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2018年12月21日 (金)

これまでの調査から(川瀬さん)

クルル鉤(かぎ)の話題に付いての川瀬さんのコメントの際,
書いていただいた「これまでの調査から」を,転載せさせていただきます。

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(肥沼)

>もともと今私たちがやっている「方位の考古学」は,ある意味統計的手法な訳ですが,
そういうやり方をしていたために,かえって「クルル鉤」のような貴重品にも突き当たるという,
素晴らしい結果に恵まれたような気がします。
これからもブレずにやっていきたいです。

(川瀬さん)

 その通りです。府中の遺跡の悉皆調査をやっていたからこそ出会えた遺跡です。
これで武蔵国府の変遷が一通り読めてきましたね。

 1:初期国庁(国分寺のすぐ南)⇒2:多摩郡衙へ国庁機能の移動⇒3:多摩郡の有力者居宅へ国庁機能の移動。
 1は九州王朝時代の末期。評制の時代。この初期国庁は「国府寺」ともども未完成であった可能性大。2は近畿天皇家時代。奈良時代から平安時代初期。この時代に本来郡庁である建物群が大改造されて、大規模な二重の区画溝に囲まれた方100mほどの大規模な官衙となり、正殿も礎石建物で床が專敷の華麗なものになる。おそらく武蔵国分寺金堂院はこの時代の産物。3は王朝国家が衰微した10世紀以後中世のもの。おそらく初期国庁の南で郡庁の西側にあった多摩郡の有力豪族の館(おそらく武蔵国造で多摩郡大領であった豪族)の館周辺に国庁機能が移動。これが今回見つけた遺構とその南側。この時代に暗闇祭りがはじまり、国庁の神社である大国魂神社の神輿を中心として武蔵国の一宮から六の宮の神輿が国庁の前に集まり、国司から礼拝を受けたのではないでしょうか。

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