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2018年12月28日 (金)

「仏像争奪戦」(「多元」の斎藤里喜代さん)を読んで

今日届いた「多元」の最新号(149号・2019年1月号)に
掲載されていた上記の論文は,
私の若い頃の思い出を呼び起こしてくれるとともに,
多元的古代の考えを進めてくれるものだった。

唐招提寺は,鑑真の来日以降に建てられた寺(759年)だから,
当然平城京遷都(710年)より半世紀後の寺である。
興福寺や薬師寺,法隆寺とはそのスタートがまるっきり遅い。

多元的古代研究では,701年の大宝元年が近畿王朝の初めて年号を定めた(建元)して,
正式に九州王朝から近畿王朝へ政権が替わったことがわかっている。(続日本紀)

貴族たちは新しい政権のもと,この平城京で屋敷を構えるのはもちろんのこと,
寺院の移転や仏像の移動を行ったことが想像される。
(全国の廃寺,特に政権を失った九州王朝の地域の廃寺から)

それに対して,唐招提寺は,半世紀遅れたスタートであるから,
当然その影響が建物や仏像に出ているはずなのである。
もちろん,「天平の甍(いらか)」と称される広大な金堂や
深い精神性を感じさせる鑑真和上像は例外だが,
そのほかの仏像を見てみると,巨大なのはわかるが,
なかなかその魅力に入っていくのに骨が折れるものも少なくない。
場合によっては,その仏像群のコンビネーションを疑うものもある。
そこに斎藤さんは切り込んだ。
唐招提寺と,他の奈良の寺院の半世紀(以上)のスタートの差が,
これらの様相を表しているのではないか,と。
(唐招提寺の金堂は延暦年間の782~806年で,
その頃には「最後の余り物」だった・・・)

最初に若い頃の話を書いたが,ただ仏像を見て帰ってくるだけではなく,
その後文集を作ったり,「人気投票」をしたりした。
私の記憶では,金堂と鑑真和上像のほかで,唐招提寺にはなかなか票が入らなかったと思う。
それは唐招提寺のせいではなく,歴史的経緯から「仏像争奪戦」に遅れた寺の姿だったのかと,
還暦の今となって気が付かされたのであった。
いや,一票を投じなかったことから言うと,直感的には気が付いていたのかもしれないが,
「どうして鑑真和上像と他の仏像との間には,これだけ落差があるのだろう」という
問題提起はすることがなかったし,その陰に「仏像争奪戦」があったかもしれない,
なんて仮説を立てるまでには至らなかった。斎藤さんに感謝したい。

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