多元的古代の街〈府中〉〈国分寺〉を歩く
昨日=2019年1月6日(日)に,上記のフィールドワークがおこなわれた。
企画・案内 肥沼孝治(「肥さんの夢ブログ」開設者・「多元の会」会員他)
一昨日が15℃と温かかったのに反し,昨日は平年並みの8℃と急変。
そんな中,熱い志を胸に防寒対策もして16名の方々が集まられた。
以下,簡単にその1日の様子を報告しよう。
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【午前中】
(1)午前9時半 府中本町・改札口集合 ~ 多元的古代研究会を中心にしたメンバーで,顔なじみも多く,
安心してご案内できた。ご協力に感謝いたします。
(2)国司館跡 ~ 資料館の方が「バーチャル見学」しませんかというので,たまには人の言うことも聞いてみた。
5か所の案内表示のところで放送が聞こえ,映像が流れました。
(3)「国府」跡(本当は郡衙) ~ 初めての人には巨大な遺跡に見えるかもしれませんが,ここは多磨評衙。
とても无耶志国(武蔵国の前身の名称)全体の事は扱えません。
(4)Тさんの家(正方位と東偏の境) ~ ここから方位が替わるということで,みなさん興味津々でした。
鳥居とお社の方位が,東偏の道(右折して見える)に沿っているのが印象的です。
(5)多磨寺の塔心礎 ~ 巨大な石にびっくり。多磨寺の塔心礎と言われている石です。裏に回ると穴が見える。
ビルの谷間にあるので,なかなか案内してもらわないとなかなか行けない場所かも。
(6)信仰された場所の付近 ~ 実際の場所はもう少し南なのですが,東京競馬場を作る際に
小山が崩されてしまったとか。神も仏もないようで・・・。
★ 府中熊野神社古墳(武蔵国分寺の金堂以下の伽藍=西偏7度と同じ方位)・・・資料館の資料で説明の代わりに
【午後】西国分寺駅周辺で昼食 ~午後1時再会を約し,それぞれが食べたいものを食べに行きました。
ちなみに私は,「すき家」の牛鍋丼の大盛を食べました。
(1)東山道武藏路 ~ 西国分寺駅から武蔵国分寺に歩いて向かう。その途中にあるのが東山道武藏道。
幅12mの道が,南北に続く。説明板のところで解説。そのあと,地面の削れ方が
見える場所へ。なんでこんなに谷のように削れてしまったのか,ちょっとした議論に。
面白い形をした車が脇をすり抜けて行きました。
(2)武蔵国分寺跡資料館 ~ 大きな声で説明していたら,学芸員の方ににらまれた・・・ような気が。
(3)塔・金堂の順に見学 ~ 金堂から見学してしまうと,西偏7度が意識できにくいと考え,あえて塔1から。
ここから北に向かって,四天王寺式の伽藍が作られたと考えています。
川瀬さん作成の復元図
(4)国分寺四中資料館 ~ この学校が作られる前の緊急発掘で,多くの遺跡・遺物が出土しました。
なのにその報告書が,国分寺の図書館で20年以上「行方不明」だったとは・・・。
(5)武蔵国分尼寺の金堂下層の版築 ~ 版築は本にはよく出ているが,実物を見るのは初めてだったかも。
ドンドンと力を入れて突くより,トントンとやった方がよく締まるとか。
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以上で,今回の「歩く」の報告はおしまいです。
私も行ってみたいと思われた方は,ぜひご参加下さい。
日々の進歩を取り入れながら,改良していきたいと思います。
なお,参加者の方からこういう質問を受けました。
「正方位は,どちらの王朝がつくったのですか?」
国分寺付近には九州王朝が,府中付近には近畿王朝が作ったと考えています。
全国の遺跡の調査をしていますが,以下のように変化しているように思えます。
【九州王朝の方位の変遷】
→東偏→正方位(白村江の戦いで敗れ,7世紀末に滅亡)
【近畿王朝の方位の変遷】
→東偏→西偏→正方位(701年,大宝元年を建元し,日本列島のリーダーに)→
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最後に,福島県の泉官衙遺跡を紹介させて下さい。
この遺跡は,藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)で知ったもので,
私に言わせれば,「2つの王朝」王朝の「栄枯盛衰」が刻まれている遺跡です。
6枚の図をたどっていくと,東偏→正方位→白村江に敗れてすさんだ正方位(ここまで九州王朝)。
それに代わって後半の3枚は,701年大宝元年を建元し,新しい日本列島のリーダーとして,
官衙のサイズもパワーアップして登場したが,やがて律令制が崩れていき,すたれていく様子(近畿王朝)。
6層の発掘で,これほど見事に「2つの王朝」の「栄枯盛衰」を浮かび上がらせたものを私は知りません。
しかし,部分的にはのような変化をしていっている遺跡がまだまだあるはずです。それを明らかにして,
21世紀を「方位の考古学」で明るくしていきたいです。
建物は燃やされ,その残骸が腐ってしまっても,地面には礎石や掘立柱などの穴が残されます。
いくら為政者が犯罪を消し去ったかのように見えても,やがては白日の下にさらされてしまうのです。
そういう考えに賛同していただけるようでしたら,いっしょに「方位の考古学」を研究していきましょう。
おしまい。(o^-^o)
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肥沼さんへ
案内お疲れ様でした。
「正方位はどちらの王朝がつくったものか」との質問ですが、私は全部九州王朝時代に始まると考えます。
国分寺初期伽藍・国分尼寺・初期国庁・多摩評衙。これらは一体の遺跡でこれらを結び付ける東山道武蔵路やそれに平行もしくは直交する道路もみな九州王朝時代に発すると思います。
近畿王朝はそれを継承しただけ。正方位に作られた多摩評衙は多摩郡衙となり、やがて初期武蔵国庁がなんらかの理由で衰微したあとに、ここに国庁機能が移転してそれにふさわしい建物や規模に改修されたと。
そしてこの王朝が衰微した平安時代にはこの東西南北正方位の道路沿いに西偏の建物が作られていったと。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 7日 (月) 13:10
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 正方位に作られた多摩評衙は多摩郡衙となり
そうか。无耶志国府と多磨評衙とはペアの施設ということですね。
しかし,国司館も前身の「国宰舘」のものを使っているということですか?
あれは奈良時代,平安時代に近畿王朝が作ったものと思いますが・・・。
投稿: 肥さん | 2019年1月 8日 (火) 02:29
>しかし,国司館も前身の「国宰舘」のものを使っているということですか?
あれは奈良時代,平安時代に近畿王朝が作ったものと思いますが・・・。
最初の武蔵国庁が国分寺のすぐ南にあるのなら当時の国司館もすぐそばだとおもいますね。私は武蔵路のそばにみつけた100m四方の方形区画がそれだと思います。
今国司館と言っているところは確実に近畿天皇家のもの。多摩郡衙に国司機能が移転してからのものでしょう。ただあの正方位の遺跡の下に東偏の遺構があると思うな。そしてそれは評督の館でのちには郡司の館になったものが。
あと国司の館を「国宰館」とは言わないと思います。第一「国宰」という官職がない。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 8日 (火) 13:04
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 今国司館と言っているところは確実に近畿天皇家のもの。多摩郡衙に国司機能が移転してからのものでしょう。ただあの正方位の遺跡の下に東偏の遺構があると思うな。そしてそれは評督の館でのちには郡司の館になったものが。
それのことを言っていた訳です。
「正方位の遺跡の下に東偏の遺構」ですか。なるほど。
投稿: 肥さん | 2019年1月 8日 (火) 13:37
追伸
多摩評督の館だとすると、これも正方位かもしれません。つまり今の国司館は九州王朝時代の多摩評督の館の再利用かもね。詳しい発掘報告書を見たいものです。
東偏としたのは、もしかしたら最初期の多摩評衙が今の国府遺跡の下にある東偏の建物群だとすれば、そのそばに同じく東偏の評督の館があると考えるからです。
そして多摩評寺として作られた「多摩寺」が東偏なのですから、当然最初期の評督の館も東偏であろうと。
ここ国司館がその候補の一つですし、国衙遺跡や多摩寺の周辺にある東偏の建物群の中の大きな多面廂の建物があれば、それの可能性もありますね。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 8日 (火) 18:01
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
東偏と出るか,正方位と出るか,
もう出ているのか,これからなのか,
楽しみは尽きません。
投稿: 肥さん | 2019年1月 9日 (水) 03:44
肥沼さんへ
明後日府中に行ったときに、この国司館の発掘報告書を確認してみたいと思います。
私はここが国司館とされていることに疑問を持っています。
なぜなら国衙とされる遺跡に接して北側に東西の大道がある。なぜこの大道から離れたところに「国司館」があるのか。本来なら国庁に面して道路の反対側もしくは同じ側に接してあるのではないかと考えます。
この観点からすると国司館は国衙遺跡のすぐ北側の150m四方の区画が第一候補だと思います。
今の遺跡が国司館とされたのは、ここから「○○館」との墨書土器が出たことだけです。
そして今の国庁の遺跡復元にも疑問が。
正面は北側の大道にそった門のはず。
そうすると正殿とされる大きな建物の北側に、もしあったとすれば側殿があるはず。
そしてこの国庁の南側にもそれに接して方形区画の地域があり大きな建物がある。これも国司館の候補地ではないでしょうか。
もちろん国衙遺跡とされたものは当初は多摩評衙ですので、これらの遺跡は多摩評督の館の可能性も持っています。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 9日 (水) 12:41
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 明後日府中に行ったときに、この国司館の発掘報告書を確認してみたいと思います。
私はここが国司館とされていることに疑問を持っています。
なぜなら国衙とされる遺跡に接して北側に東西の大道がある。なぜこの大道から離れたところに「国司館」があるのか。本来なら国庁に面して道路の反対側もしくは同じ側に接してあるのではないかと考えます。
この観点からすると国司館は国衙遺跡のすぐ北側の150m四方の区画が第一候補だと思います。
なるほど。今回の件をきっかけに,「国司館の謎」が解けるかもしれませんね。
明後日が楽しみです。
投稿: 肥さん | 2019年1月 9日 (水) 15:18