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2018年11月11日 (日)

古代史セミナー 2018(2日目)

やはり山は街より寒い。
しかし,もっと寒い年もあったので,
これくらいなら気持ちいいかな?(o^-^o)

【朝食】

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【倭国から日本国へ】

『葬られた驚愕の古代史』ー越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありやー(合田洋一さん)A4判5枚

・ 天皇表記は,和風諡号ですべきである。九州王朝と大和王朝の登場人物を混同してしまうので。

・ 持統の称制期間が,薩夜馬の最後の政治か。

西暦700年の<倭国溶暗>と地方政治の展開(鈴岡潤一さん)A4判4ぺ

・「高良大神」の石碑,「観松寺の弥勒仏」,「桜ケ丘古墳の短甲」,「八面大王は坂上田村麻呂によって,
バラバラにされて殺された」=八面大王の支配の範囲か,「八面大王の墓(ギシキの岩屋)」,
「こうぼう山古墳」,御坂峠の駅の役人の免税措置をしたのは誰か,3つの国府の移動が不詳,

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王朝交代と「大化改新詔」ー九州王朝から大和王朝へー(正木裕さん)

・ 「皇太子奏請」に見える「昔」と「今」により,「旧唐書」との一致。

・ 隠された近畿天王家による九州王朝の資産の簒奪。

・ まとめ~『書紀』編者は,九州年号大化期行った九州王朝の資産の「簒奪」の過程を,
 孝徳期に「時代移動」させ,過去の九州王朝の天子を「昔在の天皇」と記し,
 あたかも近畿天皇の祖先の天皇であるかの如く装い,現在(九州年号大化期)の天子
 (または皇太子)を中大兄と書き換え,総て近畿天皇家の出来事と改変した。
 そして,九州年号大化から孝徳期大化への「記事の繰り上げ」手法に寄り,
 九州王朝の存在と.近畿天皇家がその資産を簒奪していく過程を隠し,
 かつ,九州王朝の事績を自らの事績とした。
 「改新詔」中の「公地公民制創設」件と「皇太子奏請」件は,このことを示す証だった。

郭務藪小宗はどこにいたか(中村通敏さん)A4判5枚

・ 『壬申大乱』に出てくるに2つの天武天皇の歌が不審だ。

・ なぜ淑人は「太良」にいたのか。郭務小宗とは何者なのか。

・ 占領軍の司令官と淑人とのイメージの乖離。唐軍の破壊行動はなかったのではないか?

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【昼食】

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九州と近畿における地名の類似性から見えてくるヤマト政権の思惑ー日本書紀編纂の目的と
 古事記の役割ー(田中巌さん・橋本正浩さん・斎藤隆雄さん)A4判4ぺ

・ 丁寧に原稿を作られ,聞きやすく,わかりやすいものであった。時間もぴったり。1つの手本に。

・ ただ,ところどころ違和感(倭国と日本国の関係等)を持つ内容もあった。

大宰府出土戸籍木簡に関連して(上城誠さん)A4判3枚

・ 評の時代は,九州王朝の時代。庚午年籍は筑紫で作られた戸籍。ということは,九州王朝が作ったもの。

・ 一律34年動かすのは危険。件ごとに,検討しなければいけない。(正木さん批判)

・ 副都説は,古田史学とは言い難い。(古賀さん批判)

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【自由テーマ】 ここから1人15分間

関東の日本武尊(藤田政昭さん)A4判5ぺ

・ 関東の日本武尊の工程は,「関東の〇▽□王」の文章の流用である。具体的には,彦狭嶋王か。

・ 彼は愛知県春日井市生まれだが,東山道十五国を支配し,関東大王となった。

・ その彼の大和への往路が,日本武尊の大和への帰還路とされた。

ユーラシア大陸の縄文語地名(鈴木浩さん)A4判5枚

・ シベリアに「チクシ」地名を発見した。北緯72度。レナ川の河口。先住民の言葉で「上陸可能地点」。

・ 九州の「チクシ」もほぼ意味が同じで音も変わらない。

・ DNA分析では,現在日本女性のほぼ3分の1がシベリア・バイカル湖方面の母親のDNAを引き継ぐ!?

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虚大古墳の時代(平松幸一さん)A4判4枚

・ 近畿地方の巨大古墳は,墳丘の大半を人口の盛り土によった5世紀の中期古墳とは違う。

・ 多くは活断層の活動で隆起した丘陵のものが多いとのこと。

・ 大山古墳(かつての仁徳陵)は,5世紀前半ではなく.6世紀前半。副葬品も朝鮮渡来の人のものと同じ。

古田武彦氏の学問の方法について(大下隆司さん)A4判4ぺ

・ 追加資料でA3判1枚。

・ 「古田史学」支援組織の結成と分裂。「古田」史学のこれからについて。先生の学問研究の基本構造。
 
・ 『よみがえる九州王朝』の中の「生きた日本の歴史」に「論証と実証」論。

・ 今後の課題~A3判の追加資料が,コンパクトにまとめられていた。

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大分の国宝・臼杵石仏は,九州王朝時代に掘られた大規模摩崖仏遺跡である(角田彰男さん)A4判4ぺ

・ ご本人の『炭焼き長者 黄金の謎』(原書房)に対する読者の情報から・・・いろいろ発展した。

・ 臼杵石仏関係で九州年号「正和」が見つかった!?(鎌倉時代に正和があるので,実見をとのこと)

・ 臼杵石仏は,5~6世紀の中国六朝時代のもの。(大学の教授の調査)

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「科野の国」から見る「磐井の乱」(吉村八州男)A4判4ぺ

・ 蕨手紋様の瓦様~とても補修用などというものではない。小宮山廃寺の瓦も異色。

・ 信濃国分尼寺に,塔の版築があったようだ。ということは,信濃国府寺だったということ。

・ 東偏5度も言って差し上げたかったが,時間がなかった。

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【閉会】

・ 荻上紘一さんのあいさつ

「来年もやりましょう。この時期に,この場所で」

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 本日も実況中継お疲れ様です。
 正木さんの論はもうむちゃくちゃですね。何でもかんでも勝手に論者の都合で年代移動してしまう。もうその論拠を示す必要は感じていないのですね。「私がこう感じたのだからこれで正しい」。完全に妄想の域に達しています。これは実証的歴史研究の方法ではないです。古田さんとは無縁。
 このことに気が付かないで得々として成果を発表する姿が痛々しいです。わからない人には「すごい!」と思える発表でしょうが。
 やはり孝徳期の「改新の詔」をちゃんと「主語有無の論証」などを使って検証しないといけないですね。
 「日本書紀」をきちんと原文の漢文に即して解読しないといけないと強く思います。あれは漢文なので、特徴的な漢語を多用している。詳しい漢和辞典を座右に置いて読まないと。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

上城さんが今古賀さんや正木さんを批判していらしたところですが,
古田史学の発展のためにどうしたらいいか,
古田さんが亡くなった今改めて考えていく必要があるでしょうね。

>古田史学の発展のためにどうしたらいいか, 古田さんが亡くなった今改めて考えていく必要があるでしょうね。

 そもそも「古田史学」とは何かが問題ですね(上城さんや大下さんはここを問題にしている)。
 わたしは「古田史学」なるものは存在しないと考えます。
 世間はすぐに(まあメディアですが)、通説と異なる視点で歴史を考える学者が出てくるとすぐにその人の名前を冠して「○○史学」と呼びます。中世史で従来と異なる視点から(特に王権の視点から)考えた網野善彦さんが出てきたとき「網野史学」と呼んだように。
 でも古田さんの方法論は、実証主義史学です。史料に基づいて歴史を論じる。
 古代史の通説派が、基本史料である中国の正史を勝手に書き換え読み替えて、書紀と同じことを言っているかの如く偽装している事実を暴き、中国正史に基づけば、日本列島の中心王朝は一貫して北九州にあったというのが、古田さんの学説です。
 そしてこの学説が無視されたのは、中国正史という一級史料に依拠した学説なので反論する余地がなく、このままでは「万世一系の天皇家」という日本近代史の神話が壊れるので、学会が無視したということ。
 古田さんを継承するということは、この方法論と九州王朝が700年までは列島中心王朝であったという学説に依拠して古代史を研究するということです。
 ここが分っていないと、混乱は続きます。

 なお大事なことは、古田さん自身が実証主義史学の方法論を逸脱して、書紀の年次を10年とか32年とか移動してしまったという誤りを犯していることも認識しなければいけません。
 上の中国正史が古田説を実証していることを認識しない古賀さんが、前期難波宮が孝徳の宮との説が正しければ「古田説が否定される」と考えて出したのだ前期難波宮九州王朝副都説であり、これを補強するために、古田さんが書紀年次を動かした例に依拠して書紀年次をどんどんいじくったのが正木説である。このことも認識されなければなりません。
 以上の三点が、古田さんの学説を発展させるときの基本条件です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

では,何と呼び名を付けたらいいのかというと,
古田史学以上にいいものがなかなか見つからないということですね。
九州王朝説というと,他の王朝はなかったの?という人がいるだろうし,
多元史観もいいけど,ちょっと固い感じだし。

「多元史学」というのは,どうでしょうかね?(肥さん命名)
「幻想史学」だと室伏さん風ですし,
一元史観とは違うぞという意味は出したいし・・・。

肥沼さんへ

 古田さんが明らかにしたことは、700年までは日本列島の中心王朝は九州王朝であったということ。
 だから古田さんの学説は「九州王朝説」で良いと思います。これは近畿天皇家が昔からずっと中心王朝であったという一元史観を否定するという意味の呼び名でもあります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  古田さんが明らかにしたことは、700年までは日本列島の中心王朝は九州王朝であったということ。
 だから古田さんの学説は「九州王朝説」で良いと思います。これは近畿天皇家が昔からずっと中心王朝であったという一元史観を否定するという意味の呼び名でもあります。

なるほど,そう考えれば,古田さんのは「九州王朝説」でいいですね。
問題は,ほかの人がいろいろなやり方で研究していく時に,
「古田史学」を標榜していいかということだと思いますが…。

肥沼さんへ
>問題は,ほかの人がいろいろなやり方で研究していく時に, 「古田史学」を標榜していいかということだと思いますが…。

 「古田史学」というわけのわからない言葉は使用厳禁です。
 古田さんの「九州王朝説」に立って、実証主義歴史学の方法論を駆使すると言えば良いことです。
 実証主義歴史学の方法論とは、あくまでも歴史史料に基づいて仮説を立て、歴史史料によって論証するということ。
 仮説を立てるにも一定の歴史史料の裏付けが必要。そしてその仮説が歴史的事実である蓋然性が高いと論証するためには、仮説を立てるに使った歴史史料以外の歴史史料とも矛盾ないことを示さないといけない。
 自分の仮説を否定する、もしくは齟齬を生じる歴史史料の存在を無視するのでは、実証主義歴史学とは言えないということです。

 この意味で東京古田会の正式名称・古田武彦と古代史を研究する会という名前は、とても含蓄のある良い名称だと思います。

追伸
 東京古田会が会則の目的で「古田武彦氏の業績と方法論にもとづいて、日本の古代史を研究し真実の歴史を追及する」と明記してあることも良いと思います。
 古田さんの業績とは「九州王朝説」であり、方法論とは実証主義歴史学の方法論ということです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古田さんが亡くなった時,会の名称をどうするかアンケートが来ました。
私は「このままでいい」と答えたと思いますが,
それくらいスタート時点では思いが深かったということなのだと思います。
(私は途中参加なので)
「夢ブログ」にも「古田史学」というコンテンツ名があるのですが,
「古田史学」の話題が出るたびにヒヤヒヤしています。

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