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2018年12月25日 (火)

エビノコ郭と北方建物

前に飛鳥宮について書いたとき,
他のどの建物より立派だったのが
外側に途中から建てられたエビノコ郭だった。

面積も広いし,床下の高さも2mと推定されるという。
(高いところに位置するというのは,身分が高いということだ)
しかも,その前庭には玉石が敷いてある。
こんな立派な建物にいることができるのは,
「九州王朝の天皇に違いない!」と思って書いたが,
それは川瀬さんの「主語有無の論証」とピタリとハマった。

「エビノコ郭には及びもせぬが,せめて住みたや北方建物」というわけで,
太宰について書いてみたい。
この太宰という役人は,今の県知事のようなものだったらしく,
近畿王朝に替わって郡制度の国司が登場すると,なくなる。
つまり郡の前だから,九州王朝が作った評制度における役人だったということだ。

ところで,武蔵国分寺の崖上に「北方建物」という建造物があって,
誰のために建てられたかがよくわかっていないようだ。
しかし,多元的古代の考え方=古田武彦氏のONラインによれば,
7世紀末までが九州王朝の評制の時代で,
8世紀からは近畿王朝の郡制度の時代とあらば,
当然国府寺が建て始められた時には,九州王朝の太宰がそこにいたはずなのである。

通説では,聖武天皇の「国分寺建立の詔」からすべてが始まると考えているようだが,
私たちの研究によれば,それを100年以上遡ってムサシ国府寺が作られ始めている。
もちろん九州王朝によってである。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「太宰」「大宰」という官職について勘違いしていませんか。
 これは単なる後の「国司」ではありません。数か国を統括する高等官です。史書で確認できるのは、「筑紫大宰」「吉備大宰」。あとこれに近いのが「伊予総領」。
 関東に「大宰」なり「総領」なりが置かれたという史料は存在しません。

 通説では武蔵国分寺の北方建物は「国師」の館だと。国に毎に置かれた国々の僧尼を監督する僧侶の官職名。ご存知ですよね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  関東に「大宰」なり「総領」なりが置かれたという史料は存在しません。

確かに史料は残されていませんが,孝徳紀の大化元年八月に「東国国司への詔」という怪しい記事があり,それが「主語なし」なんです。岩波文庫版の『日本書紀』のP406~408にその解説が出てくるのですが,半年の間に役人たちが東国に派遣され,その後の論功行賞もされているようです。私はこの記事は,「主語なし」なので,九州王朝の天皇が太宰(国司と言葉は変えてある)を東国に派遣した(半年の派遣となれば,当然住まいが必要となります)記事の反映ではないかと考えた訳です。

ただ,方位が7度西偏なので,国師(あるいは.豪族の建物)の建物ということになり,
初代国分寺の北方の「祭祀場」と呼ばれている場所が臭いということになります。
そこは発掘されているのでしょうか。

肥沼さんへ

九州王朝の記事で「東国」とは関東を指すのでしょうか? 九州の畿内からみた東国と考えるのが筋でしょう。となればこれは中国四国地方の国々だと思います。
 また太宰とは筑紫大宰や吉備大宰との記述のように一国規模の国司ではなくて数カ国から10か国ぐらいの範囲において天子に変わって政治を執り行う官という意味になります。この記事の「国司」が本来は「太宰」であったと考えるのなら、これは吉備大宰を置いた記事と考えるべきでしょう。
 しかし続く記事をよく読んでください。
 東国に派遣された「国司」の多くが処罰されているのです。その記事を読むと、この「国司」とは後の税を徴収したり役人を改廃したりするものではなく、役人の勤務評定と国境評境の確定が仕事であったと読めるのです。
 史料の文言を勝手に変更する手法は良くないです。

>ただ,方位が7度西偏なので,国師(あるいは.豪族の建物)の建物ということになり,
初代国分寺の北方の「祭祀場」と呼ばれている場所が臭いということになります。
そこは発掘されているのでしょうか。

 これは国分寺市の図書館でご確認ください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 九州王朝の記事で「東国」とは関東を指すのでしょうか? 九州の畿内からみた東国と考えるのが筋でしょう。となればこれは中国四国地方の国々だと思います。

なるほど,九州王朝から見れば「ほとんどの国は東国」でしたね。
孝徳紀は「主語有無の論証」が大活躍しそうな場所です。
ぜひ,精査していただけると助かります。
(私にさせると何年も掛かってしまいそうですので)

〉 これは国分寺市の図書館でご確認ください。

やってみます。


追伸
 派遣された国司は8人ですのでこの東国は八か国。おそらく中国四国でしょう。
 おそらくそれは、安芸・吉備・播磨・伯耆・出雲・因幡・讃岐・土佐ではないでしょうか。650年頃の九州王朝の畿内は8か国だと思います。それはおそらく筑前・筑後・豊前・豊後・周防・長門・肥前(当時は近江と呼んだはず)。これに伊予が加わると思いますので、
 要するに西日本の中で近畿天皇家の領域を除いた各地に国司を派遣し、国境や評境を確定し、戸籍を作り、役人の勤務評定を行い、武器や兵糧を蓄えるというものだったのではないかな?
 ただ肥沼さんがこの時期に、大宰なり総領が派遣されたと考えるのは案外的を得ていると思います。常陸風土記にこのころ関東は八か国になり評制度が施行されたが管轄したのは「総領」だったとあります。
 つまり国司よりもさらに上級の広域の権限をもった天子の代理人ともいうべき役人が関東に派遣された可能性がある。
 ということは記録に残る吉備大宰もこの時期に派遣されたのではないか。そして半ば独立国であった吉備国を三つに分割し(備後・備中・備前)て評制度を施行するために。そして同じ時期に九州王朝の直轄域に入った伊予にも総領をおくり、新たにこの地域を統治させたと。

 こう考えると肥沼さんの推理もあながち間違いではないですね。
 ただ吾妻を統治する総領がどこに駐在したか? ここは問題ですね。
 吾妻の最大勢力は毛野だ。その領域は後の上野・下野・武蔵だと思う。だとすると「吾妻総領」の駐在地はこの三カ国のどこかですね?すでに南武蔵には広大な屯倉がありましたからそこかな?
 と考えると武蔵府中も候補の一つですね。この屯倉群の中枢ですから。

 と考えてみると伊予と武蔵の二つの遺跡が気になりますね!!!

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 と考えてみると伊予と武蔵の二つの遺跡が気になりますね!!!

古代史というのは,本当に,汲めども尽きぬ泉ですね。
この泉から,汲めるだけのものを汲みたいものです。
どうぞよろしくお願いいたします。

>〉 と考えてみると伊予と武蔵の二つの遺跡が気になりますね!!!

古代史というのは,本当に,汲めども尽きぬ泉ですね。
この泉から,汲めるだけのものを汲みたいものです。

 ところでここに書いた二つの遺跡とは何だかピンと来ていますか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ところでここに書いた二つの遺跡とは何だかピンと来ていますか?

伊予の久米官衙遺跡と武蔵国府のことですか?

肥沼さんへ

 伊予はそれでよいですが、武蔵は、府中熊野神社古墳のことですよ。とても珍しい上円下方墳で大きな石室のある。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 伊予はそれでよいですが、武蔵は、府中熊野神社古墳のことですよ。
とても珍しい上円下方墳で大きな石室のある。

そこは先日パンフレットをもらいに行った古墳ですね。
日程がきついということで,今回行程から外し,
その代わりパンフレットのみ差し上げることにしたのですが,
もし話題提供ができれば嬉しいことです。
川瀬さんが「ピンと来ているところ」を少し書いて下さい。
九州・近畿・地元の3つの勢力によって争われたということでしょうか?

 いま問題にしているのは650年頃の九州王朝による全国的な国評制施行の問題。書紀大化年間の記事で東国8か国に国司を送り、国境評境の確定と役人の勤務評定をしたことはわかる。
 だが常陸風土記ではこのころに吾妻は初めて8か国に分けられ、それぞれに評制施行されたとあり、その統括者が「総領」だと。
 さらに九州王朝が置いたとみられる国司よりも大きな範囲と大きな権限を持った役人として「大宰」と「総領」があるが筑紫大宰は推古紀にあるので650年代以前の問題。となると吉備大宰と伊予総領の設置時期が不明であるので、これも650年頃の全国的国評制施行と同時と考えてみた。
 この全国的国評制施行の時期に置かれたと思われる吉備大宰・伊予総領、そして仮称「吾妻総領」が置かれた地域を考えると、吉備は大きな独立国、そして伊予もまた大きな独立国、さらに吾妻はその中に大きな独立国である毛野を抱えた国だ。ここに国評制を敷くには現地豪族の反抗も予期できるので「天子に変わって政治を行う」高官である大宰や総領を派遣したということではないか。
 したがって吉備・伊予、そして吾妻に、天子に変わって治める高官が派遣されたことに関わる特異な遺跡があるはずだと思う。
 吉備はまだわからない。
 伊予には久米官衙遺跡という特異な官衙遺構があり、ここには巨大な平城京にも匹敵する八脚門をもった宮殿が短い時期に置かれていた。これを通常は伊予に滞在したという斉明天皇の離宮と理解しているが、数日しか滞在しない人のための宮殿とは思えない。だからこれが伊予総領の宮殿と官衙遺構であったのではと考えた。
 では関東には?
 そこで気になったのが府中熊野神社古墳なのです。
 全国に6例しかない上円下方墳。
 だがこの中で1m以上の高さの方形壇を築いた上にさらに数mの円墳を築いたかたちのものは、石のカラト古墳(奈良)・清水柳北1号墳(静岡)・武蔵府中熊野神社古墳(東京)・野地久保古墳(福島)の4例しかない。
 と考えるとこの古墳は現地勢力のそれではなく、朝廷と何らかの関係のある人物ではと以前から考えていました。そして年代は刀の鞘金具の形式から7世紀後半だと。
 時代的には650年頃の九州王朝による全国的国評制施行の時期に重なります。
 そしてこう考えると、武蔵国南部の以前から九州王朝の屯倉の置かれたところに武蔵国府が置かれてとても大規模な「国分寺」が建設されたことは、この武蔵南部こそ、九州王朝による吾妻経営の拠点だったのではないかとの想像が膨らむのです。

 まだまだ根拠のない想像の積み重ねにすぎませんが。

追伸:先のコメントで東国8か国を、安芸・吉備・播磨・伯耆・出雲・因幡・讃岐・土佐としましたが、吉備が大宰、伊予が総領であればこの二国は国司派遣国からは除外され、代わりに阿波・但馬あたりが入ってくるのではないでしょうか。そして吾妻は総領が。
 ただこう見るとこの間にある、近畿天皇家の領域以外の地域、東から伊豆・駿河・甲斐・遠江・三河、尾張、そして信濃やその北の越の国はどうだったのかなと思います。
 あるいはこの地域の西側はすでに近畿天皇家の領域が広がっており、残りは古くからの九州王朝の直轄領としてすでに国評制が施行されていたのかも。
 いや清水柳北1号墳(静岡)の存在を考えると、この中の東海の地にも総領が派遣されていたのかも。
 さらに福島の野地久保古墳(福島)の存在も考えると、この時期に陸奥国の制定・蝦夷との国境画定のために、この地域にも総領が派遣されたのかもしれませんね。

 根拠となる史料が乏しいですが、わずかな可能性として頭の隅に置いておこうと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 では関東には?
 そこで気になったのが府中熊野神社古墳なのです。
 全国に6例しかない上円下方墳。
 だがこの中で1m以上の高さの方形壇を築いた上にさらに数mの円墳を築いたかたちのものは、石のカラト古墳(奈良)・清水柳北1号墳(静岡)・武蔵府中熊野神社古墳(東京)・野地久保古墳(福島)の4例しかない。
 と考えるとこの古墳は現地勢力のそれではなく、朝廷と何らかの関係のある人物ではと以前から考えていました。そして年代は刀の鞘金具の形式から7世紀後半だと。
 時代的には650年頃の九州王朝による全国的国評制施行の時期に重なります。
 そしてこう考えると、武蔵国南部の以前から九州王朝の屯倉の置かれたところに武蔵国府が置かれてとても大規模な「国分寺」が建設されたことは、この武蔵南部こそ、九州王朝による吾妻経営の拠点だったのではないかとの想像が膨らむのです。

やはり「地元の豪族」では役者不足でした。
そこまでつなげて考えておられたとは・・・。

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