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2018年12月30日 (日)

どこから来た「評木簡」か(大雑把です)

評木簡の分布だけしようと思っていたが,
そういう訳にはいかなくなった。
どこから来た「評木簡」か,について調査してみたい。

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飛鳥京・・・伊勢国員弁評,伊勢国安濃評,伊勢国飯高評,伊勢国飯野評,尾張国海部評,遠江国長上評,
駿河国蘆原評,武蔵国横見評,武蔵国?評,武蔵国那珂評,近江国坂田評,美濃国安八評,美濃国賀茂評,
上野国碓氷評,上野国佐位評,下野国那須評,若狭国遠敷評,若狭国三方評⑥,若狭国?評,
越中国利波評,丹後国加佐評,備中国都宇評,伊予国濃満評


藤原京・・・山城国乙訓評,大和国?評,河内国安宿評,河内国高安評,河内国河内評,摂津国濃味評,
伊勢国河曲評,志摩国答志評,尾張国葉栗評,尾張国丹羽評,尾張国や皮評,尾張国春部評②,
尾張国山田評,尾張国智多評,尾張国?評③,三河国渥美評②,遠江国?玉評,遠江国長田評,
駿河国駿河評②,武蔵国?評②,安房国安房評,下総国香取評,美濃国大野評,美濃国各務評②,
美濃国厚見評②,美濃国山県評,信濃国伊奈評,上野国群馬評②,上野国甘楽評,下野国芳賀評,
若狭国?評,若狭国遠敷評②,若狭国小丹生評③,若狭国?評,若狭国大飯評,若狭国?評③,
若狭国三方評⑥,丹波国何鹿評,丹波国?評,丹波国加佐評②,丹波国何鹿評,丹後国与謝評②,
丹後国竹野評②,丹後国熊野評②,但馬国二方評,但馬国智多評,伯耆国河村評,出雲国楯評,
出雲国出雲評,出雲国神門評,出雲国大原評,隠岐国知夫利評②,隠岐国海部評⑦,隠岐国?評⑨,
隠岐国周吉評,播磨国?評③,播磨国揖保評②,播磨国神埼評②,播磨国宍栗評,備前国邑久評,
播磨国佐用評,備中国窪屋評,備中国下道評,備中国浅口評,備中国後月評,周防国熊毛評,
周防国佐波評,阿波国板野評,阿波国那賀評,伊予国久米評,伊予国宇和評


石神遺跡(奈良県)・・・山城国?評,伊賀国名張評,尾張国葉栗評②,尾張国?評,尾張国丹生評,
尾張国山田評,三河国碧海評⑦,三河国額田評,三河国賀茂評⑥,三河国幡豆評②,三河国宝?評,
三河国?評⑤,伊豆国賀茂評,伊豆国?評②,武蔵国久良評,近江国?評②,近江国野州評③,
近江国浅井評,近江国伊香評,,美濃国不破評③,美濃国?評,美濃国大野評③,美濃国各務評②,
美濃国武芸評,美濃国賀茂評,美濃国?評,越前国敦賀評,丹波国?評③,因幡国高草評,
隠岐国知夫利評,隠岐国海部評,隠岐国?評④,隠岐国隠地評,播磨国佐用評②,播磨国阿麻評,
播磨国?評,備中国賀夜評②,備中国小田評,備中国神石評,備後国深津評,阿波国多度評,
讃岐国多度評,伊予国宇和評②,土佐国?評


飛鳥池遺跡(奈良県)・・・志摩国英虞評,尾張国海部評②,美濃国?評②,美濃国刀支評,
若狭国?評,若狭国大飯評,越前国今立評,越中国新川評,丹後国加佐評②,丹後国熊野評,
隠岐国海部評,隠岐国?評③,隠岐国周吉評②,隠岐国隠地評③,播磨国粒評,播磨国加毛評,
備中国賀夜評③,紀伊国日高評,阿波国美馬評②,伊予国?評④
        

酒船石遺跡(奈良県)・・・伊勢国三重評

明日香養護学校遺跡(奈良県)・・・ 丹波国多紀評,

南郷遺跡(奈良県)・・・大和国?評


難波京(大阪府)・・・不明(6)

佐堂遺跡(大阪府)・・・河内国?評,


西河原森ノ内遺跡(滋賀県)・・・ 近江国野州評,近江国?評,


伊場遺跡(静岡県)・・・遠江国浜名評,遠江国敷智評,

神明原・元宮川遺跡(静岡県)・・・駿河国有度評 


観音寺遺跡(徳島県)・・・阿波国麻殖評,阿波国?評


元岡・桑原遺跡群(福岡県)・・・筑前国志麻評

太宰府・・・豊後国玉珠評,肥後国合志評

日本の地名は同じものが各地にあるので,●●国●●評のように
すべてが記録されているものはそんなに多くない。
また武蔵国のように前身名(无邪志)を記録しているものもある。
なので,どうしても不明のものが多くなってしまう。

でも,周防の佐波評や伊予の久米評が出てきてうれしかったです。
こういう作業は私には向いていないとつくづく思いました。
私は「概数」とか「グラフ」の大体の作業が好きなんです。

今回は数字がなかなか合いませんので,
精密なデータとしては使えません。
「こんな地方から,奈良県(大和)を目指して,税金が運ばれてきた」
と思い浮かべていただければうれしいです。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼様

評木簡のデータまとめを興味深く拝見しております。藤原宮時代の近畿天皇家の勢力範囲について、下記のように「洛中洛外日記」で論じたことが、わたしもありました。ご参考まで。
来年も貴研究のご発展を祈念しております。御教導のほど、お願いいたします。

古賀達也

古賀事務局長の洛中洛外日記
第123話2007/02/25

藤原宮の「評」木簡
 この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第69話、72話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。
 『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(694)から平城京遷都する和銅三年(710)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する701年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
 ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和46年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、7世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
  逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、701年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思われるのです。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

木簡の分析によって,九州王朝と近畿王朝の勢力関係がわかるのですね。
一応「悉皆調査」ですから,古田先生もお喜びだと思います。
古賀さんは10年早く藤原京の木簡を調査されたとのことですが,
私の参考にした本は2006年の発行なので,ちょうどその頃の発行ということになります。
あれから10年経っていますから,さらに詳しいデータが集まってきているのでしょうね。
そういうのを,ぜひ数や図で表した本を作ってほしいものです。
私などは数字が合わないだけで,キリキリしてしまいますから・・・。

肥沼さんへ
 集計お疲れ様です。
 十分に使える資料ですよ。
 たしかに飛鳥京・藤原京、そして石神遺跡(ここは飛鳥京の迎賓館)と飛鳥池遺跡(ここは飛鳥京の工房群)で、見られる木簡は九州を除く全国であることがわかりますね。
 ただこれで、この7世紀末の段階で近畿天皇家が事実上統治していたのは九州以外の全国で、九州王朝はすでに九州しか統治権がなかったとは即断できませんね。
 後の世でもそうですが、九州の税は都ではなく太宰府に集められました。これは一貫して変化がありません。この木簡でも太宰府は九州だけですね。
 ということはこの7世紀末の段階では太宰府の筑紫大宰は近畿天皇家の王か貴族ですから、太宰府の運営権も近畿天皇家が握っていたことはたしかです。
 この木簡群でわかることは7世紀末にすでに九州王朝の統治権は名目だけになり、実質的な統治権は近畿天皇家が握っていたということです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  集計お疲れ様です。
 十分に使える資料ですよ。

ありがとうございます。そう言っていただけると,一日費やした苦労が報われます。

〉  この木簡群でわかることは7世紀末にすでに九州王朝の統治権は名目だけになり、
実質的な統治権は近畿天皇家が握っていたということです。

700年までと,701年からが,そのONラインの境目という訳ですね。

追伸
 もう一つ言い忘れました大事なこと。
 難波京も(これは前期難波京です)出土木簡が極めて少ない。
 この宮が評制施行の時の九州王朝の副都であれば、ここにもっとたくさんの木簡が出土しなければいけません。東国も含めた全国統治のための拠点であれば、たとえ10年と少しの都であったとしても、東国からのもっと多くの木簡があるはずです。
 でも太宰府と同じくとても少ない。
 なぜか。
 前期難波宮が天武の宮でその使用期間が10年ほどしかない一時的なものだったと考えれば、この少なさは理解できます。そしてこの宮がかなり発掘が進んでいるのに出土木簡が少ないこともこの考えを支持していると思います。
 つまりこの評制木簡の出土数の統計からは、前期難波宮が評制施行時の拠点としての九州王朝の副都という評価には疑問点を付けるのです。
 なお太宰府が近畿の宮に比べて木簡出土数が少ないのは、近畿の諸宮に比べて発掘面積が極めて狭いことが関係していると思います。

 九州王朝と近畿王朝の支配の転換点は700年と701年の間にある。これは動きません。
 そして700年のこの時までに作られた中国式の大規模な都城は皆、実際の建設主体が近畿天皇家であったとしても、名目的には九州王朝の宮であったということです。ずっと天子が住むか否かに関わらず。
 さらにこの時まで九州王朝の首都は太宰府です。
 そして701年以後実質的にも名目的に日本列島の支配権を手に入れた近畿王朝は、国制を国評制から国郡制に転換するとともに、王朝の都として相応しい新都平城京を建設し、ここに全国から大量の税を集めたわけ。
 だから評制木簡は平城京からはでませんが、郡制になってからの木簡は大量に出土するわけです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  前期難波宮が天武の宮でその使用期間が10年ほどしかない一時的なものだったと考えれば、この少なさは理解できます。そしてこの宮がかなり発掘が進んでいるのに出土木簡が少ないこともこの考えを支持していると思います。
 つまりこの評制木簡の出土数の統計からは、前期難波宮が評制施行時の拠点としての九州王朝の副都という評価には疑問点を付けるのです。
 なお太宰府が近畿の宮に比べて木簡出土数が少ないのは、近畿の諸宮に比べて発掘面積が極めて狭いことが関係していると思います。

なるほど。太宰府から2点,難波京から6点しかありません。
「ないにはないの理由がある」ということですね。
木簡研究に関心を持っている古賀さんにとって,
副都からはもっと木簡が出てほしいところだと思いますが…。
気になる方もいらっしゃると思うので,
太宰府と難波京から出ている木簡をすべて公開したいと思います。
(なお,これは2006年発行の本によるものなので,以後増えているかもしれません)

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