それぞれの王朝の首都の名前となぜ東偏や正方位になったか(川瀬さん)
後漢ー洛陽城 東偏5度
魏ー洛陽城 東偏5度 以上二つは同じところ。
南朝ー建康城 東偏25度
以上が東偏した理由:都の北の丘に方形の自然地形を見つけそこを地壇とする。
都の南の丘に円形の自然地形をみつけてそこを天丘とし、両者で天の神・地の神を皇帝自身が礼拝する。
この地壇と天丘に相応しい場所がたまたま南北に並ばず東偏したので、
二つの場所を結んでその線上に都を築くと東偏となった。
都の南北に地壇と天丘を置いて天子自身が神を礼拝するという形式は、
漢王朝成立後200年もたって天子の血統的な正統性が薄れる中で、
新たに王朝を築いた後漢王朝において、天子の権威を神に直結する形に変えることで
維持しようとの思想で採用されたもの。したがってこの思想は新・前漢以前にはない。
北魏ー5世紀末の孝文帝時代 洛陽城 正方位(漢魏洛陽城を拡大して改築)
ここから正方位になった理由:地壇と天丘を自然地形ではなく、
人工のものに変えて、ちょうど南北に並ぶ位置に建ててその線上に都を建てたので、
都そのものが正方位になり、その中心に置いた天子の宮殿は、文字通りに「天子南面」とすることができた。
隋ー洛陽城 正方位
唐ー長安城 正方位
隋と唐は北魏の新しい都築城の思想を継承した。
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