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2019年1月19日 (土)

魏志倭人伝の「瀚海」について

魏志倭人伝の「瀚海」について議論になっていて,
私の考えでは,中国の使いは次のように3つの海を渡って南下してきた。

【朝鮮半島】・・・一海・・・(対馬)・・・一海・・・(壱岐)・・・一海・・・【九州島】
                     ※ 名日瀚海

ところが,その途中の対馬海峡のところに「名日瀚海」という挿入句があって,
これが何なのか議論が分かれるところだ。

『邪馬一国の証明』という古田さんの本があって,
「瀚」のサンズイを取ると「翰」という字なので,
これは「やまどりの飛び立つ速さ」を表しているそうだ。
私たちは周りを海流に洗われている日本列島に住んでいるが,
中国の人は黄海にせよ東シナ海にせよ,海流のようなものに慣れていないのを,
それを急に対馬海流(3つの海峡を流れる暖流)で見たものだから,そう表現したものと書かれ,
私もそのように理解した。(私はいつでも古田さんのいうことに賛成というわけではありませんが)

「私は「3回海を渡って,それがどれも海流だった」という表現の重複をさけるために
真ん中の対馬海流のところで説明したものと考えている。
「名日瀚海」の四字は,「こういうのを瀚海(海流)というらしい」などと訳せばいいのかな?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

魏志倭人伝

始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戶,無良田,食海物自活,乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里,★名曰瀚海★,至一大國,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北巿糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戶,濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 対馬海流ですが、今では対馬の東西、つまり朝鮮海峡と対馬海峡に、二つの流れに分かれています。
 でももしかしたら魏志倭人伝のこの時代には対馬海流は二つに分かれておらず、対馬海峡だけを流れていたのではないでしょうか。
 海流の流れもいつの時代も同じというわけではないと思います。
 だから韓国から日本にわたる途中の三つの海峡、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道の真ん中の海だけを「瀚海」、つまり飛ぶ鳥のように流れの速い海と呼んだのではないでしょうか。この名が現地の人が付けた名か、中国人が付けた名かが、問題ですが。

肥さんへ

「〔狗邪韓國から〕始度一海,千餘里至對馬國。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絶島,方可四百餘里,土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田,食海物自活,乖船南北市糴。『又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國』,官亦曰卑狗,副曰卑奴母離。方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,耕田猶不足食,亦南北市糴。又渡一海,千餘里至末盧國,」

古田先生の解釈を支持する肥さんは『又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至一大國』にある「名曰瀚海」を「始度一海,・・・・・・,又渡一海,千餘里至末盧國」の挿入句だという主張なのだと思います。

私は、単に「又、南に一海千餘里を渡る。名を瀚海という。一大國に至る。」と読んでいます。そして、この読みは特別に奇をてらった読み方ではなく、普通はこのように読むのではないでしょうか。いや普通はそう読まないというのであれば、その読みを教えてください。

普通は私のように(全体の挿入句だとせずに)読む、との前提でお話しすれば、「挿入句」だという読み方の方が普通ではない特別な読み方ということです。

そうだとすれば、陳寿の『三國志』を調べて、そのような用例(つまり、「一〇を~す。又、一○を~す。これを□□という。又一〇を~す。」の文章は「これを□□という。」というのが全体に対する挿入句だという用例)を示すべきではないでしょうか(〇は海でも山でも何でもよい。~は動詞なら何でもよい。□□は〇の名前なら何でもよい)。

 つまり、「挿入句である」という「挙証責任」は、古田先生の説を支持する肥さんにあるのではないでしょうか。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉  つまり、「挿入句である」という「挙証責任」は、
古田先生の説を支持する肥さんにあるのではないでしょうか。

まあ,私のアイデアも所詮「妄想の域」を出るものではありませんので,
今回は全文精査はしないことにしておきます。

実は,最初私は,『邪馬一国の証明』をご存じないのかと思って,コメントしたのですが,
また,「一海」「瀚海」「一海」と書かれていたので,
あれ,2つ目の「一海」がカウントされていないぞ,と思ったわけです。
そして,「これは3つ全体に掛かる挿入句」ではないかと妄想しました。

私としても,「一海」「一海」「一海」と続け,
「ただし,この3つの海峡は流れが急なので気をつけろ!」
こう書いてくれるといいと思うのですが,
対馬海流だけが「瀚海」という名前をもらっているというのが納得できず,
長いお時間を取らせていただきました。
お礼ならびにお詫びをいたします。

肥さんへ
お詫びされることなど、全く思ってもいないことでした。
そう思わせたとすれば、本当に申し訳ありませんでした。

>対馬海流だけが「瀚海」という名前をもらっているというのが納得できず,

まさにそれです。私はそれが納得できなかったから、あれこれ妄想をしたのでした。
古田先生のお説は、すでに忘れており、肥さんからご教示されましたが、
朝鮮水道は対馬水道の3倍も流速があるのに、対馬水道の方に「瀚海」という名が付いていること、「瀚海」は半島~九州の間の「海流」の名であり、中央の対馬水道のところで(挿入して)説明しているという古田説に納得できませんでしたので、古田説(瀚海=海流説)を真っ向から否定したわけです。

私のブログのコメントにも書きましたが、自分の妄想が正しいという主張で述べたわけではなく、古田先生の唱えた説であろうが納得できなければその説はとらない、という私の主義なので、逐一反論いたしました。それが、肥さんにお詫びを述べさせたとすれば、大変申し訳なく思います。すみませんでした。

コメントでご教示いただいたこと、及び私の「否定」に対して古田説に立ったご説明を頂いたことは、感謝しております。これに懲りませず、また、ご教示や反論をくださるようお願い申し上げます。
失礼の段、お許しください。

私は当時、対馬⇔壱岐の海域のみ漢風名称がつけられており、他は和風名称で呼ばれていたからではないかと考えています。

①「天孫降臨」以前、壱岐の水軍たちが対馬⇔壱岐間の海に名前をつけていた。
②いつごろからか漢風名称の「瀚海」と呼ばれるようになった。
③壱岐の勢力が九州を制圧すると「瀚海」の領域も拡大した。
④倭王が天子を自称する頃になると「玄海」と呼ばれるようになった。

私はこの海域の名称について大雑把に以上のように考えています。
①と考えた理由は、「天孫降臨」以前、九州側勢力が強かった時代は、対馬⇔壱岐を自由に行き来していた水軍集団でも、壱岐⇔九州は自由に行き来できなかったと思うからです。当然、別の水軍が支配する海で、別の名称がつけられていたでしょう。
②は、「天孫降臨」以前のことか、それとも以後のことかはわかりませんが、対馬⇔壱岐と壱岐⇔九州の海がそれぞれ別の水軍の支配下にあった時代に、前者のみが「瀚海」という漢風名称に変更された、と考えました。
③は、現在「玄界灘」と呼ばれる領域が、これまでどういう名称の変遷があったのだろう、という疑問点があって、とりあえずこう考えてみたのです。
④は天子の北方、玄武門になぞらえた名称のように思えることからの発想です。

もちろん張政等がもたらした「軍事報告書」にはそれら海域の和風名称も逐一記録されていたのでしょうが、倭人伝の編纂時にカットされたのではないかと思われます。

この考えが妥当かどうかはわかりませんが、とりあえず私はこう考えています。

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。

なるほど。歴史的経緯の中でいろいろな名で呼ばれ,
魏志倭人伝に記録する際にも選択があったということですね。

佐藤浩史さま

>倭王が天子を自称する頃になると「玄海」と呼ばれるようになった。
>天子の北方、玄武門になぞらえた名称のように思える

「玄海」は「北方、玄武門になぞらえた名称」、つまり「玄海」=「北海」であるこというご見解は卓見と存じます。賛成いたします。

古墳に二十八宿(星座)を見られる時代には確実に「玄海」だったでしょうね。
そう名付けられた時代については、冊封国であった「倭の五王」時代あたりまで遡る可能性もありますが、「倭王が天子を自称する頃」というのは妥当な推定かも知れません。正直にいえば「(いまのところ)わかりません」ということですが・・・。

三つの海域のうちの対馬ー壱岐間だけに名前が付けられている。問題はこの名前が、「広い」という意味なのか「早い海流が流れている」という古田さんの解釈なのかということが一つ。
 三つの海域でもっとも幅が広いのが対馬海峡であることは事実です。
 そして海流は現在では朝鮮海峡と対馬海峡の二か所に分かれて流れており、朝鮮海峡の方がその流速は早いというのも事実。
 しかし海流はいつも同じ場所を流れているとは限りません。
 現に日本列島南岸を流れる黒潮もしばしば大きく蛇行しその流路を変えます。
 原因はいろいろあると思います。
 一つは地球環境の変化による温暖化。これにともなう海水温の変化かな? これの伴って気候に変化が起きて海流を起こす風の流れも変わる。
 他には海底地形の変化も考えられるかも。
 日本列島は今でも東に動き続けていますので、その大陸との結節点にあたる対馬近辺の岩盤には大きな力が働き続けています。要するに大陸の一部であった日本列島(その西部)が対馬を起点にして時計回りに回転しながら大陸から離れている。
 これに伴い朝鮮半島と日本列島の間の海底地形が変化する可能性もあると思います。
 問題になっている時期は紀元後3世紀。
 この時代は温暖化ー寒冷化の周期はほぼ1500年おき。1000年ほど続く温暖期や寒冷期の前後に約200年続く温暖化・寒冷化の移行期がくる。グリーランド氷河の分析結果から来る学説です。
 今は19世紀後半から続く200年間の温暖化の途中。今世紀後半にこれは終りそのまま1000年ほど温暖期が来て、北極海の氷は解け、グリーランド氷河もとける。
 この前の寒冷期は19世紀後期までの1000年間。ということはその始まりは9世紀ごろ。その前の200年ほどは寒冷化の移行期。その始まりは7世紀ごろ。そしてこの前の1000年間。つまり紀元前3世紀ごろまでがこの前の温暖期。
 3世紀はこの前の温暖期の後半期ごろ。
 今よりも平均気温が0.5度から1度は高い時期。つまり海水面も高いし、海水温も高い。ということは気候も異なり海流を起こす一つの条件である風の流れも強さも異なる。
 この条件下で対馬暖流が、いまとは異なって対馬海峡だけを通っていた可能性も考慮すべきだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

そうでしたね。2000年近くの歴史の中で,
気候が変わっているということも大きく影響しているでしょうね。

肥沼さんへ
 古田さんの疑問は、朝鮮海峡と対馬海峡両方に対馬暖流が流れ込んで流れの急な海なのに、なぜ対馬海峡だけに「瀚海」と名付けたのかというものだったと思います。古田さんはこの名を「鳥が飛ぶように流れの急な海」と理解したからです。今の現実と文献の差ですね。
 これを理解するために古田さんは、「二度わたった流れの急な海」の双方を「瀚海」と中国の使いは呼んだが、重複を避けるために二度目の海を渡ったところで書き記したと理解したのだと思います。
 しかし3世紀のこの海峡の海流の流れが今と違っていたらどうなるでしょう。
まず、対馬海峡だけを流れていた場合。これだと魏志の記述は現実とぴったり。
次に朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道とみっつに分かれて流れていた場合。これだと肥沼さんの判断が生きてきます。つまり「名曰瀚海」との語句は、三つの海について述べた全部の文章の挿入句だとの判断が生きてきます。
 というわけで3世紀の対馬暖流の流れによっては読みが変わります。

 ちなみに私は「瀚海」という名前は中国の使いが付けた名だと思います。明らかに中国風の名付け方。
 そして通常の漢文の読み方では、こうした挿入句という捉え方はしません。当然対馬と壱岐との間の海につけた名だと解釈します。この立場にたって、「瀚海」という名前を「鳥が飛ぶように流れの速い海」と理解すれば、私が考えたように、3世紀の対馬暖流は対馬海峡だけを流れていたとの理解になります。
 しかし「瀚海」を「広い海」と理解する立場にたち古田さんの理解はこじつけだと考えれば、山田さんの理解にたどり着きます。そしてこの理解であれば「瀚海」という名は、倭人が付けたと考えてもよいし、中国の使いが付けたと考えてもよくなります。

 この「瀚海」という名は倭人がつけた「中国風地名」と考えることも可能です。
 なぜなら対馬を魏志では「対海国」と標記し、壱岐を「一支国」と標記しているからです。この両国の名が倭人の使ったものなら、「瀚海」という表記も倭人のものと考えることができるわけです。

 したがってこの問題は三つありますね。
1: 「瀚海」を流れが速い海と見るか、広い海とみるか。
2:この「瀚海」は倭人が付けた名なのか、中国の使いが付けた名なのか。
3:三世紀当時の対馬暖流はどこを通っていたのか。
 この三つの問題を解かないと解決しないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  したがってこの問題は三つありますね。
1: 「瀚海」を流れが速い海と見るか、広い海とみるか。
2:この「瀚海」は倭人が付けた名なのか、中国の使いが付けた名なのか。
3:三世紀当時の対馬暖流はどこを通っていたのか。
 この三つの問題を解かないと解決しないと思います。

う~ん,なかなか大変だ。でも,いろいろ勉強になりました。

川瀬さんへ

>「瀚海」を「広い海」と理解する立場にたち古田さんの理解はこじつけだと考えれば、山田さんの理解にたどり着きます。

迷惑な誤った理解を示すのはおやめください。
私は「瀚海」を「広い海」と解釈するのは奇妙で、その解釈はとれないという立場です。
もちろん根拠を示さない古田説(「瀚海」を流れが速い海と解釈する)のもとれないという立場です。

なお、魏使の認識は朝鮮水道も対馬水道も等しく「千餘里」であり、対馬水道の方が広いとはいっていません。

山田さんへ

 失礼しました。妄想「瀚海」考を読んでみました。「衆多の海」ですか。なるほど。となると海峡を流れる海流の問題とは別問題になりますね。
 

山田さんへ・追伸

 「瀚海」を「衆多の海」と理解すること。ちょっと無理があるのではないでしょうか。

 北京・商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000年、改訂版第1刷、ISBN 4-497-20001-9 C3587)P.179
瀚 han4 大:浩~(広大,衆多)

 この意味は「浩瀚」という熟語なら、「広大、衆多」という意味になるということではないでしょうか。
 「浩」も意味は「広い」で、「瀚」も意味は「広い」。広いという意味の漢字が二字つながると「広い×広い」つまり「広大」という意味になったり、これを人の数に使った時には「ものすごく大勢の人」という意味になるということではないでしょうか。
 つまり「瀚」という漢字一字では「衆多」という意味にはならない。

 したがって「瀚海」は、「広い海」と理解するか、古田さんのように魏志ではしばしば「へん」を無視して「つくり」だけで意味を表わす例が多いことに鑑みて「飛ぶ鳥のように早い(流れの)海」と理解するしかないと思われます。
 そしてどう見ても海峡を広い海とは呼びませんので、古田さんの理解が良いのではないか。
 ただし肥沼さんの理解で、「名曰瀚海」の一文を、韓国と九州との間の三つの海峡全体にかかる挿入句だとの理解は無理があるので、韓国ー対海国・対海国ー一支国と二つの海流の流れの速い海峡を渡った後に、この二つの海峡を「名曰瀚海」と評したと理解した方が良いと思います。同じ言葉を二度使うことを避けて、二度目のあとにまとめて書くことはしばしばあると思いますので。
 そしてこの「名曰瀚海」ですが、名付けた主語が省略されている。
 中国の史書で主語を省略するときは天子の行動ですが、中国の天子が倭国の地名を名づけるとは思えません。この場合は「一般的に○○のように呼ばれている」という用例にあたり、名付けたのは倭人であると理解した方が良いと思います。
 つまり中国の使人は、二つの流れの速い海峡を渡ったあとで、この二つの海を倭人は「瀚海」と呼んでいると記したのではないでしょうか。
 こう理解すれば、この海の名前が海流に由来しているとの古田さんの着眼も生きるし、漢文の用例としてもありうるし、朝鮮海峡と対馬海峡とを対馬暖流が流れているとの現実にも合致します。

訂正
 「一支国」ではなくて「一大国」でした。

川瀬さんへ

私の「妄想」を否定されたとて、古田説が成り立つことにはなりません。
それを成り立つとするなら、それは“古田神学”です。
私のブログに読者さまから「古田史学」ならこのようにせよとのご意見がありましたので、記事として転載させていただきました。もしそのご意見に異論・反論があれば、私のブログにコメントを入れてください。川瀬さんと私の論争を肥さんの夢ブログでするのは私の流儀に反しますので。もともとこの「瀚海論争」は、私が書いた「妄想」から出発した話ですから(肥さんが私の記事を紹介せずに、ご自身の意見だけを夢ブログに書かれた)。

古田史学の方法ならこうだ
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-aa39.html

肥沼さんへ
 山田さんのお誘いがあったので山田さんのブログに次の二つのコメントをしました。

A:古田史学の方法ならこうだ―読者さまからのご教示― へ
 山田さんへ
 お誘いがあったので、こちらのブログに書き込みます。
 「通りがかりの素人」さんの議論には疑問が多いです。

1:「瀚海」を「翰海」の意としたことが「原文改訂」にあたるのでしょうか。
 「原文改訂」とは、論者が自分の説に有利なように、根拠を示さずに、資料原文を書き換えることです。古田さんが『邪馬一国の証明』の「古代船は九州王朝をめざす」の中の「飛鳥の海流」の項で、この箇所について次のように述べています。
 一つは三つの海域があるのになぜ真ん中の対海国ー一大国間にしか名前がついていないのか。
 二つには、こんな狭い海域に「広大なさま」という名前を付ける理由がわからない。
  この二つの疑問を解く過程で、「瀚」の字のサンズイをとってみることに思いつかれた。この根拠は、魏志の中にそうしたサンズイを外した意味で使われている例が複数あるからだと(渡海ー度海、卑弥呼ー俾弥呼)。
 このサンズイをとった字「翰」で意味を調べると「飛ぶ鳥速くとぶさま」と出た。だからこれは対海国ー一大国間の海の名ではなくて海流の名だと理解したと。
 古田さんはある結論があって、そこに導くために原文の文字面を改訂したわけではありません。「瀚海」では現地の実情に合わないので理解できないが、サンズイをとった字の意味で使う例の一つだと考えれば、現地の海峡には対馬海流が流れているので、その海流の名と理解すれば了解できるとした。

 したがってこの読みは著者の陳寿もそう理解するだろうし、当時の一般読者や第一読者である皇帝もそう理解するだろうと考えたわけです。
 したがってこの読みの根拠となる事実を提示する必要はないです。
 これは「原文改訂」ではありません。原文をどう理解するかです。
 そしてサンズイをとって理解してみた理由となる根拠はしっかりと明示されています。

 次に「通りがかりの素人」さんが展開して批判している対称は私の説です。
2:瀚海を広大な海とは解釈できない。或いは無理がある。これについては古田さんがすでに示していますし、同じ考えを山田さんも示し、私も示しました。ここはすでに論証済みです。

3:step4 瀚海を衆多の海とは解釈できない。或いは無理がある。
 これについては肥沼さんのブログですでに展開済み。引用します。
  北京・商務印書館編『新華字典【改訂版】』(東方書店、2000年、改訂版第1刷、ISBN 4-497-20001-9 C3587)P.179
瀚 han4 大:浩~(広大,衆多)

 この意味は「浩瀚」という熟語なら、「広大、衆多」という意味になるということではないでしょうか。
 「浩」も意味は「広い」で、「瀚」も意味は「広い」。広いという意味の漢字が二字つながると「広い×広い」つまり「広大」という意味になったり、これを人の数に使った時には「ものすごく大勢の人」という意味になるということではないでしょうか。
 つまり「瀚」という漢字一字では「衆多」という意味にはならない。

3:3世紀の地球の気候が....等々の傍証 これはグリーランド氷河の氷に含まれた花粉などの分析から出ている温暖化ー寒冷化の1500年周期説に基づけばとそもそも私は理由をあげています。そして当時が気温の高い温暖な時期だったから海流の流れも風の流れも異なる可能性はあるとしました。これについてはこれ以上の証拠をあげることはできません。
 ただ私がこの気候の変化をあげたのは、三つの海域の真ん中の一つにだけ名前が付けられていることを理解するに際して、古田さんのように「これは海流名」と理解し「今わたってきた二か所の海域で二度書くことを省略して一か所だけ書いた」と理解することもできるし(これは漢文でよくある書き方)、「当時は海流が流れているのが真ん中の一海域だけだったからそうかいた」と理解することも可能なので、その根拠となることとして示したにすぎません。

 以上のように見ていくとき、「瀚海」を広い海として理解することは無理です。そして山田さんが最初考えたように衆多の海と理解することも無理です。
 したがって残された可能性の高い理解は、古田さんの理解となります。

B:妄想「瀚海」考(その2)―「広大な海」かも知れない― へ
山田さんへ

『「対馬」(「對海國」)までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲』と考えると、魏志倭人伝の次の一説はどう理解されるのでしょうか?
 「歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國」
 その北岸の「その」とは女王国が統治している「倭国」そのものを指すのではないでしょうか? したがて「狗邪韓國」までが倭国の領域ではないでしょうか。古田さんもそう理解していますし、私もこの理解以外ないと思いますが?

また
『・半島に渡るに(倭王権の範囲内の)最も「広い海峡」(対馬水道)を「瀚海」と名付けた。』と理解されましたが、そもそも狭い海域である海峡に「広い・広大」という名をつけることはありうるのでしょうか。
 この言説は、海流名であるという古田説を否定しようとするあまりのこじつけではないでしょうか。

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