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2019年1月11日 (金)

「方位の考古学」で紹介してきた図面や写真や地図

「方位の考古学」でこれまで話題にしてきた図面や写真や地図を
ここで再紹介したいと思う。
前から「夢ブログ」をご覧の方はお馴染みのものでも,
最近興味を持ったという方もいらっしゃると思うので・・・。

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(1) 武蔵国分寺・国分尼寺周辺地図 ~ 「すべてはここから始まった」ともいうべき地図。
                          基本はば南北の地図に「仲間外れ」の伽藍群(西偏7度)。
                          それとピタリ同じ西偏7度の府中熊野神社の上円下方墳。               
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(2) 府中熊野神社古墳 ~ 最初にこの古墳の方位が西偏7度と聞いた時から,武蔵国分寺の西偏7度と
                   結びつけて考えていました。

Dscn4811

(3) 東偏5度の寺院と街並み ~ 東偏5度だけではありませんでしたが,これにこだわったことが
                      その後のいろいろな発見につながりました。

Dscn4802

(4) 府中ちかマップ ~ 府中市は,発掘した遺跡を1枚のデータとして公開してくれています。
                この地図と『よみがえる古代武蔵国府』というブックレットにはすごく助けられました。
                街並みに東偏が刻まれ,その上に正方位が乗っかりました。

Dscn4810

(5) 泉官衙遺跡の図面 ~ 東偏の遺跡を探しているうちに,福島第一原発の近くの官衙遺跡を発見。
                  藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』に載っていた図面は,
                  すぐに「夢ブログ」の「泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を
                  見た!」という記事になりました。(左3枚が九州王朝で,右3枚が近畿王朝)

Dscn4804_2

(6) 建康(中国南朝の都)は,東偏の都だった! ~ その頃の川瀬さんと「どうして九州王朝は東偏を
                    とったのか」ということについて話が交わされていました。お手本は中国に
                    あったのです。それを倭の五王の時代に倭国は学んだのでした。
                    建康は25度。その後.後漢と魏の都・洛陽は5度と確認。

Dscn4807

(7) 国分寺四中遺跡 ~ 生徒数急増の時期,国分寺と国分尼寺の間に国分寺四中が作られた。
                 そこから出土した遺跡・遺物は仏教というより,官庁関係のものに見えた。
                 つまり初期の无邪志国府および无邪志国府寺はここに存在したのだった。

Dscn4808

(8) 鴻臚館の変遷 ~ 東京・古田会の皆さんとの多元的〈国分寺〉〈国分尼寺〉ツアーの懇親会で,
              雑誌『海路』の中に興味深い図面が載っていた。東偏とその前と思しき西偏であった。
             また,次の図はほぼ正方位で,それまでの西偏→東偏→正方位という変遷が見えてきた。

Photo_4

(9) 川瀬さんによる初期「武蔵国分寺~武蔵国府」復元図 ~ これまでの多元的「国分寺」研究サークルでの
                    やりとりや府中研究会での成果を盛り込んだ労作です。当時は,无邪志国府&
                    多磨評衙と呼ばれていたと思われます。

Dscn4806

(10) 川瀬さんによる初期「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」の復元図 ~ これも(9)同様川瀬さんの労作。
                    見えない国分寺の地下が浮かび上がってくるようです。四天王寺式。
                    当時は无邪志国府寺と无邪志国分尼寺と呼ばれたわけです。

Dscn4805

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【おまけ】 斎宮の飛鳥時代の区画 ~ ちょうど最近,伊勢の斎宮の宮殿遺跡が東偏であることが発表されました。
                  グッドタイミングでした。さっそく「多元的古代の街〈府中〉〈国分寺〉を歩く」の資料にも。

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コメント

一か所記述間違いがあります。

(誤)(5) 武蔵官衙遺跡の図面⇒(正)泉官衙遺跡の図面

あと追加ですが、
東偏25度の建康遺跡を見つけたあとに、後漢と魏の都である洛陽が東偏5度であることも見つけたことを書いておくと良いと思います。
 この漢魏洛陽城は、1・2世紀と3世紀(倭国王は卑弥呼)に倭国が使いを送った場所です。この都で倭王は、後漢王朝と魏王朝から金印を賜ったわけです(魏の場合は倭国までわざわざ使いを送って授与したが)。
 東偏5度の漢魏洛陽城は、倭国王にとって忘れられない重要な都です。
 九州王朝のもとで作られたと思われる寺院や官衙や街路が東偏5度前後なのは、この都の在り方に関係していると思われますので。

 肥沼さんが指摘した建康城は4世紀から5世紀の倭の五王が使いを送った場所です。

追伸
 今気が付いたが、「東偏五度の寺院と街並み」では、紀伊国分寺は東偏に入っている。先日奈文研のデータで見たときは西偏だ。
 なぜだろう? 元の地図が1979年のデータなので方位が磁北だったのかな? 
 奈文研のデータでは西偏2度だ。
 磁北を真北と間違えて「東偏5度」としたのなら、たしかに「西偏2度」になる。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  今気が付いたが、「東偏五度の寺院と街並み」では、紀伊国分寺は東偏に入っている。先日奈文研のデータで見たときは西偏だ。
 なぜだろう? 元の地図が1979年のデータなので方位が磁北だったのかな? 
 奈文研のデータでは西偏2度だ。
 磁北を真北と間違えて「東偏5度」としたのなら、たしかに「西偏2度」になる。

この資料は,継ぎ足し継ぎ足し増やしてきた資料なので,
一度「統一的な目」で再チェックしなくてはいけないと思っています。
ご指摘ありがとうございます。

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