのは,もしかしたら老化かもしれない。
母が飼っていた訳だから,ヤング・キャットではないだろう。
そう思ってみると,我が家のマザー・キャットと同じ雰囲気ではある。
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方や群馬県の官衙遺跡で,方や九州の官衙遺跡(鴻臚館・鞠智城)で,
同じような土器編年とのズレが確認された。
そのズレ幅は,なんと100年!
これでは,歴史の真実がわかるわけがないですね。(。>0<。)
川瀬さんの分析を見ていただくことにしましょう。
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【群馬県の官衙遺跡】
5世紀半ば:東偏
5世紀後半:東偏
6世紀前半
6世紀半ば:東偏(山王下層群馬評衙)・東偏⇒正方位(新田郡家関連・入谷)
6世紀後半:東偏⇒正方位(新田郡家)
7世紀:東偏⇒正方位(上野国府)
8世紀:西偏・正方位・東偏
6世紀半ばから7世紀にかけて、従来東偏で作られていた官衙が正方位に建て替わっていることがわかります。
上野国地域は九州王朝の影響の強い地域ですが、6世紀前半の武蔵国造乱を契機として九州王朝の直轄領になったのではないでしょうか(関東全域も)。
【九州の鴻臚館・鞠智城】
Ⅱ期の編年が8世紀第1四半期。100年遡らせると7世紀第一四半期。九州王朝時代。
Ⅳ期の編年が8世紀第4四半期~9世紀第3四半期。100年さかのぼさせると7世紀第四四半期から8世紀第三四半期 近畿王朝時代。
礎石建物の出現はⅢ期です。7世紀末葉~8世紀第1四半期前半。100年遡らせて6世紀末葉~7世紀第一四半期。
例の八角形建物はⅡ期からⅢ期ですので九州王朝時代です。
前の鴻臚館遺跡と併せて、九州地方は土器編年を100年動かすと実態に合うと思います。
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※ これまでの研究の推移
(1) 東偏5度の寺院・官衙遺跡探し(点から線へ)~東山道沿いに多く発見。なんと,東北の城柵にも
(2)ー➀ 九州王朝の「東偏→正方位→白村江で滅亡」+近畿王朝の 「サイズアップした正方位→律令制の衰えと共に崩れていく(線から面へ)
~泉官衙遺跡(福島県),都賀評衙(下野国府)(栃木県)など
(2)ー② 近畿王朝の「反発」~九州王朝が正方位にする際.西偏にする(近畿中心)
(3) (2)の類似タイプの探索~遠方地域では,(2)ー➀タイプがたくさん作られた~
幡羅官衙遺跡(埼玉県深谷市),榛沢遺跡(埼玉県岡部市)など
楽天が昨年・日本一のソフトからも勝利をあげ,
今シーズンのリベンジを誓った。
楽 天000001100計2
ソフト000000001計1
菅原・西宮・小野・木村・今野ー嶋・山下・下妻
【練習試合のため,勝ちは付かず】
これで1勝4敗の成績だった練習試合の「借金」を返し,
オープン戦も含めて4連勝で,逆に「貯金1」となった。
楽天が練習試合だが,広島を下した。ヽ(´▽`)/
広島は,昨年度のセリーグの首位チームである。
楽天000001102計4
広島000000100計1
福井 、辛島 、古川 、福山 、鈴木 - 太田 、足立
【練習試合のため,勝ちはつかない】
内田 ソロ、内田 2ラン
【練習試合のため,ホームランの記録も残らない】
内田が2本のホームランで,3打点。
半分でいいから記録に残してあげたいなあ。(o^-^o)
確定申告に必要になりそうな書類・領収書などは,
段ボールの箱に入れることにしている。
なので,ない訳がないのだが,先日は掘り方」が甘かった。
さらに「下層遺跡」を発掘すべく掘り進めたところ,
どんどん書類が出てきたのだ。
やはり,基本的な方法は間違っていなかった。(o^-^o)
アパートの関係では,昨年の1月の明細がほしい。
私個人としては,「退職見舞金」の通知がほしい。
あとは,細かい領収書はあまり意味がないようで,
昨年も「使えませんでした」と袋に入れて返された。
大きなお金の流れがわかるようにすれば,
少額のものはカウントされないと思っていいのかも。
あと,2日やってみて,今月末には会計事務所に持っていきたい。(^-^;
楽しいから笑うんじゃなくて,
笑うから楽しくなるんだ,と聞いたことがあります。
ブログの壁紙も,同様。
春が来たからサクラにしたのではなく,
コタツをサクラにしたから春がくる・・・のかもしれません。
それを期待して,壁紙変更!
今後ともよろしくお願いいたします。(o^-^o)
横浜読書会の際.清水さんから教えていただいた上記の本を
さつそく横浜駅地下街の有隣堂で入手した。
(迷うといけないからと,ご案内までしていただいた。m●m)
佐藤信・編,山川出版社刊,4500円+税で,
普通の人なら買わないだろうが,
現在そのことに関心を持ち,実際に東国の遺跡を精査している私としては,
願ってもない本だった。ご紹介ありがとうございます!ヽ(´▽`)/
これまで「夢ブログ」で紹介してきた,以下のような遺跡が扱われていた。
・美濃国武義郡衙(弥勒寺遺跡)
・上野国新田郡家
・武蔵国幡羅郡家
・武蔵国橘樹郡家
・下野国薬師寺
・泉官衙遺跡
今の若手の考古学者も,私と同じようにこれらの遺跡に取り組み,
「どうして東偏しているんだろう?」「こちらは逆に西偏だぞ!」と
頭を悩ませていることと推察する。(o^-^o)
この本は,2015年9月5日に東京大学文学部で行われた
史学会例会シンポジウム「古代東国の地方官衙と寺院」のまとめとして作られたようだ。
その中でも,神奈川県茅ケ崎市で見つかった下寺尾廃寺は大きな成果だったようだ。
まず,当日のパンフレットから。
http://www.shigakukai.or.jp/uploads/pdf/reikai15.pdf#search=%27%E4%B8%8B%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E5%BB%83%E5%AF%BA%27
次に・上記の本に出てくる下寺尾廃寺の発掘の図面。
「講堂は掘立柱建物から同じ位置で礎石建物へ,
金堂はやや規模を縮小し建物の向きを変更して建て替えられたものと考えられている」
などという,具体的な記述もあった。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/hakubutsukan/1010685.html
https://www.maruhaku.tv/video-theme/theme12/theme12-3/
昨日は,横浜読書会(清水さん主宰)だった。
8名の参加者に対して,資料が8点も提出され、
まずはそれで盛り上がった。
(1) 前回のまとめ
(2) 法隆寺の付近の様子と若草伽藍
(3) 上総国分寺・国分尼寺の付近の様子
(4) 飛鳥宮周辺の様子と「エビノコ郭」
(5) 信濃国分寺・信濃国分尼寺の付近の様子
(6) 安藤さんの「十二支の謎」関係資料と漢和辞典での追究
(7) 誰のための「エビノコ郭」か・かつてそこに「エビス御殿」があった!(かも)
(8) 鞠智城(熊本県)の遺跡の変遷
ちなみに.(7)と(8)が私の提出資料です。
資料発表のあと,『邪馬一国の証明』の読書。
その後.居酒屋での懇親会。(7名が参加)
昨日も投打が噛み合っての勝利。
先制・追加・ダメ押し!ヽ(´▽`)/
楽天220110020計8
ヤク000010002計3
美馬、藤平、ハーマン、ブセニッツ、森原、高梨 - 堀内
美馬 1勝0敗
オコエ 1号ソロ.田中 2号ソロ.辰己 1号2ラン
新人・辰己も2ランで強烈アピール。
昨年の経験から資料をたくさん取っておいて,
分野別に分類して,会計事務所に依頼するという方法を取りたかったが,
思いのほか取ってある書類に欠けているものが少なくなく,
本日は母をデイケアに出したら,その作業をしようと思っている。
関係書類は,決めた段ボールに入れるようにしていたのだが,
なんでこんなに抜けているのかなあ。(。>0<。)
以前載せた「鞠智城出土土器・瓦の生産地推定に関する基礎的研究(2015)」の
中に掲載されている年表とグラフを使い,鞠智城の歴史を考えてみた。
(1) 鞠智城の年表から
土器編年が100年ずれていると考えると,東偏にしたⅡ期が8世紀第1四半期を7世紀第1四半期に,
また,Ⅲ期の礎石建物の出現が7世紀第2四半期(九州王朝のピーク。白村江の戦い直前)となる。
さらに,Ⅳ期の7世紀末には礎石建物の大型化で近畿王朝に権力が移動する。
(100年と75年は迷うところではある)
Ⅴ期(8世紀後半~)には地元勢力の「礎石建物の再建」ということになり,
9世紀後半には鞠智城は廃絶したというのが,修正案。
(2) 出土した土器の量・質グラフから
このグラフのピーク(須恵器の割合も高い)は7世紀第4四半期~8世紀第1四半期であり
(近畿王朝の興隆の時期で一元説としてはそこにピークを持っていきたいところだろうが),
土器編年の関係で100年遡らせると,6世紀第4四半期~7世紀第1四半期,
75年なら7世紀第1四半期~7世紀第2四半期となり,白村江の戦いの前に移動する。
その後の7世紀第3四半期~7世紀第4四半期は敗戦での荒廃。
8世紀になって,近畿王朝が使用(須恵器の割合高い)するがやがて途絶え,
律令制が崩れ始めると8世紀末には地元勢力が使用(土師器多い)した。
9世紀半ば以降に廃城。土器の量と質から見ても,建物の変遷と同じような歴史をたどる。
辺野古埋め立ての是非をめぐって行われた沖縄の住民投票(投票率52%)。
その結果が発表された。
賛成・・・11万票
反対・・・43万票(71%)
どちらでもない・・・5万票
こういう結果に対して,政府はどういう反応をするのだろう。
(地盤が弱いので,70000本の杭打ちが必要という話もあるが)
辺野古埋め立て反対7割超え
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6315053
仮説実験授業の英訳本ができたそうです。
もちろん板倉聖宣の著作です。
こういう本が企画されていることは前から知っていましたが,
形となってくれたことは大変うれしいことです。
私も仮説実験授業のおかげで,現役36年間を
生徒たちと楽しむことができました。
しかし,英訳本が出るということは,
海外の普及ということが前提であるわけで,
この日本でもう十分普及したからということではありません。
子どもたちとの楽しい学校生活を夢見ながら,
その仲立ちとなる具体的な方法を見つけられないまま,
教壇を去ったり.あるいは別な方向に情熱が歩み出したりしないためにも,
私はさらに仮説実験授業の魅力を発信していきたいと思います。
その「発奮剤」として,一冊購入したいと思っています。
(3600円+税)
東偏の遺跡を求めて,古代史の旅をしている。
私のような者でも,ある視点で研究することによって,
少なからぬ発見ができる幸せを感じている。
今の仮説は,九州王朝が全国を統一していこうとする段階で,
まず東偏に,そしてある時期から正方位に建物の方位を向けさせた
ということである。そして,ありがたいことに,正方位に向けさせようとした時期に,
それまで東偏させていた近畿王朝は,反旗を翻すかのように,逆に
西偏に,そして,政権の移譲が決定的となった時点では正方位に,
建物の方位を変えさせたのだった。
こういう命令は形の上では発見されていないが,ちゃんと地下に刻まれている。
ある場合は,掘立柱の穴として,ある場合は礎石として・・・。
これまで少なからぬ遺跡の変遷(スライス的な発掘のおかげ)で見ていくと,
【九州王朝】 東偏(掘立柱)→正方位(掘立柱・礎石)→白村江の戦いをきっかけに滅亡
【近畿王朝】 九州に倣って東偏→西偏→正方位(サイズアップしたもの)
というような,形を取ることが観察される。
これまでは,九州王朝時代の珍しい「評瓦」が出ると喜んでいた。
しかし,そういう「遺物」に出会える確率は1パーセントと言ったところだろう。
しかし,「遺跡」だったらどうだろう。1パーセントどころではなく,
その何倍もの確率で,九州王朝の存在の痕跡を確認できるのだと思う。
それは,どんなところで情報が得られるのか。パソコンをやっている方は簡単である。
奈良文化財研究所データベースを訪問すればいいからだ。
私は毎日ここにアクセスして,全国の遺跡に「九州王朝の痕跡」を探している。
皆さんも,ぜひ!
https://www.nabunken.go.jp/research/database.html
特に役に立っているのは,「古代寺院遺跡データベース」と「古代地方官衙関係遺跡データベース」です。
毎日,多元的「国分寺」研究サークルのサイトで,川瀬さんとトレーニングしています。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/
鞠智城の八角建物は仏教に関係あるらしい。
敷地内からは百済仏像が出土しており.
百済との関係の深さを思わされる。
しかし,663年白村江の戦いに敗れてしまう。
鞠智城跡から百済仏像を発掘(2008年)
https://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=106876
https://blogs.yahoo.co.jp/kizaki_yasu/21921975.html?__ysp=6Z6g5pm65Z%2BOIOS7j%2BWDjw%3D%3D
練習試合1勝4敗の成績を乗り越え.
楽天がオープン戦初戦を勝利で飾った。ヽ(´▽`)/
楽天021002001計6
巨人001002000計3
森、石橋、濱矢、宋家豪 - 太田
森 1勝0敗
ブラッシュ 1号ソロ.田中 1号ソロ
先制・追加・ダメ押しと,投打が噛み合った。
この調子で頑張れ!
昨日は残念ながら,私の観察力の至らなさから,
第Ⅰ期から第Ⅱ期の西偏→東偏の画期を川瀬さんに指摘されてしまったが,
そのあと私は「じゃあ,九州王朝時代の正方位もどこかにあるのではないか」と考え始めた。
それが,題名にした「第Ⅱ期の31号(掘立柱建物)~第Ⅲ期の30号(礎石建物)」である。
この鞠智城には,2棟の多角形建物があるのだが,
1つは第1期~第5期に渡り存在している32号(掘立柱建物)・33号(掘立柱建物)である。
炭化米が出土しており,火災に遭い建て直されたそうだ。
方位はわからないが,近畿王朝の時期にも続いて建てられているので,
正方位ではないのではないかと考える。
もう1つが第Ⅱ期の31号(掘立柱建物)と第Ⅲ期の30号(礎石建物)である。
こちらも方位はわからない(磁北なら正方位)が,
第Ⅳ期で壊されているところを見ると,正方位だったと推定される。
つまり第Ⅱ期の中にもう一つの画期が隠されていたことになる。
これらと,前回の遺跡の変遷を合体させれば,
西偏→東偏→正方位(掘立・礎石)/正方位→西偏
(ここまで九州王朝の時代) (ここから近畿王朝の時代)
となり,鞠智城も泉官衙遺跡のような「方位の考古学」の変遷をたどったといっているのではないかと思う。
【鞠智城の遺跡の変遷】
私もブログをやっているので,「炎上」とかの言葉にはちょっとドキっとさせられる。
心理カウンセラーの言っていることは当たっている気がするし,
「一種の正義感」の良くない表出という気もするなあ。
心理カウンセラーがネットの"炎上"分析 日々のストレスを不祥事や不倫叩きで解消か
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12180-198917/
今日からオープン戦(初戦と巨人と)が始まる。
楽天の皆さん,頑張って下さい。
これまで練習試合を5試合やってきていて,
1勝4敗(勝率2割)と分は悪いが,
これから奮起してもらえれば,まだ開幕までひと月ある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【練習試合の結果】
2月14日(木)・・・●2ー5阪神
2月16日(土)・・・●1ー4ロッテ
2月17日(日)・・・〇6ー3ロッテ
2月20日(水)・・・●3ー8日本ハム
2月21日(木)・・・●4ー12日本ハム
昨日翔空さんにスマホで調べていただいたのだが,
前に「夢ブログ」でも紹介した映画「あまのがわ」が,
2月9日(土)からもう始まっているそうです。
(教え子が出てきます)
https://www.youtube.com/watch?v=fDL5OrjblF0
調べたら,東京では「有楽町スバル座」で公開されているとのことで,
少なくとも3月1日(金)まで,午前11時~午後1時15分でした。
早めに行って,感想を書きたいと思います。
https://eiga.com/movie-theater/87594/13/130102/3015/
お陰様で,昨夜141万アクセスを達成いたしました!
翔空さんのスマホで「あと10数人」などと確認したのが最後でした。
きっと酒処「まこ」で乾杯している頃達成されたことでしょう。
このあと,年内の150万アクセス達成に向けて進んでいきますが,
毎日の歩みの積み重ねが「山となる」ということを忘れずに,
これからも歩んでいきたいと思いますので,
今後ともよろしくお願いします。(o^-^o)
鞠智城の歴史の年代決定に使われたと考えられる
土器や瓦の基礎資料を検索して,リンクした。
全部で60ページほどあります。
鞠智城出土土器・瓦の生産地推定に関する基礎的研究(2015)
https://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A7dPhgk9am9csGEA1seo_AF8?p=%E9%9E%A0%E6%99%BA%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%80%80%E5%87%BA%E5%9C%9F%E6%95%B0%E3%80%80%E5%A4%89%E9%81%B7&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=%E9%9E%A0%E6%99%BA%E5%9F%8E+%E5%9C%9F%E5%99%A8+%E5%87%BA%E5%9C%9F%E6%95%B0+%E5%A4%89%E9%81%B7&at=&aa=&ai=dFjXpMcrQMON8L_dCjS1pA&ts=46858&mfb=2141_71c
「ココログ」が全面リニューアルを計画しているらしい。
上記のお知らせが最近表示されるようになった。
「ココログ」全面リニューアルのお知らせ
http://info.cocolog-nifty.com/info/2019/02/2019319-3dc9.html
ホームページからブログへの切り替えの時はかなりのショックで,
せっかく拡大してきた「肥さんのホームページ」の勢いをそがれるような思いがした。
しかし,今回は前ほどではなく,「さらなるブログの発展」を目指したいが,
お知らせを読んでみると,スマホやインスタグラムに忖度(そんたく)している感じがして,
あまりいい感じはしなかった。
ただ.この10年間「夢ブログ」をやらせてもらえたので,ニフティーには感謝している。
(その前に,ホームページが5年間)
どんなふうにリニューアルされるのか,
また逆にそれを利用してどんなことができるようになるのか,
「脳みその体操」として試していきたい。(o^-^o)
3月2日(土)・・・仮説のサークル
3日(日)
9日(土)・・・榛沢遺跡→高崎サークル
10日(日)・・・平曲の会
11日(月)・・・横浜読書会
16日(土)・・・昭島サークル
17日(日)
23日(土)・・・『たの授』公開編集会議
24日(日)
29日(金)・・・東日本たのしい授業フェスティバル(北とぴあ)
30日(土)・・・ 同上
このところ「新しい読者」が増えている。
酒処「まこ」に集う皆さんだ。
先日の「スーパームーン」の記事もTさんが拡散して下さり,
本日は新々アパートのお祝いをさっそく岸さんがして下さった。
また,お客さんの来店情報もママが水面下でして下さる。
こういう温かいムードのお店だから,
たくさんの多様なお客さんが集うのだろう。
年齢層は老若男女。(中心は40代かな)
知識人もいれば,「知識を超えている方?」もいる。
そして,東村山,秋津,清瀬にかけての濃い人間関係と
遠方から縁あっていらっしゃる少なからぬ人たち。
さらに,私の場合は個人的にオリケン先生を通じての結びつき。
(私の教育実習の先生~38年ぶりにお店で再会~が,
その後ママの中3の時の担任であり,
お子さんたちの時の校長先生でもあった)
居酒屋なので,毎日満員というわけにはいかないが,
一人ひとりに丁寧に接するママの力になろうと,
お客さんたちも胸の内で考えている。
(席の移動を素早くするし,お使いも辞さない。
一回は怒られるが二度と失敗しない。笑)
そんな酒処「まこ」の開店1周年が,本日2月22日だ。
Sさん他のメンバーとの熾烈(しれつ)な「先陣争い」も予想される。(^-^;
本日のコピーは,「そうだ まこ 行こう」。
これで決まり!ヽ(´▽`)/
アクセス数を見ると,あと300アクセスあまりなので,
本日中に141万アクセスを達成できるかと思われます。
今年の目標は「150万アクセス」なので,
まず最初の階段を1つ登れます。
いつもご愛読ありがとうございます。m●m
確定申告の時期となった。
昨年は母の確定申告のお手伝いをして,勉強になった。
その会計事務所から「今年もよろしく」と昨日電話が入った。
母は「今年も息子がやってくれる」と「確定」しているようなので,
二人分やることになるだろう。
すると,やはり2つを自力でやるのは大変なので,
今年も会計事務所にお世話になろうと思っている。
(ゆくゆくは自分でできるようになりたい)
2月中に会計事務所に関係書類を持っていきたい。
これから1週間が勝負である。(^-^;
上記の本を読了した。
古田氏の本を読んだ時のような刺激があったが,
最近は少しは多元的な思考法に慣れているので,
当時ほどは「混線」はしなかった。
ご質問のあった河村日下さんの「当該漢字第一音採用法」を,
この本を読むかどうかは別にして,私なりにまとめておく。
【人名の例】 大穴持→大オオ・穴ツ・持チ→オオツチ(大蛇)・・・天の下造りしし大穴持(大蛇)
【地名の例】 伊予之二名国→伊予国は●盟島しめいじま(四国の盟主とする島)の意味。
●=屋から「至」を取ったもの。なのでトップに書いてある。
九州だと筑紫国にあたり,あちらは白日別(北陸の白■ハクヒの分家の意味)。■=昨の「日」を「口」へ
四国は,伊予をリーダーに,讃岐・・・岬の多い国,土佐国・・・(北陸系の分家),徳島・・・阿蛇アハ・・・蛇の島。
今年はさまざまな行事が予定され,
「記念硬貨」ラッシュになるのではないかと,
ニュースに出ていた。
どんな硬貨が予定されているか,
わかりますか?
https://mainichi.jp/articles/20180104/k00/00m/040/124000c
昨日は,私のパソコンのことに時間を費やして,
本来の作業が後回しになってしまうかと思われたが,
そのせいもあって能率が逆に上がったかもしれない。
時間というのは,だらだらやっていれば「いくらあっても足りないが,
これしかないと切羽詰まると,案外あるもの」なのかもしれない。
でも,私たちはしょっちゅう「人生が有限であること」を忘れてしまいますが・・・。
新情報として,国分寺の北西方面の調査情報が川瀬さんからあった。
正方位はなく,後期武蔵国分寺の関連遺跡のようであるとのこと。
(1) 初期の正方位の国府寺・国府関連の遺跡・・・4中遺跡・北東方面遺跡・武蔵台遺跡
(2) 後期の西偏7度の国分寺関連の遺跡・・・4中遺跡・北東方面遺跡・北西関連遺跡・武蔵台遺跡
研究会後は,府中本町駅構内のコーヒー店で,
ケーキセットを食べながら懇親。&
漢民族か他の民族かという意識が,中国を理解するのに役立つ。
漢音・呉音は漢民族。北朝(隋・唐)の唐音は北テキの言葉(なまり)等。
今までほとんど触れないできたが,発掘も進んだようなので,
九州王朝から近畿王朝に至る鞠智城(熊本県)の変遷について,
私も少々書いてみたいと思う。
奈良文化財研究所のデータベースによると,
この官衙遺跡の活動時期は「7世紀後半~9世紀後半」と書いてある。
とりあえず九州の遺跡ということで,編年を100年遡らせて,
「6世紀後半~8世紀後半」としてみよう。
すると,ONラインがちょうど真ん中へんになる。
建物の「方位」の変遷と比較してみた。
この遺跡は5期に分類されている。
第Ⅰ期・・・7世紀前半まで(九州王朝の進出・中央部と長者山の西側)
第Ⅱ期・・・7世紀判半ば(九州王朝の発展期・最も広い範囲に広がる・2つめの八角建物の登場)
第Ⅲ期・・・7世紀後半(白村エの戦い→滅亡/中心が西側だけに)
第Ⅳ期・・・8世紀前半(近畿王朝の支配開始・再び広い範囲に広がり,正方位の大型建物)
第Ⅴ期・・・8世紀後半(律令制が崩れ始める・長者山の東側に倉庫群)
方位の画期も,第Ⅲ期と第Ⅳ期の間にあり,
東偏建物群の中に巨大な正方位の建物や倉庫が登場してくる。
そして,第Ⅴ期になると「長者山」の倉庫が4棟残るのがメインで,
平地には倉庫と八角建物1棟のみとなる。
これは,数字的にカウントしても同じで,
各時期の建物数と礎石建物数と倉庫数と八角建物数を書き出すと
以下のようになる。(若干カウントミスはあるかも。汗)
総建物数 礎石建物数 倉庫数 八角建物数
第Ⅰ期・・・ 20 0 5 0
第Ⅱ期・・・ 23 0 6 2
第Ⅲ期・・・ 14 5 5 2
第Ⅳ期・・・ 16 6 7 1
第Ⅴ期・・・ 6 5 5 1
鞠智城もまた,「建物数の変遷」と「方位の考古学」で読み解ける」と言ったら,
言い過ぎだろうか。
今天気予報を見たら,本日は20℃近くまで上がるらしい。
母のことを考えると,冬は早く越したいので,ありがたい。
明日からも.最高気温は,
14→13→11→11→14→13→14℃と推移していくようだ。
この時期起きやすい現象としては,雪が降ること。
雪のことは頭に置きながら.少しずつ春の準備をしよう。
昨日,新々アパートの宣伝のコピーの入った広告を
建設会社からいただいた。
・・・1階の部屋(37.18m²)・・・
・エアコン完備で、初めての一人暮らしをバックアップ。
・日当たり良好。追い焚き付きで、新婚カップルにぜひお勧めです。
・・・2階の部屋(47.46m²)・・・
・13.4帖の広々リビングで優雅な暮らしをお約束致します。
・広々LDKがとても嬉しい間取り。
・自分だけの空間を楽しむなら、ここがお勧め!
同じ1LDKなのだが,階段分で2階の方が広くなっている。
あなたは,どの部屋に住みたいと思いますか?
なぜか.1階のひと部屋だけコピーがないのは,
宣伝しなくても入るであろうと考えているからか。
(眺めがよく,植栽もあり,駐車場に一番近い)
「撮れたてのスーパームーン」をお届けします。
新々アパートの塀を支えに,ほぼ天頂近くの満月を撮ってきました。
30分くらい前から「いつがベストコンディションかわからないから
練習も兼ねて撮っておこう」と思ったのが正解で,
まさにその時間が近づくと雲が切れ,
私は夢中でシャッターを押しました。
今回のプロジェクトが始まったのは,1月21日のこと。
今年№2のスーパームーンを撮り逃した私は,リベンジの気持ちを込めて,
「1か月後の今年№1のスーパームーン」を目指しました。
そして,「夢ブログ」にそれを掲載し始めると,
読者の皆さんからの素晴らしいコメントが私を励ましてくれました。
その声を追い風として,私のプロジェクトは,
みんなのプロジェクトに変わりました。
あのアポロ11号のアームストロング船長は,「私が偉大なのではない。
私は20万人のスタッフに支えられて月に行っただけのことだ」と
彼をバックアップした人々をたたえました。私もそんな気分です。
このあと,私がどんな方向に向かうか,それは私にもわかりません。
しかし,この1か月の「みんなのプロジェクト」が私をここまで連れてきてくれました。
今はそのことに感謝したいと思います。ありがとうございいました。m●m
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1月21日(前のデジカメで)
精一杯拡大
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今回お手柄の新デジカメ(2万6000円くらい)
このサイトにも時々コメントいただくJamesMacさんは,
「天体写真」もやられているという情報が入りました!
山田さん.ありがとうございます。m●m
ということで,あちらのサイトにコメントを入れると同時に,
こちらにもリンクさせていただきました。
望遠鏡使った迫力ある映像をどうぞ!(o^-^o)
JamesMacさんの「天体写真」
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/4fee3549763af319b3bc29fa3fd10330
佐々木すみ江さんの訃報が入った。
佐々木さんの演技でよく覚えているのは,
「ふぞろいの林檎たち」の主役の中井貴一の母親役で,
難しい役どころをうまく演じていたというのが印象的であった。
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/女優の佐々木すみ江さん死去-%ef%bc%99%ef%bc%90歳-「ふぞろいの林檎たち」「篤姫」など名脇役として活躍/ar-BBTN3Iu?ocid=spartandhp
以前は毎日のようにテレビに出演していた「ふなっしー」。
現在はどうしているんだろう,と思っていたら,サイトのニュースに載っていました。
なかなか素晴らしい梨の“妖精”ですよね。
私の周辺では,広島の「ぐめちゃん」が熱狂的なファンです。
テレビから消えた「ふなっしー」の現在に衝撃 驚きの収入、活動内容は…
https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-20162009618/
河村日下著『記紀神話の真実』(ミネルヴァ書房)の読書が続いているが,
昨日まで読んだところの話を紹介しよう。今「国譲り」まで来た。
・日本書紀では,越と出雲の話題は「神代」にまとめられ,不問にされている。
・基本的には,近畿に都合の合う話(九州王朝も同じ)だけを取り入れている。
・由来のはっきりしない荒神は越の関係か。
・出雲風土記に描かれている「防衛体制」は,いつ頃からのものか。
・漢文風読み下し法では,歴史の真実はわからない。原文で読む。
(河村さんの場合は,「当該漢字第一音採用法」で読み解いていく)
それにしても,蛇に関する古語が多いこと。
やはり蛇の持つ力は,古代人に相当強烈に焼き付いていたらしい。
先日の歴協教・研究集会で教えていただいた飛島(とびしま)村について,
少々調べてみようと検索してみた。
「貧しい村から日本一の金持ち村」というのが,どういう経緯で実現したのか,
不思議と言えば不思議である。
あなたは,どういう理由を考えますか?(何かが地下から出たとか?)
飛島村
https://ja.wikipedia.org/wiki/飛島村#貧しい村から日本一の金持ち村へ
今天気予報を見たところ,今日は雨でだめだが,
意外に雨は早く通り過ぎ,
20日(水)は晴れ間もあるとのこと。
しかも暖かいらしく,スーバームーンが
十分楽しめそうだということでした。
やったね!ヽ(´▽`)/
バイイも気になったので,検索してみました。
やはり天文学者でした。
ハレー彗星関係もやっています。
ジャン=シルヴァン・バイイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン%EF%BC%9Dシルヴァン・バイイ
赤門塾といえば,所沢市にある学習塾で,
私も10代から20代にかけてお世話になった教育機関である。
その塾も代がかわり,今は次男が中心になって運営している。
その報告書2冊がきのう届けられていた。
「きのふ・けふ・あす」2018年10月号
(ただし,特集されているのは,3月下旬に行われた演劇祭)
ていねいに子どもたちの活動や演技の観察が書かれ,
また最近は写真入りでそれが紹介されている。
もう一冊は,「第3回柳平合宿レポート」
赤門塾の夏合宿の特色は,「机上の学習がない」ということ。
第1回だけは言い訳程度にあったが,
自然の中に出かけて机上の学習はナンセンスということで,
第2回からはまったく登場していない。
第1回が私が高校1年のOBとしての参加だったから,
かれこれもう45年続いているということになる。(合宿地は,3か所目)
すごいというしかないが,報告書も45年続けているわけだから,すごいの2乗!
昨日は,買い物,振込,郵便局の用事など雑事に追われたが,
午前中でなんとか終えることができ,午後には時間がつくれた。
午後は何をやったかというと,望遠鏡探し。
今持っているものはカメラが取り付けられないので,
それを求めて川越と新宿(ビックロ)を行き来した。
川越の店では,カメラを取り付けられないタイプのものだけだったが,
最近ではカメラは少数派で,デジカメ撮影するというのが多数派らしい。
そういうアダプターというのも打っていて,ちょっと心そそられた。
(星の撮影用に買うが,電話もできるということ)
新宿のビックロ(地下1階)は品ぞろえも多くほしいものもあったが,
冷静に自分の性格(飽きっぽい)を分析して,カタログをお土産にした。
他の道具と違って,数万円だせばけっこういい望遠鏡が買えそう。(o^-^o)
あじすきさんが解説で書いてくれたシッカルト・クレーターは,
直径200キロ以上もあるそうだ。
だいたい関東平野くらいと思えばいいのかな?
どうかしっかる(り)とご覧下さい。
シッカルト・クレーター
http://universe.art.coocan.jp/moon/Schickard.html
シッカルトを検索したら,天文学者ケプラーのために計算機を作った人のようです。
つまりドイツの科学者の名前でした。
http://kmownet.com/info-science-basic/050-computer-hist/050-computer-hist.html
今回も前回と同じく,ライブのアップも早く,
私のリンクも遅れなかった。
せっかく頭慢はライブの日付を知らせ,
時間をおかずアップしてくれているのだから,
せめて私もそれに応えていきたい。
第24回目のライブ。
「力積」が感じられるようになってきましたね。
「涙のさいたま新都心」は,
アンコールの前に先手を打ったかな?
http://20f.jugem.cc/?eid=444
●第1部
0.(いちご白書をもう一度)
1.此処に居ます
2.両棲類
3.29のカクテル(作詞:たかしさん)
4.タマノタマシイ
5.時間について考える
6.函館のオヤジ
●第2部
7.南の島に雪が降る
8.ヤギのお母さん
9.さしみ屋
10.選ばなかった未来に
11.黄昏時の流行(作詞:BARL)
12.涙のさいたま新都心
●アンコール
13.大切にしたい
次回は,3月9日(土)です。
昨日は,終日上記の研究集会に参加した。
場所は,東武伊勢崎線の草加松原で下車した獨協大学であった。
(1) 斎藤さん~ブラック部活とブラックバイト・・・「ブラックつながり」が効果的でした。
(2) 中田さん~チャップリンとヒットラー・・・この2人が4日違いの生まれだという。さすがの教材
(3) 中條さん~日本人はどこから来たか?・・・ドキドキワクワクの社会科授業でした
(4) 倉持さん~第一次世界大戦とレッドポピー・・・新任1年目からこのレベルとはさすが!
(5) 髙橋さん~過疎地の生活の授業・・・愛知県に就職し,島根県に教材研究に!これは「財産」になる
ということで,午前・午後の5本の報告を聞くことができた。
中学分科会は3つあったのだが,直感を信じてこの部屋へ。
充実の1日となりました。(o^-^o)
昨日は午後から,上記のサークルに参加した。
歴協教の研究集会(1日目)や郷土研の「廻田の道」研究発表会とカブり,
苦渋の選択を迫られる土曜の午後だった。
参加者は,18名。
資料は,私のカウントでは11点。
直前の山路さんの講演会の流れを受けてのスタートだった。
先月と違い.大学生の参加はなかった。
【資料一覧】
(1) 小原茂さん~「たのしい授業」で幸せ人生を!・・・山路さんがテープ起こしをした小原さんのミニ講演
(2) 伴野さん~「TOKI DOKI LIFE」・・・扇野さんの「LIFE」にあこがれて,伴野さんが編む「LIFE」がステキ
(3) 石岡さん~資料が書きたいんですけど(相談したいこと&聞きたいこと)・・・授業評価と感想からでも
(4) 日高さん~おすすめ「3つまた迷路」・・・簡単にできる工作。実演してもらうと,その魅力が伝わります
(5) 小原陽さん~「板倉式発想法」って深すぎる・・・12月23日に行われた会の陽さん風参加報告書です
(6) 佐竹さん~学級開きは「たのしい授業」で・・・「お役立ち資料」です。特に「僕の怒ること」がいいですね
(7) 佐竹さん~僕のしごと・0「前書き」・・・「普段使わないものと目隠し」というのが素晴らしい配慮ですね
(8) 田辺さん~仮説実験授業と自己評価(?)・・・「自己評価から自己変革が見えてくる」との副題あり
(9) 村上さん~漢字多用の風潮と日本語のあり方(ことばと民主主義)・・・田中克彦さんの本の書評風
(10) 小俣さん提供~伊藤恵さん退職記念講演会・・・5月11日(土)午後1時半~立川RISURUホールにて
(11) 肥沼さん~月刊「仮説」新聞・1月号・・・「肥さんの夢ブログ」のアーカイブズ「仮説」編です
例会が始まる前に,山路さんが講演資料をくれました。ありがとうございます。
(1) 山路敏英退職記念講演 講演要旨「たのしかった大学教師生活,そしてこれから」
(2) 資料1~教師に向いている?向いていない?・・・講師時代に「あなたは向いていない」と言われたことアリ
(3) 資料2~ありがとう・さようなら~未来の先生たちへ~・・・資料1と共に最終講義のための資料です
(4) 資料3~未来の先生たちに伝えたかったこと~「最後の授業の記録を元に考える」「たのしい授業・
仮説実験授業の入り口で迷える人々の道案内」という2つの副題アリ
やはり昭島サークルは,とても勉強になるサークルです。毎月のように参加したい。
正式名は「たのしい教師入門サークル」といいますが,ちょっと恥ずかしいので昭島サークルで。
昨日,「西偏→正方位」と思ってがっかりしていたのだが,
川瀬さんのコメントに元気をもらって探したら,
何か所も「東偏の痕跡」がありました。
(1) 「橘樹郡衙 館か?」と書かれているクリーム色のところが,
4棟中3棟は東偏のようである。
(2) 伊勢山台地区に近い区画溝が東偏している。
(3) 川瀬さんご指摘のSB0080のほかにも,
SB0180や第6次の発掘の区画溝が東偏しているように見える。
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ということで,以下のように訂正します。
奈良文化財研究所のデータベースから
【倉庫群の方位が,東偏→西偏→正方位】
【影向寺の地下も,東偏→西偏→正方位】
橋本聖子氏が,池江選手に触れて発言していた。
自らの経験を踏まえての発言である。
池江選手も心強いのではないかと思った。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/橋本聖子氏「五輪の神様が池江選手の体を使って…」/ar-BBTFf6x?ocid=spartandhp#page=2
清水さんからカラーコピーをいただいたので,
とりあえずサイトをリンクすることから始める。
http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000093556.html
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奈良文化財研究所のデータベースから
【倉庫群の方位が,西偏→正方位】
【影向寺の地下にも,西偏と正方位が・・・】
昨日の午後3時から,変更された会が行われた。
当初午後4時からと聞いていたので,30分遅れて到着した。
(ということは,30分早く着いたということだが)
参加者は9名で,ちょうど私が到着した時には,
白石太一郎氏の講演会に参加した方からの報告だった。
なんと,250名もの参加だったという。
演題は,「どうして馬は倭国へやって来たのか」。
資料の中で,参考になると思ったのは,牧の分布図。
九州王朝から近畿王朝に受け継がれたのだろう。
また,沖ノ島の宝物の奉納時期が4世紀後半から9世紀との情報。
これって,150年遡させると3世紀半ばから7世紀半ばとなり,
ちょうど九州王朝の元気な時期に重なると思った。
(卑弥呼・倭の五王・太宰府都城の建設)
私の資料は,まず「改元と建元」から。
大宝以前の元号はみんな「改元」で,九州年号もチラ見させているが,
本当に言いたいのは大宝の建元なのである。
続いて,「泉官衙遺跡の類似遺跡」。
最近見出した「下野国庁(都賀評衙)」「幡羅官衙遺跡」「榛沢遺跡」を紹介した。
横浜読書会は,最初に泉官衙遺跡を紹介した記念すべきサークルなので,
これからも新しく見出した遺跡の紹介はここでしていきたい。
なお,先日の多元の会の発表は,たくさんの人が集まったようである。
(私は大宮へ旅立って,大収穫だった訳だが)
清水さんの司会で,前回の復習と『邪馬一国の証明』の読書と資料紹介。
おみやげに,「評瓦」の出土で知られる「影向寺」と橘樹評衙遺跡群関係のコピーをいただく。
カラーなので,いろいろな情報がつかめる。(東側の倉庫群の方位の違いなど)
ある方から三橋貴明の話を聞いてみるといいとアドバイスされ,
youtubeに上記の話を見つけたので貼り付けます。
先日明らかになった厚労省の統計問題について解説しています。
https://www.youtube.com/watch?v=oNYPRtxrnwM&feature=youtu.be
https://ja.wikipedia.org/wiki/三橋貴明
榛沢遺跡に単独で行っても悪くないが,
3月9日(土)の高崎サークルに合わせると,
JR岡部駅は高崎の手前なので,
榛沢遺跡+高崎サークルのツアーを組むことができる。
何年か前,高崎サークルの日に,午前中遺跡巡り,
午後高崎サークルというように時間を使っていた。
今回はそれと同じ形になる。(屋外なので,天気がいいとうれしい)
おまけに,高崎サークルの会場の近くには,
先日ご覧に入れたような発掘現場がある。
近所の発掘も始まるので,しばらく青ビ二ールシートの
発掘現場の写真が多くなるかもしれません。
私は中学社会の教員だったので,
主に社会の科学の授業書を使ったわけだが,
諸事情から自然科学の授業書を使うこともあった。
その思い出・・・。
最初の卒業生で,半年前に「34年ぶりの同窓会」を行った彼らとやったのは,
《食べ物飲み物何の色?》という授業書だった。
自然科学と社会の科学の間の公害問題の授業書で,
毛糸を合成着色料でそめるにぎやかなものだった。
とてもきれいに染まったので,授業の視聴率もよく,記憶に残ったという次第。
こういうのは教師冥利に尽きますね。
あとは,公害・環境問題で《もしも原子が見えたなら》の分子模型。
これはダイオキシン問題が勤務校のある所沢市でおこり,
ちょうどダイオキシンの分子模型を作って見せることができるようになり.
社会の授業が一気に自然科学化された瞬間だった。
また,《ものとその重さ》をクラブの時間にやったり.
分子模型作りや分子かるたモルカを部活の時間にやったり.
ノーベル賞受賞者の白川先生にお祝いの手紙を書くなどというのもやった。
社会科で,石油精製の話が出てくれば《三態変化》で蒸留の話をしたり.
石油会社にたのんで送ってもらった「いろいろな石油(原油から精製したものの色見本)」の
標本を見てもらって,イメージを膨らませることもやった。
社会科の授業でも,工夫次第で,仮説実験授業の自然科学的な要素を
取り入れることができると思っている。
先日の「鉄剣」の金銀の配合の違いについて,
山田さんがコメントして下さったので,
山田さんのサイトをリンクします。
(前もコメントしていただいた気がするが,
掲載は忘れた頃にやってくるですので失礼します。
もう載らないのかなと思っていました)
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/02/post-e294.html
コメントで「上弦」の意味を聞かれたが,
私もはっきりわからないので,
いくつか検索してみた。
http://www.geocities.jp/mishimagoyomi/mitikake/mitikake.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/弦月
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翔空さん.山田さん.川瀬さんへ
いろいろコメントいただきありがとうございます。
今はこう考えています。
【旧暦の月の前半・・・上弦の月】 新月から満月まで(太っていくやつ・狭義では半月のこと)
【旧暦の月の後半・・・下弦の月】 満月から新月まで(やせていくやつ・狭義では逆の半月のこと)
ある意味.その一番極端な形である半月の区別で,の方の半月を上弦.
その反対の形を下弦の月という。(どちらも月齢からいうと,ほんの一瞬のことかもしれません)
なので,川瀬さんからご指摘があった「半月の直前の月」は確かに「半月」ではないのですが,
本気で「半月」を撮るためには,長い時間の待機と風邪をひかないための周到な準備が必要です。
私はそれには耐えられないので,今度から正確に.少々長い題名になりますが,
「あと3時間38分後にぴったり半月になる予定の月」と書くことにしますね。(o^-^o)
飛鳥宮の南東に作られた「エビノコ郭」は,
その特徴(規模,西が出入り口,敷石から3本の階段跡)から
九州王朝のために作ったと考えている。
(川瀬さんの「主語有無」とも一致)
昨日の府中研究会で,ほかの宮には
それにあたるものがないのかが話題となった。
0.天智天皇の近江京・・・大極殿のようなもの
近江大津宮錦織遺跡~京阪電鉄近江神宮前駅のすぐ西方にあります。天智天皇(626-671)が1,300年以上も昔に、奈良の飛鳥(あすか)から遷都したという大津宮跡といわれています。国指定の史跡。現在、巨大な柱を埋め込むための1辺2m近い穴と、直径40mから50cmほどの柱跡が7つ、門跡、中心建物を囲んだと思われる柵列とその北側の倉庫群が発掘されています。
1.天武天皇の飛鳥京・・・「エピノコ郭」
2.天武天皇の前期難波京・・・東方官衙
3.持統天皇の藤原京・・・中央部
1だけ作って後は作らなかったというのも変だ。
白村江の戦いに敗れたとはいえ.やはり日本の主権者。
それぞれの都に「エピノコ郭」がない訳がないと思うのだが…。
昨日も,川瀬さんと上記の研究会を行った。
多元的「国分寺」研究サークルのサイトで毎日行っている
全遺跡の方位調査でアドバイスをいただく。
① 官衙や寺院全体の遺跡なら,正殿や金堂が中心と考える。
② 次に庇付きの建物が中心と考える。
③ それもない場合は,大型の建物を中心と考える。
これで,正答率が飛躍的に高まるといいなあ。
続いて,長野県の方位調査で,50年のズレがあることが確認できた。
信濃国分尼寺はもっとも古い時代の国府寺になる可能性が。(6世紀末?)
それより遠い地方(関東や東北)は,100,150年遡るかも・・・。
さらに,編年問題のレクチャー。
飛鳥編年と難波編年の違い。
それぞれの特色と20年のズレをどう考えるか。
図を描いていただいたので,よくわかりました。
ぜひ総批判論文にも,須恵器H,G,Bの図をお願いします。
【難波編年の成立の難しさ】
① 地名違い(浪速と難波)
→ 川瀬さんよりご指摘あり。「① 地名違い:誤:(浪速と難波)⇒正:今の難波宮遺跡の場所は
「難波長柄」ではない。 こういう通説派の文献史学者からの批判もあります。」
② 前期宮殿を壊さない形で後期宮殿を造っている関係性(天武ー聖武)
➂ 早すぎる朝堂院様式(近江京でやっと初期朝堂院様式)
その他,いろいろ。
残った時間で,発掘調査書の精査。
川瀬さんが,「西偏が正方位を切っている」遺跡を発見した。
つまり,古さの順が,東偏>正方位>西偏ということが証明されたのだ。
先日の幡羅官衙遺跡(埼玉県深谷市)よりもう少し北の岡部市に,
榛沢郡家(はんざわぐうけ)と呼ばれる官衙施設がある。
こちらは30年ほど前に発掘され,復元施設もできている。
その中心は中宿倉庫群で,幡羅官衙遺跡は埋め戻されて見学できないが,
こちらは「道の駅おかべ」のそばであり,JR岡部駅北1.5キロだそうなので,
近いうちに行ってみたいと思っている。(古代蓮の池もあるらしい)
榛沢郡家
http://www.ohoka-inst.com/hanzawa22.pdf#search=%27%E6%A6%9B%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1%27
評衙跡はないのかなあ,とページをめくっていったら,
点線で描かれていました。これも「東偏」でいいですかね。
おまけに,評寺としての岡寺も拡大すると,初期の基壇が「東偏」です。
つまり,幡羅官衙遺跡と同じで,九州王朝によって東偏の評衙政庁と倉庫群と評寺が作られ,
近畿王朝に政権が変わってからは場所を移動し,正方位にし,
サイズアップして郡衙政庁と大型倉庫と郡寺を作ったということである。
幡羅官衙遺跡と榛沢(中宿倉庫群)遺跡は「兄弟遺跡」と言えると思う。
ここにも,二つの王朝の変遷が刻まれていた。
※ 江口さんの『古代官衙』(ニューサイエンス社)には,
ごていねいに中里遺跡の倉庫の写真もありました。(^-^;
まだ高校を出たばかりの18歳。
競泳の池江選手に白血病が発症した。
急遽帰国の上,自分の状態を公表。
そして,さらにお礼のメッセージを出す。
これに私たちは応えなくてはいけないと感じた。
とりあえず,ブログでメッセージを読んだことを知らせ,
もし私の骨髄が池江選手ではないにしても、
白血病になって苦しんでいる方々のためになるのなら,
登録してお役に立ちたいと思った。
かつて,30代の頃一度登録しようとして,
不幸な事故があって「まだ早いのか」と引き下がった記憶がある。
そして,10年前私の友人の奥さんがドナーの方の骨髄で命をつなぎ,
今も元気で生活している。
今度こそ自分が動く時なのではないか。
白血病公表の池江が感謝のツイート「自分に乗り越えられない壁はない」【全文】
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6313770
今近所で水道工事をやっている。
先月から始まっていて,終わるのは来月に入るようだ。
水道が通らなければ水も利用できないわけで,
協力するしかないが,
工事する人たちもなるべく住民の生活に支障がないよう,
安全で能率よく作業を行っているようだ。
もう1か月,我慢しよう。
仮説実験授業は自然科学の授業書作りから始まったが,
当初から社会の科学の授業書は意識されていたという。
それは古田さんもそうだが,板倉さんも青春の時期に戦争を体験し,
簡単に間違った方向に導かれない人間作りという目標があったからだろう。
しかし,社会の科学の仮説実験授業は,そう簡単に出来上がらなかった。
1980年代に入って,そういう機運が盛り上がり,
竹内さんの「人口と歴史」をたたき台に,板倉さんが集中的な研究の末,
完成したのが《日本歴史入門》だった。
人口は食糧によって制限されるか,逆に生産量が上がれば人口も増える。
この「物質不滅の法則」みたいなものを,社会の科学の授業書として提出した訳だ。
私は幸いこの授業書《日本歴史入門》を就職浪人の年に手に入れた。
発売後まもなくの時期であった。その数日後にはもう仮説社に行っているから,
フットワークの軽さは昔からあったのだろう。
一番よく使用した社会の科学の授業書は《世界の国ぐに》で,
3年ごとに毎回授業にかけ,生徒たちに喜んでもらっていた。
・みんなで問題を解くたのしさ。
・人口の多い国の覚え方で,「人口多いは中印米国・・・」などと唱える。
・他の教材(かるた,国名の由来,GDPボックスなど)への発展。
3年間の中学社会科のスタートにやれることも、魅力の一つだ。
その他では,《世界の国旗》が講座用に便利だった。
《三権分立》《沖縄》《日本国憲法とその構成》など,
最初はなかった授業書たちに出会いながら,
私の教員生活を続けることができたのは幸いだった(o^-^o)。
戯れに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩歩まず
石川啄木
これは昔の母の場合である。
我が家の場合,( )に反対言葉が入る。
でも,その歌を詠んであげたら,母は理解して笑っていた。
まだ,もう少し読解力の方は大丈夫そうだ。
河村日下著『記紀神話の真実』(ミネルヴァ書房)の読書が続いているが,
一昨日読んだところの話を紹介しよう。
古事記・日本書紀・出雲風土記の解読には,
蛇の探求が欠かせないらしい。
上記書でも約30ページにそれを当てている。
「ナガ」「オロ」・・・蛇の別称・・・ナガモノ(青森県)。オロチ族。ヤマタノオロチ
「ヒバ」「カガ」・・・蛇の固有種名・・・ヤマカガシ。加賀?
「トシ」「トク」「トコ」・・・蛇の古語・・・歳徳神
「ツチ」・・・蛇の古語・・・建御雷
「ナメラ」・・・蛇を表す言語・・・縞蛇=シマナメラ(長野県)
「ノコ」・・・蛇の異称・・・ツチノコ
「コロ」・・・ツチノコ
「なお,当該漢字第一音節優先採用法」を採用して,解読を試みているそうだ。
古田さんも接頭語や接尾語を取って本来の意味を知ろうとしたと思うのだが,
河村さんの解読法はそれと似ている感じがする。
蛇はヤマタノオロチ以降,封印されたかのごとく,記紀に登場しないらしい。
※ これは上記書にはない話だが,「素人の直感」でいうと,
恵方巻は,その年の縁起のいい方位を向いて,切らずに無言で食べる。
これは歳徳神と関係があると思え,蛇の神様の力を長い巻物の形でいただくとすると,
「恵方巻の正体」は蛇だったりして・・・。
本日は,第二火曜日である。
我が家では,「母の日」になっている。
というのは,「歌とおしゃべりの会」がお昼を挟んで集会所で行われ,
その送り迎えが入るので私の時間が分断されるのだ。
普段の火曜日なら,午前9時から運動も兼ねて,スーパーへ買い物にいくところが,
本日は月に一度のケアマネージャーさんとの面談。
その後集会所へタクシーで行き,午後2時まで預かっていただく。(私は歩いて戻る)
午後2時に自転車で迎えに行き,荷物は自転車に積んで母は歩行運動。
帰りにスーパーへ寄って,本日の買い物はここに入る。
そういう合間をぬって,「私の時間」をいかに作るかが,
第二火曜日の課題だ。
なので,朝飯前の時間も貴重なひと時。
それが今。
さあ,そろそろ朝食にするか。(o^-^o)
今回幡羅官衙遺跡のことを知り,
江口桂編著『古代官衙』(ニューサイエンス社)を開いてみた。
そうしたら,江口さんの担当した所ではないが,
Ⅲ 地方官衙の中の[5]に小宮俊久さんの「郡衙」があり,
泉官衙遺跡(福島県南相馬郡)と幡羅官衙遺跡(埼玉県深谷市)のことが,
同りのじページで図入りで出ていた。(館を比べている)
さらに,ほかのところを見たら,「郡庁跡変遷図」というものが出ていて,
これは私の作りたいと思っているものに近い(ただし,編年は100年以上古くなるが)。
なので,7世紀後半から8世紀前期にかけての近畿王朝のサイズアップが,
この図では100年遅れて8世紀後半から9世紀前半に描かれていると考える。
(同じ福島県でも,東偏→正方位に対して泉官衙に対して,栄町官衙は西偏→正方位)
おまけに,以前こだわった山王廃寺下層建物遺構配置図が載っていた。
西偏→正方位で栄町官衙と似た変化をしている。
早い時期の「初期評衙」と考えられているようだ。
今回『古代官衙』からもっと学んでおくべきだったというちょっぴり恥ずかしい思いと,
『古代官衙』を開いてみたら,やはり同じような遺跡を扱っていて,ちょっぴり嬉しかった。
だが,大切なのはここから先である。まだ,編年の壁を作り替えていく仕事は続く。
自分ではとても真似はできないけれど,
世の中にはすごい生き方をしている人もいるんだなあと思う。
「スーパーボランティア」で有名な尾畠春夫さんのインタビュー。
スーパーボランティア・尾畠春夫さん、収入は年金月5.5万で雑草食べ節約も
https://news.nifty.com/article/magazine/12179-187525/
本日は,多元の会に参加して服部さんの太宰府の発表を聞こうと思っていたが,
昨日その内容が「古田史学会報」で分かってしまい,
また翔空さんから大宮の県立博物館の「官衙」の特別企画が終わりに近づいていると聞き,
そちらに方針変更することにした。さて,吉と出るか,凶と出るか。
博物館は,東武の大宮公園駅下車徒歩5分という感じで,
大変便利な施設である。(何かで1回行ったことがあるが思い出せない)
(1) 幡羅遺跡(深谷市)が「東偏」の官衙遺跡のようである
(2) クルル鉤を見られた
(3) 近くにも興味深い遺跡があることを知れた
リンクも貼り付けておきますね。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m101178-92070/up.jpg
http://www.city.fukaya.saitama.jp/haraiseki/haraisekinokakushisetu/1391408082843.html
「幡羅官衙遺跡群(幡羅官衙遺跡・西別府祭祀遺跡)」の国指定について
http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/soshiki/kyoiku/kounanbunkazaicenter/oshirase/hara-nisibeppu.html
【クルル鉤など】
以上のように,収穫大の午後でした。
服部さんの論文で,「一尺二十五cmの三六〇尺」というクダリがあり,
南朝尺のことかな,と気になっています。
『古田史学会報』2019年2月号
『古田史学会報』150号の内容
○太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する 八尾市 服部静尚
○『後漢書』「倭国之極南界也」の再検討 神戸市 谷本 茂
○『論語』二倍年暦説の史料根拠 京都市 古賀達也
○新・万葉の覚醒(Ⅱ)
-万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」- 川西市 正木 裕
○稲荷山鉄剣象嵌の金純度-蛍光X線分析で二成分発見- 東村山市 肥沼孝治
○〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書 古田史学の会・代表 古賀達也
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己
追伸がコメントに入っていたので,
そのままコピーを掲載します。
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追伸
>・文字史料に引っ張られて,年代判定が50年,100年後ろにずらされている。
これを直していくために,編年のし直しをしなければならない。
信州50年,関東100年等・・・。遺跡調査は,東山道を長野から群馬・栃木といく。
正しくは、国府や国分寺の年代比定は、文字史料に引っ張られて、年代判定が50年とか100年後ろにずれているのではないか。国府の場合は、諸国に国・郡・里の制を置くとの詔が出たのが、いわゆる大化改新詔で、同じくこの詔で、中央に都城制の都を築き、中央と地方を駅制で結ぶとあった。つまり都と国府を置くと宣言したのが650年頃と考えられてきた。ここから国府の年代は早くても7世紀中頃、多くは7世紀末から8世紀初と、中央からの遠いものほど後の時代と判断されて年代比定されているのではないかということ。そして国分寺は聖武のいわゆる「国分寺詔」が743年だから、最も早い国分寺で8世紀中頃と判断され、遅いものは8世紀末と考えられたのではないかということ。
こう判断してしまうと、実際の年代とは50年とか100年ずれたのではないか。
いわゆる「大化改新詔」はその年に九州王朝が出した全国一元統治宣言を近畿王朝が盗用したのだと思うが、一元統治がここから始まるのではなく、これは「一元統治の完成宣言」と思われるので、これ以前に諸国に国と評が置かれ、それぞれに国府と評衙が建設され、これと都を結ぶ大規模な官道が建設されてきたのだと思う。
他の所で肥沼さんが書いてくれたが、九州王朝による全国一元統治の試みの開始は、近畿王朝の年譜で言うと継体の時代。530年頃に東では武蔵国造の乱、西では筑紫君磐井の乱がある。これは九州王朝が列島の在地豪族勢力の縮減に手を付けた証拠。そしてこの乱ではそれぞれに屯倉という朝廷の直轄領が置かれた。屯倉は継体の次の安閑の所にきわめて設置記事が多く、かつ安閑紀には、諸国の屯倉から税を集める倉庫が、難波(これはもちろん九州の難波)に置かれ、諸国の屯倉から税を難波に集める役目が、有力な家臣に命じられたとある。
この時期が全国一元統治に向けた動きの起点。
その後どこかの時期で九州王朝の屯倉を拠点に評制が敷かれ、その評制が九州王朝の畿内にまず拡大され、そして全国に評制を敷き終わったとの宣言が、前期の大化改新詔群ではないだろうか。
こう考えると九州王朝の畿内である九州と近国では国府や評衙の設置は7世紀中頃ではなくもっと以前になり、それは6世紀末まで遡るのではないか。その後この動きは九州王朝の領域に拡大され、畿内以外の領域、つまり中国四国地方とおそらく関東にこれを拡大し終わったのが、7世紀中頃だと思うのです。そしてこの動きに従って半ば独立の王国である近畿天皇家の領域にも同じ制度が行き渡ったのが7世紀中頃だと。
こう考えると国府は、早い地方で6世紀末、遅い地方で7世紀中頃なのではないか。だから地方によっては50年から100年年代がずれる。
この国ー評制の拡大に伴って、諸国と諸評に官立寺院が建てられたと思うのだ。つまり国寺と評寺。したがってこの官立寺院の早いものは6世紀末で、遅いものでも7世紀中頃。
この国府に置かれた国寺に8世紀に入って近畿王朝が10巻本の金光明経を配り、これを配られた寺院の名を「国分の金光明経を持つ寺院」という意味で「国分金光明寺」と呼び換え、この「国分金光明寺」にあまねく七重塔を建立せよというのが聖武の国分寺詔だと考えます。
したがって諸国の国寺は8世紀の前半に「国分金光明寺」と呼び換えられ、その略称として「国分寺」という名称がつかわれたのだと考えます(同じ時期に諸国の尼寺には法華経が配られたので、諸国の尼寺も「国分の法華経を持つ尼寺」という意味の「国分法華尼寺」という名称に変えられ、略称としての「国分尼寺」が広がったのだと考えます)。
したがって国分僧寺と尼寺の年代を聖武詔ににそって8世紀中頃創建としてしまうと、実態とは150年から100年はずれてしまうということです。
私の読解力では川瀬さんのお話は誤解されるようなので,
コメントをコピーしてそのまま載せます。
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そうではなく、前回報告した国分寺北方遺跡の創建期1期a期に属する竪穴住居(つまり正方位の北向きの塔1と同じ時期のもの)から出た土器に「国寺」という墨書があった。この墨書を発掘者は「国分寺の略であり、当初からこの寺が国分寺と呼ばれていた証拠」とした。だがそうではなく、当初のこの寺は「国々の国府に置かれた寺で、こういう寺は国寺と呼ばれていた」と解釈すべきなのだ。つまりこの寺の性格は「武蔵の国の国寺」で、おそらく名称は「武蔵寺」。
以前続日本紀を分析してた時、文武紀の冒頭に、筑紫の筑紫観世音寺と筑紫尼寺に給付されていた官からの禄を停止するとの記事があった。この筑紫尼寺が何であるか不明とされているのだが、これを、筑紫の国府に置かれた国ごとの尼寺の名と私は解釈し、諸国の国府に置かれた僧寺と尼寺は、○○(国名)+寺、と○○(国名)+尼寺とされていたのではないかと解釈した。この時には国府に置かれた国立寺院は「国府寺」と総称されていたのではないかと考えていたが、今回武蔵国分寺の北方にあった、塔1と同じ時期の同じく正方位の建物群から出た墨書土器にあった「国寺」との墨書が、九州王朝時代の国府に置かれた国立寺院の名前だと判断したということです。
したがって武蔵国の国府に置かれた国立寺院(国寺)の名前は、「武蔵寺」と「武蔵尼寺」であったという結論に達したのです。
河村日下著『記紀神話の真実』(ミネルヴァ書房)の読書が続いているが,
昨日読んだところの話を紹介しよう。
古事記には出てくるが,日本書紀には出てこない神話に,
「因幡の白兎」というのがある。
大国主が活躍する話でよく知られているし,
サメかワニかで話題になったりもする。
あれが,隠岐(黒曜石の産地)をめぐる歴史の反映なのだという・・・。
あと,隠岐の呼び方で「島前(どうぜん)」「島後(どうご)」というのは,
どの王朝が付けた名前なのかという話も興味深い。
中さんが主宰している上記のサークルに,
二か月ぶりに参加してきた。
先月も参加したかったのだが,
行事が立て込んで苦渋の選択となった。
参加者は,中さんはじめ7名。
このくらいだと口も挟みやすい人数だ。
資料は,次の6点。
(1) 本間さん~「特別指導」解除・・・それぞれの大人たちの役割が生かされる時に,子どもたちも輝く
(2) 志田さん~「5までの数」に親しむ。単純に見えて,奥が深いカード遊び。私も社会科かるたを作った
(3) 門馬さん~「恵方巻」食べましたか?・・・『たの授』のグラフにぜひ取り上げたい。恵方巻ってすごい!
(4) 肥沼さん~「仮説新聞」12月号・・・前回のこのサークルの参加記もあり。月の写真も披露しました
(5) 奥さん~2回目の中さん授業参加記・・・羽村市立栄町での《もし原》の授業。小原講演の様子も少々
(6) 中さん~思いつくままに⑦・・・先月の会「男の先生・女の先生」の報告や板倉さんとの研究の思い出
平均年齢も高く,仮説実験授業に長年関わってきた人たちの集まりで,
落ち着いて時間を過ごせるサークルです。
「たのしい研究」というテーマもいい。(o^-^o)
雪がチラつく仮説社を後にする。
巣鴨駅から山手線と総武線を乗り継いで浅草橋駅へ。
「すき家」で夕飯を食べて,スローライフへ。
到着したのは,ライブが始まる午後6時ジャストだった。
前回はトリの6番くじを4番の方に取り換えていただいたが,
今回も6組中5番目。(毎回代えてもらうわけにもいかず)
どうもあいせだは大物なのか,「トリに近い順番」を引き当てやすいらしく,
大量に食べてきた夕食は,そういう意味では正解であった。
前半に登場した男女のペアが印象に残った。
普段2人とも別な活動をしているらしいが,
それぞれの個性をうまく生かしあって楽しませる。
https://www.awayuikanako.com/single-post/2018/08/22/Yuzukanaの初CD「iris」
満をじして,あいせだが5番目に登場した。
期するところあったらしく,МCの無駄遣いは減っていた。
最後に「おじいちゃんの唄」を歌ったのは正解で,
てるちゃんの直感が当たったと思う。(たべさんもよく応えた)
ライブというのは客とのキャッチボールなので,
8割は予定通りだが,2割は柔軟な対応が必要だ。
また,ただ楽曲を並べるのではなく,後半に向けて盛り上げることも。
そういう意味では「おじいちゃんの唄」はトリの楽曲なので,
最後に持っていきたいし,「新宿の夜」で「お祭りみたいだと思ったら,
本当にお祭りの日だった」というのは,必ずウケるネタなので,
前半の方に配置して,客の心をつかみたい。
あと,正調の歌い方が多くて単調に聞こえるのを失せぐために,
独唱部分を入れたり,力を抜くところを入れたりするといいな。
いろいろ書いたけど,昨日は「進化した」と感じていて,
応援団長としてうれしいので,多く書かせていただいた。
では,新デジカメで撮った写真をどうぞ!
所沢の夜は~♪(23時頃)
念のため「鈴」でも引いてみた。
引いてよかった。幸徳紀の中に,「造鈴契」が出てきたからである。
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▼日本書紀 巻第一 神代上
等・大三輪君等・又姬蹈鞴五十鈴姬命。又曰、事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也。初、大己貴神之平國也、行到出雲國五十狹々小汀、而且當飲食。是時、海上忽....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第二 神代下
峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彥神者、則到伊勢之....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第三 神武天皇紀
櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」天皇悅之。九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第四 綏靖天皇~開化天皇
天皇第三子也。母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也。天皇風姿岐嶷、少有雄拔之氣、及壯容貎魁偉、武藝過人、而志尚沈毅。至卌八歲、神日本磐余彥天皇崩。時、神渟名川耳尊、孝性純深、悲慕無已、特留心於喪葬之事焉。其庶兄手硏耳命、行年已長....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第六 垂仁天皇紀
祠立於伊勢國。因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。一云、天皇、以倭姬命爲御杖、貢奉於天照大神。是以、倭姬命、以天照大神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢國渡遇宮。是時倭大神、....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第九 神功皇后紀
「神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。」亦問之「除是神復有神乎。」答曰「幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。」問「亦有耶。」答曰「於天事代於虛事代玉籤入彥嚴之事代主神有之也....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第十一 仁徳天皇紀
大溝於感玖、乃引石河水而潤上鈴鹿・下鈴鹿・上豐浦・下豐浦四處郊原、以墾之得四萬餘頃之田。故、其處百姓、寛饒之無凶年之患。十六年秋七月戊寅朔、天皇、以宮人桑田玖賀媛、示近習舍人等曰「朕、欲愛是婦女、苦皇后之妬、不能合以經多年....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第十二 履中天皇~反正天皇
名、以姧黑媛、是夜仲皇子忘手鈴於黑媛之家而歸焉。明日之夜、太子、不知仲皇子自姦而到之、乃入室開帳居於玉床、時床頭有鈴音、太子異之問黑媛曰「何鈴也。」對曰「昨夜之非太子所齎鈴乎、何更問妾。」太子、自知仲皇子....→ このページで合計4件ヒット
▼日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
俄而皇女、齎持神鏡、詣於五十鈴河上、伺人不行、埋鏡經死。天皇、疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓、乃於河上虹見如蛇四五丈者、掘虹起處而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍、割而觀之、腹中有物、如水、水中有石。枳莒喩、由斯、得雪子罪、還悔殺子、報殺....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
慄也。馬子宿禰大臣咲曰、可懸鈴矣。由是、二臣微生怨恨。三輪君逆、使隼人相距於殯庭。穴穗部皇子欲取天下、發憤稱曰「何故事死王之庭、弗事生王之所也。」 ....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰....→ このページで合計10件ヒット
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神代1 ▲▲
神代2 ▲▲
神武 ▲▲
綏靖 ▲▲▲
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開化
崇神
垂仁 ▲
景行・成務
仲哀
神功 ▲▲
応神
仁徳 ▲▲▲
履中・反正 ▲▲▲▲
允恭・安康
雄略 ▲▲
清寧・顕宗・仁賢
武烈
継体
安康・宣化
欽明
敏達 ▲
用明
崇峻
推古
舒明
皇極
孝徳 ▲▲▲「造鈴契」を含む
斉明
天智
天武 ▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
持統
ここまで来たら「駅鈴」です。
・・・・・「駅鈴」・・・・・1件(3個)・・・・・「やはりそうか」と思った・・・・・
▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得....→ このページで合計3件ヒット
出てきたのは1件(3個)でした。
あの壬申の乱の印象的な場面のみです。
時は「ONライン」の前ですから,当然九州王朝の駅鈴でしょう。
やはり,九州王朝の時代から駅鈴はあった。
そして,それは王朝の証拠ゆえに隠された。
さらに,近畿王朝で初めて作ったかのように「刻み入り」の駅鈴を宣伝した。
「続日本紀」には,何回も駅鈴の話が出てきますからね。
「日本書紀」の全文検索を使って,
「駅」をやってみました。
・・・・・駅・・・・・9件(20個)・・・・・分布が作れるかも・・・・・
▼日本書紀 巻第九 神功皇后紀
懷也。」増賜多沙城、爲往還路驛。五十一年春三月、百濟王亦遣久氐朝貢。於是、皇太后語太子及武內宿禰曰「朕所交親百濟國者、是天所致、非由人故。玩好珍物、先所未有。不闕歲時、常來貢獻、朕省此款、毎用喜焉。如朕存時、敦加恩惠。」卽年、以千....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。五月、殯于河內古市。秋八月丙子朔、新羅遣弔使未叱子失消等、奉哀於殯。....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
、馬子宿禰聽而驚之。丁未、遣驛使於筑紫將軍所曰「依於內亂、莫怠外事。」是月、東漢直駒、偸隱蘇我嬪河上娘、爲妻。河上娘、蘇我馬子宿禰女也。馬子宿禰、忽不知河上娘爲駒所偸、而謂死去。駒、汙嬪事顯、爲大臣所殺。 ....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
朔丙子、來目皇子薨於筑紫。仍驛使以奏上、爰天皇聞之大驚、則召皇太子・蘇我大臣、謂之曰「征新羅大將軍來目皇子薨之。其臨大事而不遂矣、甚悲乎。」仍殯于周芳娑婆。乃遣土師連猪手令掌殯事、故猪手連之孫曰娑婆連、其是之緣也。後葬於河內埴生山....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
仁阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛馬來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第二十六 斉明天皇紀
言、臣等初漂泊于海見嶋。乃以驛召。辛丑、作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人或本云、墮羅人。九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往牟婁温湯、偽療病來、讚國體勢曰、纔觀彼地、病自蠲消、云々。天皇、聞悅、思欲往觀。是歲、使々於....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得....→ このページで合計8件ヒット
▼日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。庚午、縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴。癸酉、大宅王卒。九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者....→ このページで合計1件ヒット
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神武
綏靖
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開化
崇神
垂仁
景行・成務
仲哀
神功 △
応神
仁徳
履中・反正
允恭・安康
雄略
清寧・顕宗・仁賢
武烈
継体
安康・宣化
欽明 △
敏達
用明 △
崇峻
推古 △
舒明
皇極
孝徳 △△
斉明 △△△
天智 △△△△△△△△
天武 △△△△△△△△△△△
持統
「日本書紀」の全文検索を使って,
「駅馬」をやってみました。
・・・・・駅馬・・・・3件(4個)・・・・・かなり少ない。しかも,欽明天皇以降・・・・・
▼日本書紀 巻第十九 欽明天皇紀
皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。五月、殯于河內古市。秋八月丙子朔、新羅遣弔使未叱子失消等、奉哀於殯。....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
仁阿曇連比羅夫、從筑紫國、乘驛馬來言、百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。臣隨弔使、共到筑紫。而臣望仕於葬。故先獨來也。然其國者、今大亂矣。二月丁亥朔戊子、遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、遣百濟弔使所、問彼消息。弔使報言、百....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横....→ このページで合計2件ヒット
デジタル大辞泉の解説
きんめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【欽明天皇】
[510~571]第29代の天皇。継体天皇の皇子。名は天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)。
在位中に百済(くだら)から仏教が伝来したという。
この時期は,九州王朝が全国支配に乗り出した時期かもしれないと,
昨日川瀬さんがおっしゃっていた。(東偏もその一つか)
そのためには,各地をつなぐ道や駅場が必要になってくる訳だから,
とても筋の通る話である。
神武
綏靖
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開化
崇神
垂仁
景行・成務
仲哀
神功
応神
仁徳
履中・反正
允恭・安康
雄略
清寧・顕宗・仁賢
武烈
継体
安康・宣化
欽明 〇
敏達
用明
崇峻
推古
舒明
皇極 〇
孝徳 〇〇
斉明
天智
天武
持統
いつもの水曜日ではなく,金曜に開きました。
発掘調査報告以外の話題から・・・。
・ついに「難波京」問題の総批判がまとまるようです。
A4判4枚にまとめられた論文には,まだ須恵器杯の写真なども入れるそうなので,
かなりの量のものになるらしいです。
とりあえず「「難波京整地層出土「須恵器杯B」の真相」の真相は?」という題名だけお知らせしておきます。
・武蔵国分寺の北方東遺跡について,10世紀末まで活動が続いたらしく,
西偏4~7度の建物が多く,正方位のものもあるなど。残るは,国分寺4小遺跡か。
・「駅」「駅鈴」などで,全文検索してみてはどうか。見えてくるものがあるはず。
北周の登場が530年なので,継体の時期に当たりで,盤井の乱や武蔵国造の乱が起きている。
九州王朝が全国支配に乗り出したということの反映ではないか。東偏も。
・文字史料に引っ張られて,年代判定が50年,100年後ろにずらされている。
これを直していくために,編年のし直しをしなければならない。
信州50年,関東100年等・・・。遺跡調査は,東山道を長野から群馬・栃木といく。
・「国寺」という墨書土器が多い。「武蔵国府寺」ではなく,「武蔵国寺」と呼ばれていたからか。
・吉田兼好のことを扱った『兼好法師』という本がお薦めとのこと。
そのあとの発掘調査報告書の中で,川瀬さんが発見。。
A地区でN2=奈良時代Ⅱ期(726~750年)の東偏が見つかった。
これでいくと関東の編年は100年ずれている。
目が慣れてきているので,府中市の報告書(真北で統一されている)だと,
そういう珍しいものがパッと目に入ってくる。
『たの授』2月号にると,2月8日の記事で金曜サークルが出ていた。
ところが別なページに上記の会も行われることが出ていた。
「板倉聖宣とその時代(9」」・・・今月は,板倉さんの「中学卒業から高校に入るころ」ー
敗戦の衝撃をばねに,思想の核を形成していった時代のお話になる予定です。
講師は重弘さんで,私が15分くらい遅れて到着した時には,
信州に疎開していた話のところだった。
20分ほど立ち聞きしていたが,席も「諸先輩たち」で埋まり,
疲れてもいたので帰ることにした。
帰りしなに,板倉訳の『望遠鏡で見た星空の大発見』(ふつう「星界の報告」と訳されている)
というブックレットを買った。
表紙と月の満ち欠けのところをどうぞ!
昨日が暖かったので,
今日の冷え込みはけっこう堪える。
しかし,上には上がいて,
北海道ではマイナス20℃以下のところもあるらしい。
(冷凍庫に相当し,アイスクリームが溶けない・・・)
日本って,気温の差が激しいな。
沖縄のある島は,昨日27℃あったそうだ。
北海道で厳しい冷え込み
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6313147
翔空さんに聞かれて,上記の言葉で検索したら,
知恵袋にその解答とひと月の呼び名が出ていた。
いくつかは,古典にも出てきますね。
1:朔(さく)/新月(しんげつ)
2:既朔(きさく)
3:三日月(みかづき)
7/8:上弦(じょうげん)
13:十三夜(じゅうさんや)
14:小望月(こもちづき)/幾望(きぼう)
15:満月(まんげつ)/望月(もちづき) 2/20
16:十六夜(いざよい)/既望(きぼう)
17:立待月(たちまちづき)
18:居待月(いまちづき)
19:寝待月(ねまちづき)/臥待月(ふしまちづき)
20:更待月(ふけまちづき)
22/23:下弦(かげん)
29/30:晦(つごもり)
仮説社御中
東村山の肥沼です。
『たの授』12月号で特に良かったのは,次の3点です。
(1) 心躍るような毎日(郡さん)
かつて担任したクラスの子どもからのうれしい連絡。
しかも仮説実験授業からスタートした化学への興味は,今の仕事にもつながる。
こんな素敵な人生が,授業を通して創られていくという話は,
若い先生たちにとって大きな希望となると思いました。
郡さん自身は大変な思いをした代打クラスだったようですが,
きっとその分子どもたちの喜びも大きかったのでしょう。
(2) 自分自身が納得できるかっこよさを求めて(下)(松木さん)
(上)の話もよかったですが,こちらも素晴らしかったです。
いろいろなタイプの子どもたちとかかわる中で,最初は遠い存在だった科学が
仮説実験授業によって,自分と子どもたちとの間を結び付けてくれる
かけがえのないものになっていく。科学を中心に据えた30年間が
自分自身でかっこいいと思える。カッコイイ教員生活でした。
(3) 組み合わせ式分子模型で化学反応を(由良さん)
私は三田村式の分子模型を知らないので,仮説実験授業でよく出てくる
1億倍の分子模型が「私にとっての分子模型」です。幼いころ積み木やブロックで
遊んだことは,脳みそを大いに刺激してくれたと思っています。
ぜひ私も「モルックス」のセットを買って,皆さんに披露したいです。
左脳・右脳使いまくりの週末になりそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8日(金)・・・府中研究会(川瀬さん)→金曜サークル(亀川さん)
9日(土)・・・たのしい研究の語り場(中さん)→あいせだのライブ
10日(日)・・・多元の会 服部さんの「条坊都市はなぜ造られたか」他
11日(月)・・・横浜読書会(清水さん) 15時~
昨日も定例の世話人会があり,参加した。
前回は失念して短時間か参加できなかったので,
気合を入れて30分以上前に行ったので,
郷土研以外のことも話せた。
話題は,来年度の予定や今後の「郷土研だより」の内容。
郷土研主催の講演会(3人が廻田の道について話す)。
半日遠足である「東大和の見て歩き」など,多彩だった。
パソコンが不具合ということで,新春講演会の内容は,
ノーみそテープ起こしだけで,編集をしていただけることになった。
ありがとうございます。m●m
「郷土研だより」2月号の原稿
平成31年度 新年祝賀会の開催報告
秋津町 肥沼 孝治
日時 平成31年1月20日(日) 12時30分~14時50分
会場 中国料理「彩雅」 参会者 31名
新年祝賀会は、小池副会長の司会により定刻に開始された。
【大井会長の挨拶】(要旨)
〇多くの来賓の皆様のご援助とご協力に感謝申し上げます。「郷土を語る会」をきっかけに、
昭和45年にスタートした郷土研も、来年が50周年となります。現在100名近くの会員がおり,
10年ごとに作られてきた記念誌も、5冊目を作る時期となりました。過去を知り,未来を切り
開くために、どうぞお力添えを下さい。
【来賓祝辞】
渡部尚市長・伊藤眞一市議会議長・野崎満教育部長の三氏より
〇多くの方が集まり、郷土について研究し、記録されていることに、感謝と敬意を表します。
今年5月に元号が変わり、来年はラグビーのW杯が開催され、2年後には東京五輪が開かれる。
東村山市も55年。皆さんと共に明るい未来を切り開いていける年にしたい。
〇旧5か村が合併して130年。市になって50年。当時は5万人で市になれたが、今は15万人と
なった。大事なお仕事をされていると思っている。
〇毎号「郷土研だより」を楽しみにしている。今後もよろしくお願いします。
【参会された来賓等の紹介】(会長より)
市長・渡部尚氏、市議会議長・伊藤眞一氏、市議会副議長・小町明夫氏、市議会生活文化委員長・
石橋博氏、教育部長・野崎満氏、ふるさと歴史館長・中澤信也氏、元ふるさと歴史館長・山﨑泰子氏、
賛助会員・髙山博之氏、元本会会長・日笠山正治氏の9名。
【祝宴】
石橋市議会生活文教部長のご発声で,本会の発展と参会者の健康を祈り乾杯し、会食・懇談した。
ここで司会は、内海副会長に交代した。
【スピーチ・余興】
〇お招きした方々全員から、郷土研に対する激励を頂戴しました。ありがとうございました。
〇髙山元副会長から、「ここ4、5年の郷土研の研究は素晴らしい。ぜひ「東村山市の『市史研究』に
載せたい」と発言があり、また日笠山元会長からも、「今年で90歳になりますが、まだまだ頑張って
いきたいと思います」と激励をいただいた。
〇小池副会長の「慶春」の書の紹介があった。
〇新入会された肥沼・當間実両会員の抱負、小山会員からの研究活動についての報告があった。
〇今回は鈴木会員の呼びかけの下、9名の女性合唱団が結成され、滝川会員のハーモニカ伴奏で、
「瀬戸の花嫁」「早春賦」「ふるさと」をリードし、全員で合唱しました。「故郷」を大切にする気持ちでを、
新たにした一幕でした。
【万歳三唱・閉会】
遠藤会員の元気なリードで、本会の一層の発展を祈って万歳三唱し、閉会した。
◇
昨年と同様、中国料理「彩雅」をお借りしての新年祝賀会は、お店側の施設・設備ならびにご協力で、
スムーズに行うことができた。この日は、各所の新年会が重なったようで、予定の順番でスピーチ
いただけなかった方もいるが、全体として楽しく新年の初めの時間が過ごせて良かったと思う。
来賓の方々にはお忙しいところ最後までご同席下さり、ありがとうございました。また、会員も
お互いに親交を深めることができたと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
ご協力ありがとうございました。
アメリカでの調査と書いてあったが,
心配事の80%は実際には起こらないし,
準備しておけば残りの16%も防ぐことができるそうだ。
私は心配性なものなので,ついつい心配して悩み,
そのくせ準備も中途半端に終わっている。
悩んでいる暇があったら,準備して%を減らそう。
4%にまで減らせるなら,相当安心だもの。(o^-^o)
今天気予報を見て,びっくり。
今日・・・17℃
明日・・・10℃
明後日・・・4℃か
この3日で,13℃の気温の急降下があるという。
そういえば,明後日はあいせだライブの日。
「あいせだ★ラジオ」でも,寒くなるって言っていたなあ。
※ それが終わると,来週は平年並み、(10℃いかない日々)
河村日下著『記紀神話の真実』(ミネルヴァ書房)の読書が続いているが,
昨日読んだところの話を紹介しよう。
古志(越)からの独立運動に成功した出雲・伯耆のスサノオは,
彼らと同盟していた北九州のイザナギや天照たちを襲い,制圧する。
イザナギ(吉武高木に関係が深いようだ)は死に、天照も壱岐・対馬に逃れる。
壱岐では田を荒らし,神聖な場所も汚す。
対馬では,天の岩戸の隠れるものの,追っ手は厳しく,
とうとう見つけ出されてしまう。
天照とスサノオが姉弟という記紀の設定は,まったく違っていた。
違う王朝のリーダーだったのである。w(゚o゚)w
川瀬さんの指摘された、筑後国府のパンフとより古い地区の図を載せます。
これも東偏ですね。
筑後国府のパンフ
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1060manabi/2050bunkazai/3010bunkazai/files/2011-0119-1342.pdf#search=%27https%3A%2F%2Fwww.city.kurume.fukuoka.jp%2F1060manabi%2F2050bunkazai%2F3010bunkazai%2Ffiles%2F201101191342.pdf%27
筑後国府Ⅰ政庁地区
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102922-80052/up-1.jpg
平成31年度 新年祝賀会の開催報告
秋津町 肥沼 孝治
日時 平成31年1月20日(日) 12時30分~14時50分
会場 中国料理「彩雅」 参会者 31名
新年祝賀会は、小池副会長の司会により定刻に開始された。
【大井会長の挨拶】(要旨)
〇多くの来賓の皆様のご援助とご協力に感謝申し上げます。「郷土を語る会」をきっかけに、
昭和45年にスタートした郷土研も、来年が50周年となります。現在100名近くの会員がおり,
10年ごとに作られてきた記念誌も、5冊目を作る時期となりました。過去を知り,未来を切り
開くために、どうぞお力添えを下さい。
【来賓祝辞】
渡部尚市長・伊藤眞一市議会議長・野崎満教育部長の三氏より
〇多くの方が集まり、郷土について研究し、記録されていることに、感謝と敬意を表します。
今年5月に元号が変わり、来年はラグビーのW杯が開催され、2年後には東京五輪が開かれる。
東村山市も55年。皆さんと共に明るい未来を切り開いていける年にしたい。
〇旧5か村が合併して130年。市になって50年。当時は5万人で市になれたが、今は15万人と
なった。大事なお仕事をされていると思っている。
〇毎号「郷土研だより」を楽しみにしている。今後もよろしくお願いします。
【参会された来賓等の紹介】(会長より)
市長・渡部尚氏、市議会議長・伊藤眞一氏、市議会副議長・小町明夫氏、市議会生活文化委員長・
石橋博氏、教育部長・野崎満氏、ふるさと歴史館長・中澤信也氏、元ふるさと歴史館長・山﨑泰子氏、
賛助会員・髙山博之氏、元本会会長・日笠山正治氏の9名。
【祝宴】
石橋市議会生活文教部長のご発声で,本会の発展と参会者の健康を祈り乾杯し、会食・懇談した。
ここで司会は、内海副会長に交代した。
【スピーチ・余興】
〇お招きした方々全員から、郷土研に対する激励を頂戴しました。ありがとうございました。
〇髙山元副会長から、「ここ4、5年の郷土研の研究は素晴らしい。ぜひ「東村山市の『市史研究』に
載せたい」と発言があり、また日笠山元会長からも、「今年で90歳になりますが、まだまだ頑張って
いきたいと思います」と激励をいただいた。
〇小池副会長の「慶春」の書の紹介があった。
〇新入会された肥沼・當間実両会員の抱負、小山会員からの研究活動についての報告があった。
〇今回は鈴木会員の呼びかけの下、9名の女性合唱団が結成され、滝川会員のハーモニカ伴奏で、
「瀬戸の花嫁」「早春賦」「ふるさと」をリードし、全員で合唱しました。「故郷」を大切にする気持ちでを、
新たにした一幕でした。
【万歳三唱・閉会】
遠藤会員の元気なリードで、本会の一層の発展を祈って万歳三唱し、閉会した。
◇
昨年と同様、中国料理「彩雅」をお借りしての新年祝賀会は、お店側の施設・設備ならびにご協力で、
スムーズに行うことができた。この日は、各所の新年会が重なったようで、予定の順番でスピーチ
いただけなかった方もいるが、全体として楽しく新年の初めの時間が過ごせて良かったと思う。
来賓の方々にはお忙しいところ最後までご同席下さり、ありがとうございました。また、会員も
お互いに親交を深めることができたと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
ご協力ありがとうございました。
もう2月に入って何日も過ぎてしまいましたが,
前に載せた「1月前半のアクセス数」の続きです。
後半は,ものすごくアクセスしていただけました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
検索 延べ 実質
1/16(水) 586 208 170
1/17(木) 614 219 170
1/18(金) 451 183 149
1/19(土) 430 218 170
1/20(日) 376 223 183
1/21(月) 475 245 206
1/22(火) 518 228 178
1/23(水) 576 246 190
1/24(木) 636 268 218
1/25(金) 557 214 168
1/26(土) 727 403 350 → 「ボヘミアン・ラプソディー」
1/27(日) 540 227 181
1/28(月) 536 191 146
1/29(火) 504 176 133
130(水) 482 211 169
1/31(木) 439 176 135
さすがに,クイーンの力は絶大でした。
あと,月の写真や古代史論争もあり。
私はなんとか「九九」のハードルは乗り越えた。
だが,先生の前にできた列に並んで,
暗記した九九を言えるようにドキドキした時間を過ごした。
九九が通しで言えた時,私は「うれしかった」というより,
「もうこのドキドキした時間を過ごさなくていい」という気持ちになった。
仮説の板倉さんも九九は苦手だったと聞いたことがある。
そんな九九。あなたはどんな思い出がありますか?
「九九」苦手と感じている大人は意外におおい? 10本の指で即座に9の段を攻略もを
https://news.nifty.com/article/item/neta/12189-20161991276/
河村日下著『記紀神話の真実』(ミネルヴァ書房)の読書が続いているが,
昨日読んだところの話を紹介しよう。
出雲神話にはスサノオが登場し,英雄的な働き(八岐大蛇の退治)をする一方,
高天原での乱暴狼藉(とても書くにしのびない)は言語道断である。
このスサノオの二面性がなかなか理解できないところだ。
皆さんは,いかがでしょうか?
これを河村氏は,こう解いた。
(1) 自分たちの支配者であった古志(越)国に対する「独立戦争」のヒーローとしてのスサノオ(〇)
(2) 九州王朝にとっては,許しがたい支配者(出雲・因幡)としてのスサノオ(×)
つまり,支配した順番で言うと,①古志(越)→②出雲・因幡→➂九州王朝→④近畿王朝ということになり,
②の人物であるスサノオは,①から独立した時点では②の「ヒーロー」であり,
その後に支配者になった時点では,➂にとっては許しがたい支配者に映る,ということらしい。
確かにスサノオの二面性について,そう考えるとわかりやすい。
最近月の写真を「夢ブログ」に載せているが,
月といえば米国のアポロ計画があり,
子どもの頃「月の石」にあこがれた。
月面に立ったアームストロング船長の姿と彼の言った言葉は,
今でも心の中に輝いている。
そんな映画がもうすぐ観られる。(o^-^o)
「ファースト・マン」2月8日に公開!
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/「ヒーロー扱い、父は嫌った」-アポロ%EF%BC%91%EF%BC%91号船長の次男/ar-BBTbPwK?li=BBfTjut&ocid=spartandhp#page=2
夢ブログは再開しました。
メールはまだなので,お急ぎの連絡はコメントをご利用下さい。
(表には出しませんので)
自然科学では,「物質の同定」という方法があって,
たとえば,「石灰水に溶かすと白くにごるのは,二酸化炭素だけ」みたいに判定する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%AE%9A#どの階層まで確実か
社会の科学ではそういうことは言わないのだと思うが,
例の「九州王朝の東偏→正方位→近畿王朝のサイズアップした正方位」は,
けっこうその線で行けるのではないかと考えている。
私ももういくつか例を出したいと思っているが,ご協力いただければありがたい。
とりあえず,東山道などの官衙遺跡から・・・。
川瀬さんがコメントで紹介されていた上記のパンフをリンクしてみた。
東偏の推定地D(木下良さんの『国府』掲載)に目もくれず,
南側をスルーして,その後東進。
いかにも近畿王朝が作りそうなコースです。
私は東偏のD推定地の真ん中を通り,本国分寺に至る道が,
もともとの東山道だったのではないかと考えます。
http://www.maibun.or.jp/newsPDF/20120821.pdf#search=%27http%3A%2F%2Fwww.maibun.or.jp%2FnewsPDF%2F20120821.pdf%27
私が「泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!」を
10月6日に書いてから,約4か月が経った。
その間いろいろなことに取り組んできたが,いつも頭の片隅にあったのは,
泉官衙遺跡と似た遺跡を見つけ出すことだった。
九州王朝の東偏 → 正方位 → 滅亡 → 近畿王朝のサイズアップした正方位 → 律令の衰え
などという,細かな歴史の変遷など,そう簡単に見つからないかもしれないと思いつつも,あきらめなかった。
そして,やはり歴史は「地下の方位」に刻まれていたのだった。
上図の推定値Dの東偏と下図の4つの変遷は,まさしく泉官衙遺跡の変遷をなぞる,
「2つの王朝の「栄枯盛衰」を示すもの」だと考える。
新聞の「月の出」「日の出」の時間を見たら,
いつの間にか「日の出」が先になっていた。
夜明け前の金星と木星に続いて出るのは太陽で,
その後に遅れて出てくる月は「新月(見えない)」に近く,撮りようがない。
しかし,そこでハタと気がついた。
下弦の月が終わったからには,今度は上弦の月に変わる。
最初は細い月だが,やがて半月
となり,
最後に満月となるのである。
そして,その2月20日は,今年は最大のスーパームーンなのだ。ヽ(´▽`)/
先月高性能のデジカメ(と言っても2万5000円)を買ったのも,
1月の満月(今年№2)から2月の満月(今年№1)への変化を記録するためと思えば,
決して高い買い物とはいえないだろう。
今年№1のスーパームーンをとった後,私の題材は「富士山」へと変わる。
先日武蔵浦和から撮った富士山の美しさを見ていただけただろうか。
月と同じく富士山も,全国の多くの都県で見ることができる。
俵万智の「サラダ記念日」ではないが,毎日が「富士山記念日」なのだから。
昨日新所沢の房yaでランチをしようと立ち寄ったら,
「都合によりランチはお休み」とのこと。
ということで,10年ぶりくらいに,
レストラン「トナリ」へ行くことにした。
このレストランはご夫婦でやっていて,
私はそこから数十mの公団住宅に住んでいた。
私が新任の頃お店を開いていたくらいだから,
40年近くのお付き合いということになるだろうか。
本当に久しぶりの再会だった。
(近所に勤務したK中があったので,それくらい)
その店で,房yaで時々お会いする女性にばったり会った。
しかも,ちょうど隣りの席が空いていたので,
「トナリで隣りになる」という駄洒落のような出会いである。(笑)
ちょうどエキストラに関係する資料をお貸ししていたので,
そのことから話が始まり,家族や介護の話にまで進んでしまい,
お店には申し訳なかったが,楽しい時間を過ごせた。
ぜひ「夢ブログ」を見て下さい,と言っておいたので,
もしかしたらご覧になっているかもしれません。
今後ともよろしくお願い致します。m●m
PS 昨日は二人とも「チキンライス」を注文していた。
昨日は,上記の例会に参加した。
参加者は,峯岸さん,品川さん,吉江さん,伴野さん,高畠さん,市原さん,北村さん,森さん,
花岡(麻)さん,花岡(陽さん),永島さん,田村さん,新井さん,板橋さん,星野さん,肥沼さんの16名。
資料は,私のカウントでは,30点だった。
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スタート講演は,初参加の高畠さん。介護の仕事から教職に転じた方で,
そのパワフルなしゃべり方とともに,仮説実験授業とたのしい授業を大切にしている。
初参加ということで「自己紹介」が長くなったが,子どもたちとの関係も良好で,
「いいと思ったものは取り入れる」という生き方も素晴らしい。
だいたい1時間ということで,ケーキその他のもぐもぐタイム。
今回も忘れず,撮りました。写真での「おすそ分け」をどうぞ。
それとは別に,田村さんがパスタを油で揚げたスナックを提供して下さいました。
以下,ほぼ資料の順番で紹介していきましょう。
【資料一覧】
(1) 高畠さん~『たの授』2013年4月号掲載「お金をもらう仕事にお金をかける?!」前職の介護との違いなど
(2) 高畠さん~たのしい教師の1日(batake.ver)・・・このシリーズは好評ですね。真似しやすいのかも
(3) 高畠さん~「謝ってください」・・・子どもたちの気持ちがわかる時
(4) 高畠さん~書くことが嫌いないっちゃんが教えてくれたこと
(5) 高畠さん~子どものキモチを考える・・・けっこう高畠さんの「得意分野」かも。ぜひシリーズで!
(6) 高畠さん~学年主任もたのしくーたのしいことが基本ってすごいなぁー
(7) 峯岸さん~高崎サークル2018年度・データ問題集・・・みんなで予想しながら進めました
(8) 峯岸さん~続・サークルの言葉2019ーこの1年間の成果はー
(9) 品川さん~予想以上に順調な6周年!!(品川賞は,峯岸さん)
(10) 伴野さん~TAKASAKI TOKIDOKI LIFE・・・扇野さんの文体を真似しているんだけど,伴野さんの個性が出てしまう。まるで仮説みたいだ
(11) 肥沼さん~月間「仮説新聞」1月号・・・峯岸さんの新著紹介。分子模型とGDPボックス,月の写真など
(12) 北村さん~皿回しに挑戦しました・・・サイエンスクラブの活動に取り入れ,大好評
(13) 峯岸さん~2つのビー玉をゴムでつなげて遊ぶおもちゃの紹介。床が滑りすぎたかも
(14) 峯岸さん紹介~滝本さんのガリ本『よちよちスイマーの教わった水泳指導のへそ』
(15) 峯岸さん紹介~同「中級編」
(16) 峯岸さん紹介~佐竹さんのガリ本『僕の時間ー「たのしい授業」を優先する「時間」の使い方ー』
(17) 峯岸さん紹介~自著『たのしい跳び箱運動への道』(オレンジ資料館)・・・ぜひ鉄棒を入れて三部作に
(18) 花岡(麻)さん~小学生と一茶の俳句を楽しむ・・・昨日は,ご夫婦での参加でしたね
(19) 板橋さん~英語について語る前書きの言葉・・・小学校で学ぶためか,中学での英語の人気は下落中
(20) 板橋さん~英語のアルファベットの名前とその発音の秘訣・・・破裂音を出すのがたのしくなる方法は?
(21) 市原さん~校長先生の書いた「授業観察」の記録・・・こんなことしてくれるの!?
(22) 市原さん紹介~「「うそ」って,なんだろう」をやるための資料
(23) 市原さん紹介~上記の資料・ワークシート
(24) 市原さん~上記の内容の学級通信「わくわく3組」(小1)・・・年代により,「うそ」の内容は変わってくるよね
(25) 市原さん~勤務実態調査の結果について・・・あまりにも疲れていると,たのしい授業から遠ざかるなあ
(26) 永島さん~安政遠足(あんせいとおあし)のウィキペディア。安中市で,5月の第2日曜日に開催
(27) 永島さん紹介~映画「まらそん侍」(1956年)の紹介
(28) 永島さん~1月例会のDVD
(29) 品川さん~「楽しいことに気持ちを集中させて学校生活をする」・・・時には妥協も大切だろう。《もしも原子が見えたなら》の感想
(30) ? ~「かるた de ビンゴ」の印刷原稿・・・どなたのでしたっけ?
【サークル風景】
一昨日は栃木県の下野国・古代史の旅。
本日は群馬県の高崎サークルと,
(お迎えお願いします。メールができないので「夢ブログ」で書いています) (。>0<。)
関東地方を股にかけて動き回る肥さんです。
今日はどんなたのしさに出会えるか,
どんなたのしさを提供できるか。
毎日がたのしみです。 (o^-^o)
元・楽天イーグルスの選手だった礒部公一氏が,上記の話題について語ります。
本日は,野手についてです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190202-00263649-toyo-soci
ありがとうございます!
おかげさまで,140万アクセスを達成することができました。
さらに次の段階(年内の150万アクセス)をめざしますので,
今後ともよろしくお願い致します!
木下良著『国衙』(教育社・歴史新書)に東偏の官衙候補Dを見出した私は,
九州王朝の痕跡を求めて栃木県へと旅立った。
「犬も歩けば棒にあたる」というが,私は還暦なのでちょうど「戌年うまれ」。
昨日は長距離を考慮して,一日300円の観光用自転車を借りた。宇都宮線の自治医大駅下車。
前回は,下野薬師寺のことが中心だったが,今回は下野国府(あるいは都賀評衙)が中心である。
さあ,何か収穫はあっただろうか?
(1) 下野国府跡資料館に,「サイズアップ」の変遷資料と展示あり
正殿は上に「宮野辺神社(宮目神社)」が乗っかっているため未発掘なのだが,
その南の前殿は発掘されている。それによると,Ⅰ~Ⅳ期に層が分類され,(↑上の資料参照)
ⅠとⅡが小さめのもの,ⅢとⅣがサイズアップされた大き目のものなのだ。
しかも,堀が二重になったり,礎石の上に柱が立てられたりと工法も違う。
これに東偏のD候補地のものを先頭に付け加えると,まるで泉官衙遺跡の変遷と瓜二つにならないか。
私はつくづく発掘し記録することの大切さを感謝せずにはいられなかった。
残念ながらこの遺跡は,東偏のものと正方位のものが違う土地に作られていて,
泉官衙遺跡のようにすっきり行かないが,D候補地の地下には東偏の建物の穴が埋まっていると信じる。
(サイズもⅠ期と同じで)
(2) 大宮神社の規模の大きさ
D候補地の北・には,信仰の中心・大宮神社である。
一番南方の鳥居から本殿までなんと300m以上あり,
どちらかといえばさえない感じの本殿とあまりにも不釣合いだ。
きっとかつては300m四方の境内をもつ大きな神社ではなかったかと想像される。
なお,創建年代はわからないとのこと。
(3) 印役神社としての日枝神社
さらに大宮神社の北1キロ行くと,日枝神社があった。カッコして(印役神社)と書いてある。
印と鍵のことで,これも重要な国府候補地の証拠である。
その神社が他の候補地より最も近い東偏のD候補地近くにあることが九州王朝の傍証であると思う。
こちらも,創建年代はわからない。
位置関係
印役神社=日枝神社
↑ 北1キロほど
大宮神社
↑ 道路を挟んですぐ北
東偏の候補地D
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