私の質問と川瀬さんの回答(正方位以降は?)
今多元的「国分寺」研究サイトで,全国の寺院遺跡や官衙遺跡の
方位の悉皆調査をしています。
「夢ブログ」でやると,専門的すぎるのでそうしているのですが,
たまには「こんなことをやっている」という紹介をしておきます。
もし実際の様子が知りたければ,
多元的「国分寺」研究サイトへ。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/
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肥沼さんへ
> (肥沼の質問) 一旦7世紀末に近畿王朝の指導で正方位となった後,
律令制が崩れていくとともにまた元の西偏や東偏に戻っていくということがないでしょうか。
「やっぱりこの方位がしっくりいく」とか「冬の季節風を防ぎやすい」とか理由は様々ですが。
(川瀬さんの回答 )これは大いにありうることです。
磁気偏角が西偏の時代に、わざわざ建物と街を東偏や正方位に建てるという行為自体が、
きわめて政治的な営為だからです。
律令制の衰退とは、その政治的な営為を強制する主体の衰退ということなので、
律令制の衰退とともに、政治的な意思表示としての正方位は姿を消し、
磁気偏角通りの西偏や、その場の地形に応じた方位に戻って行った可能性は高いと思います。
そして磁気偏角が東偏になる13世紀以降は東偏もまた現れる。
さて近畿天皇家の畿内の地域の調査は終わりました。御疲れ様です。
多少の例外・地域的例外はありますが、近畿天皇家の畿内の地域とその周辺は、
大和で確認した方位がほぼ適用できますね。
すなわち、
6世紀末までは(九州王朝に従った)東偏。
6世紀末以後は(九州王朝に逆らった)西偏。これは磁石に添ったものでもある。
7世紀末以後は(九州王朝に取って代わった)正方位に。
これ以前については
九州王朝が意図的に東偏にする以前は磁石にそって西偏。
これ以後については
律令制が堅固な奈良時代や平安時代中ごろまでは 正方位。
律令制が弱体化した平安時代中ごろ以後は、磁石にそった西偏に。
あとは九州王朝がいつから東偏に意図的に変更したかです。
先にみた福岡の鴻臚館遺跡の、最初は西偏⇒東偏⇒正方位の変遷が一つのヒントですね。
今の九州の瓦や須恵器の編年は近畿より約100年後ろにずらされている可能性が大。
これをヒントに九州をやってみると良いと思います。
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