伊勢「初代斎王」宮殿跡は東偏だった!
多元的「国分寺」研究サークルのサイトでは,
今三重県の官衙遺跡を調査しているのだが,
もうすぐ登場するのが斎宮。
それが,一足先に読売新聞に登場してきた。
初代斎王の宮殿跡(飛鳥時代)が発掘されたというのだが,
その方位がなんと「東偏」なのである。(東偏30度くらい)
「方位の考古学」としては,
「東偏があったら,とりあえず九州王朝を思い浮かべよ」という代物だ。
中国南朝へ送られた倭の五王の使いは,確かにそこに東偏の都を見たのだ!
以来支配下の直轄地や街道沿いの官衙や国府寺を
九州王朝は東偏に作らせてきた。(特に,福島県の泉官衙遺跡に注目)
それらを証拠として,多元的古代の姿を証明しようという試みが,
私たちの研究のスタートなのである。
初代斎宮が置かれたのは7世紀の後半らしく,
白村江の戦いに敗れたとはいえ,まだ九州王朝の政権の時代である。
(700年まで。701年,大宝年号を建元して近畿王朝は政権を握った)
なにより「トレードマーク」の東偏がそれを表している。
その後斎宮の宮殿は,東偏→西偏→正方位→東偏のような傾向で変化していく模様だ。
九州王朝を近畿王朝の歴史の中に取り込んでいく時代が始まる。
以前「泉官衙遺跡」で見たように,
「「2つの王朝」の「栄枯盛衰」が刻まれた遺跡 パートⅡ」になることを期待したい。
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肥沼さんへ
この斎宮記事は要注意です。
今までわかっていた斎宮は奈良時代以後。今回初めてそれより古いと思われるものが出てきた。だから天武紀に記述された斎宮のものだと即断。
だが書紀によれば伊勢のこの地に天照大神祀られたのはもっと前。崇神紀だ。
つまり九州王朝の事績だということは書紀のこのころの神宮関係記事に主語がないことからわかる。
したがって今回発見された斎宮跡は飛鳥時代どころかもっと前の6世紀代に遡る可能性もありますよ。出土した土器などを見ない限り時期は信用できない。
質問:最後に掲載された方位を書いた図ですが、ものすごい数あるので、もしかしたら奈文研サイトの建物データにあった100棟以上の建物の方位を記録したのかな?
今の考古学では建物一つ一つの方位しか測らないが、大事なのは建物群の方位。なぜなら「方位の考古学」が問題にしているのは、建物群の設計思想・都市計画の設計思想だからです。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 6日 (日) 14:40
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この斎宮記事は要注意です。
今までわかっていた斎宮は奈良時代以後。今回初めてそれより古いと思われるものが出てきた。だから天武紀に記述された斎宮のものだと即断。
だが書紀によれば伊勢のこの地に天照大神祀られたのはもっと前。崇神紀だ。
つまり九州王朝の事績だということは書紀のこのころの神宮関係記事に主語がないことからわかる。
したがって今回発見された斎宮跡は飛鳥時代どころかもっと前の6世紀代に遡る可能性もありますよ。出土した土器などを見ない限り時期は信用できない。
なるほど。難しいものですね。
〉 質問:最後に掲載された方位を書いた図ですが、ものすごい数あるので、もしかしたら奈文研サイトの建物データにあった100棟以上の建物の方位を記録したのかな?
今の考古学では建物一つ一つの方位しか測らないが、大事なのは建物群の方位。なぜなら「方位の考古学」が問題にしているのは、建物群の設計思想・都市計画の設計思想だからです。
もちろんそうなのですが,では何を根拠にしたらいいのでしょう。
投稿: 肥さん | 2019年1月 6日 (日) 17:12
肥沼さんへ
>もちろんそうなのですが,では何を根拠にしたらいいのでしょう。
多元的国分寺研究サークルのほうに張り付けられた、斎宮跡の各場所の変遷図は、それぞれ建物群の変遷図になっています。
この図を見れば建物群毎の方位の変遷は良くわかります。
投稿: 川瀬 | 2019年1月 6日 (日) 17:35
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
やはり「変遷図」はとても大切なのですね。
これからもできるだけ「変遷図」は載せておくようにしたいと思います。
投稿: 肥さん | 2019年1月 7日 (月) 03:20