クルル鉤(かぎ)
昨日の府中研究会で,発掘調査報告書を閲覧していた際,
上記の鉤(かぎ)が出土物の中にあった。
調べて「夢ブログ」に載せるという宿題なので,
今書きます。
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/11/tanken66.html
そういえば,何かの時に見たことがあった。
正倉や寺社のカギであった。
昨日の報告書の写真は次のようでした。(右下)
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肥沼さんへ
「クルル鉤」の調査ありがとうございます。
鍵穴に差し込んで扉の裏にある閂を外す鍵だったのですか。なんとまあ。
> こうした「カギ」は平城京の役所やお寺などで、大事な品物を収納した建物の戸締まりに使われました。
ということは今回見つけた遺跡はとても重要な役所があった場所ということですね。
1602次調査とそのそばの1033次調査。廂付の大きな建物が集中している。
「よみがえる古代武蔵国府」で確認すると「大目館」の墨書土器がすぐ近くで出たので注目されている「国府」西方の大型方形区画のすぐ西側(p44)。
1033次の廂付建物は二つとも西偏。今回の1602次の廂付建物は東偏で、すぐ北側に正方位の大型建物も存在する。
異なる時代の長期間にわたって中枢的な役割をもった役所があったことを伺わせますね。
投稿: 川瀬 | 2018年12月13日 (木) 12:42
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 異なる時代の長期間にわたって中枢的な役割をもった役所があったことを伺わせますね。
やはり「庇付き建物」は,タダモノではありませんね。
投稿: 肥さん | 2018年12月13日 (木) 13:40
肥沼さんへ
前回の研究会で見つけたこの遺跡。気になったので昨日府中歴史館に行き、周辺の遺跡群の報告書ともども確認してみました。
とくに進展はないのだが、この二つの大型廂付建物群の東側と北側は野菜畑として使われていた場所であることがわかり、当時の畝がそのまま残された場所でした。その北と東側には東西方向と南北方向の溝があり、南北方向の溝の東側は総柱建物が多数でているところ。
そしてこの遺跡の南側数百メートルが甲州街道(古代の武蔵国の郡衙をむすぶ東西道)と、坪宮と七重塔をむすぶ南北道路の交差点です。今回の遺跡はこの南北道路のすぐ東側。
つまりこの交差点がくらやみ祭りの神輿が全部集まる場所で、むかしこの付近に国庁があったのではないかという場所です。その交差点の南西側が、平将門の乱(940年)のときの鎮圧責任者である武蔵守藤原秀郷の館あとと言われる高安寺。この高安寺と交差点を挟んだはす向かいの場所のすぐ北側が、今回クルル鉤の見つかった遺跡群です。
ということはこの遺跡群の南側で交差点の北東側に平安時代の国庁があった証拠ではないか。
その国庁のすぐ北側の住居群と考えられるところ(周辺に野菜畑を伴う)で国庁の重要な扉の鍵と目されるクルル鉤が出てきたということは、ここが国庁の重要な建物の管理をする役人の住居だったとのではないかと思われます。
また報告書を読んでみるとこの地域からは10世紀ごろの遺物しか出ないとのこと。
平安時代の武蔵国庁のありかを見つけてしまった可能性がありますね。
ちなみにこの推定国庁あと付近はまだまったく発掘されていません。
投稿: 川瀬 | 2018年12月20日 (木) 13:55
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 平安時代の武蔵国庁のありかを見つけてしまった可能性がありますね。
それが本当なら素晴らしいですね!
もともと今私たちがやっている「方位の考古学」は,ある意味統計的手法な訳ですが,
そういうやり方をしていたために,かえって「クルル鉤」のような貴重品にも突き当たるという,
素晴らしい結果に恵まれたような気がします。
これからもブレずにやっていきたいです。
投稿: 肥さん | 2018年12月20日 (木) 16:43
>もともと今私たちがやっている「方位の考古学」は,ある意味統計的手法な訳ですが,
そういうやり方をしていたために,かえって「クルル鉤」のような貴重品にも突き当たるという,
素晴らしい結果に恵まれたような気がします。
これからもブレずにやっていきたいです。
その通りです。府中の遺跡の悉皆調査をやっていたからこそ出会えた遺跡です。これで武蔵国府の変遷が一通り読めてきましたね。
1:初期国庁(国分寺のすぐ南)⇒2:多摩郡衙へ国庁機能の移動⇒3:多摩郡の有力者居宅へ国庁機能の移動。
1は九州王朝時代の末期。評制の時代。この初期国庁は「国府寺」ともども未完成であった可能性大。2は近畿天皇家時代。奈良時代から平安時代初期。この時代に本来郡庁である建物群が大改造されて、大規模な二重の区画溝に囲まれた方100mほどの大規模な官衙となり、正殿も礎石建物で床が專敷の華麗なものになる。おそらく武蔵国分寺金堂院はこの時代の産物。3は王朝国家が衰微した10世紀以後中世のもの。おそらく初期国庁の南で郡庁の西側にあった多摩郡の有力豪族の館(おそらく武蔵国造で多摩郡大領であった豪族)の館周辺に国庁機能が移動。これが今回見つけた遺構とその南側。この時代に暗闇祭りがはじまり、国庁の神社である大国魂神社の神輿を中心として武蔵国の一宮から六の宮の神輿が国庁の前に集まり、国司から礼拝を受けたのではないでしょうか。
投稿: 川瀬 | 2018年12月20日 (木) 22:38
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
川瀬さんのコメントを別項でアップさせていただきます。
あしからず。
投稿: 肥さん | 2018年12月21日 (金) 06:55