2月30日!?
横浜読書会で聞いた話だが,
かつて『出雲風土記』が偽書の疑いがかけられたことがあるという。
というのも,この風土記が完成した日が,
733年2月30日と書かれていたからだというのだ。
今の私たちの常識では,2月は28日か29日で,30日は存在しない。
では,昔の暦ではあったのだろうか?
実は,干支もそれに該当するものがあり,当時は2月30日があったらしい。w(゚o゚)w
2月30日に完成したから,その通りに書いたら,
未来では暦が変わってしまって偽書の疑いをかけられたという次第。
この当時どんな暦が使われていたか,
ご存知の方はご教示下さい。
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もちろん、旧暦では二月にも三十日まである年もあります(ない年もあります)。
日付けが月の満ち欠けに合っているというのが、旧暦の基本です。
月の満ち欠けは約29.5日で一巡りしますから、29日の月と30日の月が大ざっぱに言って半分ずつくらいあります(どの月が大の月になるのか小の月なるのかは、暦を見なければわかりません。月の軌道は真円ではありませんから、大の月が二回続いたりすることもあります)。
上述のように、半分ずつ大小の月があるとすると、一年の日数は
29×6+30×6=354
で、365日に11日ほど足りません。
そのため、3年たつと約一ヶ月季節がずれてしまうことになります。
それを是正するのが「うるう月」です。
これは17年間に7回うるう月を置くと、実際の季節にも。月の満ち欠けにもよく合うことが知られています。
では、どうやって閏月を置くかというと、それには大寒とか春分などの二十四節気、それも今の暦で月の後半にくる「中気」というものを使います。
中気はそれがある月が決まっていて、たとえば雨水なら一月、春分なら二月、穀雨なら三月…、と決まっています。
もし、暦と季節がずれてきて、たとえば春分が二月に入らず三月にずれ込んだとき、その三月は「うるう二月」としてもう一つの二月として、その次に三月を置きます。
うるう月が置かれる年は、一年が十三か月になります。
このようにポイントは、月の満ち欠けに日にちを常に合わせるために工夫をしているということです。
したがって毎月三日は必ず三日月が見え、毎月十五日は必ず十五夜になります。
盆踊りを盆にやるのも、十五日であれば満月であり、夜も明るいからです。
投稿: | 2018年12月 7日 (金) 21:20
どなた?
コメントありがとうございます。
とても丁寧な解説で,旧暦の仕組みがよくわかりました。
私はまったくの門外漢で,1年が380日台だったり,
350日台だったりするということに単純に驚いておりました。
(歴史の教科書には,「昔の人の知恵」として載せていません)
要は,月の満ち欠けの利用ということですね。
でも,太陽神のアマテラスの国が月の満ち欠けの暦を使っていたとは,
やはり九州王朝の時代の影響ですかね。(またも「無知」の続き)
投稿: 肥さん | 2018年12月 8日 (土) 05:12
晦日(三十日)に月が出る如し
という言葉があるのですが、これは陰暦では晦日(三十日)に月が見えないことから転じて
「ありえないこと」
という意味のジョークです。我々世代では「タブラン」みたいなもんでしょうか?
(田淵のランニングホームラン → ありえないこと)
まあ田淵選手がランニングホームランを打つことは(理論上は)もちろん起こりうることでしたが、陰暦で晦日に月が出ることは理論上も現実にも絶対に起こりえないことでした。
「年の瀬は物騒だから…」というのは陰暦では暮れから正月にかけてだんだん新月に向かっていくので夜が暗くなってしまい、コソ泥が行動しやすいからでした。
ただ、その偽書説ってホンマかいな? と思います。
2月が28日、あるいは29日までしかないのはあくまでも新暦の話であって、陰暦では当然、2月30日は普通にあるからです。
いったい誰が偽書説を言い出したのだろう?
私はそっちの方が興味あります(笑)
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2018年12月 8日 (土) 06:01
わかりやすくするために「旧暦」と書きましたが、この方式は正式には「太陰太陽暦」といいます。
日付を月(太陰)の満ち欠けに合わせながら、地球が太陽を一周する一年のサイクルと季節の移り変わり(太陽暦)にも対応しています。
今の暦は「太陽暦」で、月の満ち欠けには対応せず地球の周回だけに対応しています。その代わり一年は365日か366日で一定していますし、それぞれの月の日数も毎年同じです。
投稿: あじすき | 2018年12月 8日 (土) 06:21
ツォータン(佐藤浩史)さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ただ、その偽書説ってホンマかいな? と思います。
2月が28日、あるいは29日までしかないのはあくまでも新暦の話であって、
陰暦では当然、2月30日は普通にあるからです。
いったい誰が偽書説を言い出したのだろう?
私はそっちの方が興味あります(笑)
今ちまたでは,「肥さんの聞きまちがい説」が有力となっていますので,
あまり大きな声で言わないように願います。(笑)
投稿: 肥さん | 2018年12月 8日 (土) 06:48
あじすきさんへ
コメントありがとうございます。
〉 今の暦は「太陽暦」で、月の満ち欠けには対応せず地球の周回だけに対応しています。
その代わり一年は365日か366日で一定していますし、それぞれの月の日数も毎年同じです。
私の無知が今回の「騒ぎ」を巻き起こしたようで,
本当に恥ずかしいです。
旧暦の知識が私にはほとんどないことがわかりました。
投稿: 肥さん | 2018年12月 8日 (土) 06:51
この話「出雲風土記 偽書」で検索したところ、つぎのようなサイトがありました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1467842869
要するに質問サイトで「日本古代中世史について詳しい方に質問です。 風土記はいつ編集が命じられたのか?出雲国風土記はいつ完成したか?編集責任者はだれか?について教えてください。 」というものなのですが、ベストアンサーに選ばれた答えの中に
「*古代の暦では天平五年の二月は小の月にあたるので29日で終わり、30日はありません。そのため天平五年説が疑われた時代もあったようですが、『大日本古文書』中に、同様に小の月であるにもかかわらず二月卅日と記した例が幾つか見つかっており、今は偽書説は否定されています。」
という一節がありました。
要するに横浜読書会で話題になったことは、「天平5年の2月は小の月だから29日までなのに、風土記に2月30日と書かれているので偽書とされたことがある。」ということなのだが、このアンサーの説明では、『大日本古文書』の中に小の月なのに2月30日とした例があったから、偽書説は消えたと。
この説明がよくわかりません。
要するに山田さんがおっしゃるように、日本書紀と出雲風土記では使った暦が異なり、当時異なる暦が使われていたということなのでしょうか。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 8日 (土) 22:53
追伸
「出雲風土記偽書説」で検索したら少し経緯がわかりました。
●吉川弘文館 国史大辞典 出雲国風土記の項
昭和二十五年(一九五〇)藪田嘉一郎『出雲風土記剥偽』によって本書は延長三年(九二五)以後の偽撰とされたが、これが契機となって本書の研究が俄かに進み、同二十八年平泉澄監修『出雲国風土記の研究』によって偽撰説が否定された。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=476
●島根半島を歩く-出雲国風土記と雲陽誌を持って-
00-06.出雲国風土記ノート-3
*日付について論議があった。天平5年(733年)2月30日とある。もともと出雲国風土記のみが完本として残っていることについて,後世に作成されたものとの疑いがあった。特に,この日付はありえないとされて出雲風土記剥偽(にせもの)説の根拠としてあげられた。1950年のことである。
しかし,同じ日付を探索したところ,正倉院文書として残された出勤簿に見いだされた。現在,剥偽説はかげを潜めている。
http://michiaruki.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/00-06-3-ce55.html
●国立国会図書館デジタルコレクションに「出雲風土記の研究」の書誌情報がありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3006269
目次の中に:天平五年二月卅日―勘造日附の眞偽― 益田勝實 岡田淸子 / p569 (0308.jp2)
出版者:出雲大社御遷宮奉賛会 出版年:1953年
投稿: 川瀬 | 2018年12月 9日 (日) 00:01
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
粘り強い調査ありがとうございます。
要は私が旧暦についての知識がなかったことからスタートしているのですが,
ようやく「二月三十日・偽書説」の出所を突き止めていただいて,ありがたいです。
これで「枕を高くして」寝られます。
投稿: 肥さん | 2018年12月 9日 (日) 05:03
川瀬さん調査ありがとうございました。
我々の知識は「偽書説」が否定されてからずいぶん年月がたってから得たものだから「偽書説」そのものを知らなかった訳なんですね。
藪田嘉一郎氏のお名前が出てきたことに少なからず因縁を感じました。(ある意味感動?)
当時の人たちは実際の月を見て「朔日」だの「十五夜」だのと判断していたはずなので、机上の暦法の「大小の月」は参考程度に考えていたんじゃないかと思います。
きっと天平5年の2月29日には月が見え、翌日は見えなかったのでこの日を「晦(つごもり)」と判断して2月30日と書いたのだと想像します。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2018年12月 9日 (日) 09:04
再追伸
岩波古典文学大系の「風土記」に少し詳しく書いてありました。
●解説p25
この2月30日は暦によれば小の月で30日はなかったという指摘(昭和6年朝山晧)に端を発して後世の偽作とする説(薮田嘉一郎「出雲風土記剥偽」昭和25年)があらわれ、書誌研究を賑わせたが、近年田中卓氏の研究によって奥書のままに信ずべきことが確かめられた(平泉澄編「出雲風土記の研究」所収「出雲風土記の成立」)。
●出雲風土記注p255 注三
続日本紀によれば二月は小で二十九日まで、三十日はないようであるが、正倉院文書(写経目録)に天平五年に二月三十日の日付が見える。この日付を疑う要はない。
>当時の人たちは実際の月を見て「朔日」だの「十五夜」だのと判断していたはずなので、机上の暦法の「大小の月」は参考程度に考えていたんじゃないかと思います。
きっと天平5年の2月29日には月が見え、翌日は見えなかったのでこの日を「晦(つごもり)」と判断して2月30日と書いたのだと想像します
と、ツォータンさんは書かれましたが、「正倉院文書として残された出勤簿」との説が事実なら、続日本紀編纂時に使用した暦と、実際に天平五年に使用された暦が異なっていたという可能性の方が高いのではないかと思います。出勤簿なら役所の公文書。役所が暦を使わないはずはありませんから。
また庶民は別として貴族役人は暦を使っていたと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 9日 (日) 12:24
古書情報
出雲風土記剥偽は 4320円
https://www.supergenji.jp/item/sieta.php?rp=https%3A%2F%2Fwww.supergenji.jp&gk=%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E5%89%A5%E5%81%BD&rc=50&sm=s&of=10&CID=1&sl=1000&mojicode=utf8
出雲国風土記の研究は いくつか版があるが一番安いのは2700円。
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=357a4344f682a07ff51d7e5f59ea79359815bbd0&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
この問題をもっと深めたい方はこの二つの本を読むとよいでしょうね。
出雲国風土記の研究は国会図書館でデジタル化されているので(ただし館内でしか閲覧不可)ここで見るのが一番安い。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 9日 (日) 17:13
川瀬さんへ
もちろん私も「暦の違い」の可能性も考えましたよ。
ただし「暦法の違い」ではなく、同じ暦法の中での「改暦」(月の大小や閏月を操作すること)との視点でしたが。
そのことも前のコメントではいったん書いて、結局は送信前に消しました。こういう場に書き込む時の私の悪い癖で、いろいろ書きすぎて冗長なってしまったためなんですけどね。
私は、紙に書かれた暦を見て「明日は月が変わって○月1日かぁ」と考えたりするのはグレゴリオ暦になってからの感覚で、当時は実際に月を見て判断することが多かったと思います。
陰暦の常識として、月が見えるのに「晦」とはいわないわけで、29日に月が見えていたなら翌日を晦日の30日と判断する人が官僚、平民問わず多かったはずだと想像します。
暦法の基本は「朔日を月の1日にもってくる」ことと「閏月の決定」ですね。
しかし暦法は長く使用していると必ずズレが出てきます。そのズレを解消するために一時しのぎ的に「改暦」を行うわけで、大小の月を入れ替えたり、閏月の入るところを変えたりしたということです。
私は前のコメントでは『出雲風土記』の著者の認識のみを考え、まず第一に
「机上の暦法よりも実際の月齢で判断した」
と考えたのですが、「正倉院文書として残された出勤簿」の方も考えるのならば、これは時の政権による「改暦」の方を第一に考えた方が良いですね。
もちろん「暦法の違い」も完全には捨て切れてはいませんが・・・。
実は私は以前にもこの大小の月問題を考えたことがありまして(ああ、悪い癖が…笑)
日本書紀の『伊吉連博徳の書』の「閏十月三十日問題」について、現在は博徳の誤記説が有力ですが、私は実際に博徳が三十日だと判断した理由があったものと考えたのです。
唐朝の記録に残っていない改暦(大小月の入れ替え)なのか、それとも博徳自身が二十九日は月を見たので翌日を晦と判断して三十日と記録したのか、どちらだろうかと。
もちろんその答えはわかりません。本当はやっぱり誤記なのかも知れませんし。
投稿: ツォータン(佐藤浩史) | 2018年12月 9日 (日) 17:42
初歩的なことなので、コメントするかどうか数日間考えていたのですが…。
>きっと天平5年の2月29日には月が見え、翌日は見えなかったのでこの日を「晦(つごもり)」と判断して2月30日と書いたのだと想像します。
ということはあり得ません。
ある一個人が月が見えたか見えなかったかで日付を変えていては、そもそも暦を使用すること自体の意味がなくなってしまいます。
また、朔の前後数日間は月を見ることはできません。
投稿: あじすき | 2018年12月12日 (水) 06:51
今朝、月齢25の月が見えました。旧暦では11月27日です。
明日も見られると思いますので、体感してみてください(散歩中にもう見ているかな?)。
投稿: あじすき | 2019年1月 2日 (水) 07:14
あじすきさんへ
コメントありがとうございます。
〉 今朝、月齢25の月が見えました。旧暦では11月27日です。
ということは,「ダイエットの最中」で,「新月まであと間もなく」ということですね。
投稿: 肥さん | 2019年1月 2日 (水) 09:39
はい、そうなのですが。まだ月齢25ですがかなり細いです。
「朔の前後は月は見られない」のを体感していただきたく。
投稿: あじすき | 2019年1月 2日 (水) 10:14
あじすきさんへ
コメントありがとうございます。
お陰様で,最近月の満ち欠けを意識するようになりました。
生まれてからずっと月と共にありましたが,
「見れども見えず」でした。
これからは,月と共に人生を過ごしていきます。(笑)
投稿: 肥さん | 2019年1月 2日 (水) 12:47