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2019年1月20日 (日)

武蔵国分寺の北方に歴史を解くカギが(川瀬さん)

先週の金曜日に,川瀬さんは恋ヶ窪図書館に出かけられ,
武蔵国分寺の北方にある遺跡の調査をしたようです。
その結果,大きな収穫があったようなので,
コメントをさらにこちらにアップさせていただきます。(肥沼)

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(川瀬さん)

 例の、七重の塔の真北で、真姿池湧水群のすぐ北にある「役所」もしくは「祭祀遺跡」と思われる遺跡が何であったのか、
発掘されているようなので報告書を確認してきました。
 結論として「祭祀遺跡」とは断定できませんが、何らかの役所であること、
しかも国分寺もしくは国府寺の関連の役所であることは確かめられました。

 遺構の東側は、南北正方位の掘立柱建物が6棟あり、倉とおぼしき総柱建物が3棟南北に並び、
その間に東西棟の建物が2棟東西にならぶ。その東側に、東側に廂のついた大きな建物が一棟。これが主棟と思われます。
西側の大きな東西棟は中央に柱がないので土間の大きな作業場と考えられています。

 この遺構は一つの役所遺跡の西側半分が見えているのではないでしょうか。
 つまり遺跡の東側の道路とその東の畑もしくは林と考えられる場所にまだ遺構があるのではないのか。
南向きにコの字型配列される建物の西側のみ見えていて、東側の側殿と北側にある主殿が東側の空白域に眠っているのではないかと想像できます。そしてこのコの字の南の広場・空間になにかあるのかも。
 遺構そのものからは何もでないので、年代も目的も特定されていません。

 ヒントはこの役所遺構の西側。
 この二つを区画する南北の柵列が僧寺中軸線と平行、つまり西偏7度で作られているので、
この西側は金堂院が作られた時代にできたと判断できます。
 この区域には竪穴住居しかなく、あとはたくさんの土坑。
 この中の火災で燃えた竪穴住居。ここからは「国寺」の墨書土器と刀子が出土。
そのすぐ北側の墓壙と考えられている穴からは副葬品と思われる鎌が出土。
さらにこの竪穴住居の竈には壁材として、僧寺の瓦、それもⅠ期aの瓦が使われている。
そしてここから出土する須恵器が8世紀の第三四半期と考えられているとのこと。

 つまりこの西側の工房と考えられる建物群は、武蔵国分寺の金堂院が西偏7度で作られたのと同じ時期に
その付属施設として作られたことは確実です。時代はまさしく奈良時代中期。
 したがってその東側にある正方位の「役所」と思われる遺跡はそれより以前の、
この寺の最初期の遺構だと考えられます。

 では遺跡の終わりはいつか。
 東側の役所の建物を壊して、北西から南東に一本の道が作られています。この道の年代が10世紀中頃。
 グーグルマップで見ると、遺構の東側の道路を挟んで反対側にも何か施設が作られているので、
もしかしてここもすでに発掘されたかも。
この遺跡の報告書は2005年3月の通巻30ですからそのあとの報告書を見てみる必要がありますね。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>その結果,大きな収穫があったようなので,コメントをさらにこちらにアップさせていただきます

 「大きな収穫」ですかね?自分ではそう思っていない。
 塔の真北の丘の上に、正方位で建てられた「役所」と思われる建物群があった。ただそれだけ。
 問題はその性格がわからないこと。
 当初これは、南の坪宮に対応する「祭祀遺跡」かと考えたのですが、その痕跡もなくまったく確かめることができませんでした。 
 
 だからこの遺構は本来の遺跡の西半分しか出ていないのではないかと考え、東側の調査が必要としたものです。
 言い換えれば単なる調査の途中経過ですよ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  だからこの遺構は本来の遺跡の西半分しか出ていないのではないかと考え、東側の調査が必要としたものです。
 言い換えれば単なる調査の途中経過ですよ。

もちろん,「これで多くのことがわかった!」ということではありませんが,
少なくとも「正方位」と「西偏7度」という方位をつかめたのですから,
さらに「東側の調査」に期待できると思いました。

肥沼さんへ
 来週30日か1日にまた国分寺市立恋ヶ窪図書館にいって、この遺構の東側にあるいくつかの遺構の性格について調べようと思っています。
 福田さんの本の図面を見ていると、国分寺の東西南北には、まだまだ正方位の建物が散在していますので、初期寺院遺構と同時期の遺跡がたくさあるものと思われます。これらを全部考察して初めて、初期武蔵国分寺=武蔵国府寺の全貌は明らかになるのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  来週30日か1日にまた国分寺市立恋ヶ窪図書館にいって、この遺構の東側にあるいくつかの遺構の性格について調べようと思っています。
 福田さんの本の図面を見ていると、国分寺の東西南北には、まだまだ正方位の建物が散在していますので、初期寺院遺構と同時期の遺跡がたくさあるものと思われます。これらを全部考察して初めて、初期武蔵国分寺=武蔵国府寺の全貌は明らかになるのだと思います。

「郷土研だより」の仕事が終わったら,お供できると思います。
行く日が決まったら,教えて下さい。

肥沼さんへ

 23日水曜日に府中ふるさと歴史館でお会いした際に決めましょう。

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