7世紀半ばで,近畿王朝が「方位」を正方位に変えた理由は?
7世紀半ばで,近畿王朝の「方位」が正方位に変わることと
「大化の改新」(乙巳の変)は関係あるのではないか?
昨日,「日本書紀」の孝徳紀を読んでいて,そう思えてきた。
というのは,以下のような記述があるからである。
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(1) 東国の国司を集めて,「天つ神の命ぜられるままに,
今はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う」という宣言をしている。
(2) また,天皇が都を難波長柄豊碕に移し,春から夏にかけてネズミが難波の方に向かい,
浜辺に漂っていた枯れ木の切り株が東に向かって流れて行ったりしている。
(3) 改新の詔に,「昔の天皇たち(九州王朝の天子)によって作られたものの廃止」がうたわれていたり,
「都師(都城)を創設すること」が出てきたりしている。
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まさしく,これらは九州王朝への反旗を翻そうとしていることである。
それの表現の一つが,「方位を正方位にすること」だったのではないか?(正方位は,天子の印だから)
これまでは「唐との密約」という外的な条件で考えていたが,
それが整った後は,内的な条件の整備が必要である。それが上記のもの。
そして,ついに「サイは投げられた・・・」と。
「文献(日本書紀)と考古学(建物の方位)の一致」も味方します。
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※ 近畿王朝の方位 東偏 → 西偏 → 正方位
(九州に従い) (九州が正方位に) (ついに内外の条件が整った)
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肥沼さんへ
書紀孝徳紀にあるいわゆる「大化改新詔」は近畿天皇家が出したものではありません。原文で確認してください。すべて主語を省略しての「詔」す、です。
これは九州王朝の詔。セミナーでの正木さんの説は全くの間違いです。
おそらくこの大化二年に相当する九州年号の時代(たぶん常色三年)に、九州王朝は全国に評制を施行することを宣言したのだと思います。ただしこの評制宣言のために諸国に派遣した国司というのが8人しかいないので、まずは九州王朝の直轄地である九州とその近国8か国が対称だったと思います。そして直轄地以外では他国にある九州王朝の屯倉にも評制を敷いたと思います。
古賀さんが挙げた伊勢神宮の史料に、この時期に伊勢にも評制を敷いたとの記事がありますが、これは屯倉でありのちに神宮領になった二つの郡(評)に対してだけ。
さらに評制しかれたのが直轄領であったと思われる東国だと思います。これは常陸風土記の記述が典拠になります。
そしておそらくこの九州王朝の評制施行の詔に従って近畿天皇家も自己の直轄領に評制をしいたとおもわれます。
以上のことは、私の「古賀大下論争を読む」の冒頭に伊勢での評制施行の問題で論じています。
肥沼さんはこの僕の論文を読んでいませんね。
文献史料、それも後世の編纂史料で、しかも九州王朝の存在を消してその事績をすべて近畿王朝の物とするために作られた史料である書紀の記述を、そのまま信じたのではいけませんし、正木さんのように恣意的に年代を動かすのも間違いです。
書紀記事はその内容と語の使用のしかた・特に主語の書き方に注意して、どれが九州王朝の事績でどれが近畿天皇家の事績かを区別して慎重に読まなければいけない。
これはこの間私が何度も言ってきたことであり、肥沼さんご自身が私が編み出した方法に「主語有無の論証」という名称を付けてくださいました。
この近畿天皇家の方位変更の記事は、今までの議論を全部無にする発言です。
それとも肥沼さんは「主語有無の論証」を否定する立場に立つのですか?
投稿: 川瀬 | 2018年12月 4日 (火) 14:01
追伸
先に奈良県の官衙遺構の方位を分析した際に、7世紀中頃から近畿天皇家はその宮殿を正方位にしたという結果が出ました。
だがそのデータを精査してみると、中ごろではなくて末頃というのが正解だと思います。
理由は、正方位の遺跡として挙げたのが「飛鳥京」であり、その飛鳥京は、「飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮」であると考えられてきましたが、いま見えている正方位の宮殿は、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であり、飛鳥板蓋宮はその下層にある西偏の建物群であろうということです。
この飛鳥板葺の宮なら7世紀中頃ですが、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であれば、これは天武の宮殿ですので、7世紀末になるわけです。
したがって近畿天皇家がその宮殿を正方位に変えたのは、白村江の戦いで事実上九州王朝が統治力を失い、その権限を近畿天皇家が事実上奪い取ったからだと思われます。
この時期に属する正方位の宮殿はまず、天智の大津京、そして天武の後岡本宮、さらに天武の前期難波宮、そして持統の時期になりますが藤原京です。
飛鳥浄御原宮は九州王朝の九州にある宮であり、書紀編者が、天武のエビノコ郭を控えた後岡本宮がそれであると思わせるために偽装したのだと考えます。
近畿天皇家が7世紀中頃から都を西偏から正方位に変えたという先の認識そのものが間違いでした。
もっと早く気付くべきでした。正しくは7世紀末からです。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 4日 (火) 14:22
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この近畿天皇家の方位変更の記事は、今までの議論を全部無にする発言です。
それとも肥沼さんは「主語有無の論証」を否定する立場に立つのですか?
いえいえ,そんなつもりはありません。
「7世紀半ばで,〈方位を正方位に変えるような記事〉はないかな,と思って,
目に入ったのが上記の記事ということです。
投稿: 肥さん | 2018年12月 4日 (火) 18:00
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 近畿天皇家が7世紀中頃から都を西偏から正方位に変えたという先の認識そのものが間違いでした。
もっと早く気付くべきでした。正しくは7世紀末からです。
わかりました。「年表」を書き換えることにします。
投稿: 肥さん | 2018年12月 4日 (火) 18:04