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2019年1月29日 (火)

下野国の国府想定地Dは,九州王朝の設置した国府か

3年ほど前にお世話になった木下良著『国府』(教育社)のP73に,以下の地図が出ている。
この中に,九州王朝が置いたのではないかと思う国府想定地Dがある。
他の国にも国府の移動の例があるが,下野国もそうだったのではないかと思った。

九州王朝が正方位を構える前の,東偏の時代の国府ではないか。
(泉官衙遺跡と同じ変遷だとすれば)
東山道が国府の東西を貫いており,交通上も便利な場所にある。
周防国府みたいな感じだ。

Img_0139


下野国庁跡

https://ja.wikipedia.org/wiki/下野国庁跡

もし宮野辺神社が近畿王朝の正方位だとしても,8世紀半ばからのものなので,
それ以前の九州王朝の東偏のものがここ(D=大宮町)で,
正方位のものがB(真ん中に南北の道)という可能性もある訳だ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 武蔵国庁が移動したとの想定から、どんどん連想が広がっていますね。
 宮野辺神社付近から出た国庁跡は8世紀ですから、当然それ以前のものがある可能性はあります。7世紀の九州王朝の時代の国府なら確実に正方位ですし。
 ただ東偏時代に下野国府があったかどうか。
 常陸風土記の言うように、「難波朝廷」のころに吾妻が八か国に分けられ評制が敷かれたとすると、7世紀には下野国そのものがないからです。
 前に下野・上野・武蔵の三国は古代毛野国であったのではないかとの私の仮説を想起してください。
 そして古代毛野国の中心はどこだったのか。
 ここは古墳群で考えないといけないね。
 7世紀は終末期古墳の時代。横穴式石室の時代。横穴式石室の大古墳があるが、前橋周辺。その前の竪穴式石室の大古墳があるのが行田の埼玉古墳群。
 古代毛野国の中心都市はこの二つの古墳群のそばだと思う。
 ではこの時代の下野はどうだったか。国の下の単位ですね。
 肥沼さんが見た「東偏」の方八町の国府想定域。この時代の「評衙」かもね。
 今武蔵国庁と想定された遺跡の下に東偏の遺跡がある。これを肥沼さんは「多摩評衙」と想定している。そしてこの時代に東偏の武蔵国庁はない。
 ここから連想すると、東偏の国府想定域は、下野評衙となります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ただ東偏時代に下野国府があったかどうか。
 常陸風土記の言うように、「難波朝廷」のころに吾妻が八か国に分けられ評制が敷かれたとすると、7世紀には下野国そのものがないからです。

なるほど。

〉  ではこの時代の下野はどうだったか。国の下の単位ですね。
 肥沼さんが見た「東偏」の方八町の国府想定域。この時代の「評衙」かもね。
 今武蔵国庁と想定された遺跡の下に東偏の遺跡がある。これを肥沼さんは「多摩評衙」と想定している。そしてこの時代に東偏の武蔵国庁はない。
 ここから連想すると、東偏の国府想定域は、下野評衙となります。

国衙でなくても,もちろん構いません。
九州王朝によって建てられた官衙の特色が,「東偏」ということですから。
それにしても,この図の中には多くの時代の「国府連想用語」が散りばめられていますね。

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