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2018年12月13日 (木)

府中研究会 12/12

「出雲風土記の2月30日問題は,
なかなか面白い議論ができましね」というのが,
昨日の川瀬さんの第一声だった。
「夢ブログ」と「sanmaoの暦歴徒然草」(山田さんのサイト)の2つのサイトを通し,
7人が意見を出し合った。(最近では珍しい)

そして,その結果は・・・。
同時に2つの暦が使われていたらしいという結論に至った。
ということは,新旧2つの暦が併存していたことになり,
統治の転換点的様相を示していることがわかったのだ。
(旧九州王朝の暦と新近畿王朝の暦)

→→→→→
旧暦   ●(出雲風土記,正倉院文書)
     →→→→→
     新暦(続日本紀)

これは多元的古代の研究会として,
決して小さくない傍証を手に入れたということではないか。

その他の話題。
2つの正方位のあと,方位はまた西偏・東偏していった。
和田家文書の中に船でメキシコ経由でヨーロッパに行った人たちのことが出ている。
幕府内でも,外国のことを学ぶ必要を大いに感じていた。
編年の「時差」・・・鴻臚館や関東100年。信州や岡山あたり50年。
九州は唐に占領されていないのでは?
古田さんの功績は,外国史書で九州王朝説を打ち立てたこと。
年次の移動はほかの人たちの年次の移動を誘引してしまったのかも。
古田さんは,継承者を育てる「古代史講座」を開くべきだった。
偽造にもルールがある。それを見つけ出すことが大事。
スタートから「天皇」を主語にする時は,近畿の天皇が多い。(主語有無の論証)
「古田史学会報」のサイト掲載が古田さんの亡くなった頃で止まっている。


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

出雲風土記の2月30日問題に発する暦の問題。
二つの王朝の異なる暦の併存問題もさることながら、私は近畿天皇家が四文暦というとても古い暦を使っていたことの方が興味があります。
 どうして近畿天皇家は九州王朝が使っていた元嘉暦という中国南朝の暦を使わずに、それ以前の古い暦を使っていたのか。
 もしかしたらこれは7世紀に推古朝になったときに九州王朝が隋との対抗関係を選択したことに対する独自外交路線を選択したことや、建物や街の方位を九州王朝の東偏から磁石にそった西偏に変えたことと軌を一にするのではないのか。
 つまり近畿天皇家が隋との対抗に走っていく九州王朝から独自路線をとるという選択をしたとき、暦もそして建物の方位も、より古い時代の物に戻すという選択をしたということなのではないか。
 こういう疑問が湧いてくるのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 どうして近畿天皇家は九州王朝が使っていた元嘉暦という中国南朝の暦を使わずに、それ以前の古い暦を使っていたのか。
 もしかしたらこれは7世紀に推古朝になったときに九州王朝が隋との対抗関係を選択したことに対する独自外交路線を選択したことや、建物や街の方位を九州王朝の東偏から磁石にそった西偏に変えたことと軌を一にするのではないのか。
 つまり近畿天皇家が隋との対抗に走っていく九州王朝から独自路線をとるという選択をしたとき、暦もそして建物の方位も、より古い時代の物に戻すという選択をしたということなのではないか。

なるほど!その仮説は,これまで解けなかった謎を一挙に明らかにするものですね。
素晴らしいです!!(o^-^o)

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