物部守屋の屋敷は,玉造にあり,東偏であった!(かも)
川瀬さんが,素晴らしい情報をプレゼントして下さった。
なんと,物部守屋の屋敷は,難波宮の玉造にあったという伝承があるというのだ。
川瀬さんのコメントと私の応答をコピーしよう。
〉 四天王寺には、今の荒陵の場所ではなく、創建時は玉造にあったという伝承がありますね。
ここはちょうど難波宮のすぐ東側。
この難波宮のすぐ東側に「法円坂廃寺」というのがあり、これが「荒陵寺」とも呼ばれていて、
創建四天王寺とも考えられていますね。
この寺の復元伽藍配置は法隆寺式で、伽藍は東偏です。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103510-84663/map.jpg
そのすぐ東に玉造稲荷神社があり、この地の地名が森ノ宮です。何か関係ありそう。
(肥沼) それは,物凄いことですね!
その寺院は大阪府の寺院の精査の,
スタートの方でやったものではないですか!!
その件,別項で・・・。
では,荒陵寺(法円寺廃寺)の図面を載せてみましょう。
私が載せたものよりよくわかるよということで,載せたのが次のものです。
ずいぶん印象が変わりますね。
ついでに言うと,荒陵寺という寺院名は,ずいぶんひどい名前のような気があの時していました。
だって,荒れた陵(みささぎ。墓)という意味ではないですか・・・。
よく自分の寺にこんなひどい名前を付けたなあ・・・と。
そうか!これは「戦い(丁未の乱)に敗れた側が付けられる名称」としては,逆にふさわしいかも。
もう物部守屋は亡きものにされた訳だから,「そんなひどい名前を付けるなよ」とは言えないですもの。
(その後,「大化の改新」で倒された蘇我氏の蝦夷や入鹿と同じですね)
6世紀末というのは,ちょうど大和王朝が「東偏→西偏」する時期であり,
蘇我氏と組んだ「聖徳太子」が,物部守屋を倒した丁未の乱と重なる時期であった。
これ,つながりますね!今日の横浜の読書会のいいお土産になるぞ!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PS もう一つ思い出しました。
難波宮から南の地域が,東偏しているという件です。
これはこの地区が,東京都府中市と同じように全体として東偏させられて
街づくりが行われた痕跡ではないでしょうか。
荒陵寺もその街の一部だったから,当然東偏していた,と。
(焼失した痕跡とか,残っていないのかな?)
PS2 最初のものは東偏で建て,
その後今の場所に移動して西偏で建て直したのかも。
① 創建四天王寺・・・最初に建てた寺=東偏
➁ 第2次四天王寺・・・今の場所に建てた寺=西偏
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肥沼さんへ
次々と新しい発想が生まれますね。しかもかなり確かな証拠を伴って。
>難波宮から南の地域が,東偏しているという件です。これはこの地区が,東京都府中市と同じように全体として東偏させられて街づくりが行われた痕跡ではないでしょうか。 荒陵寺もその街の一部だったから,当然東偏していた,と。
はい。私も元の四天王寺がこの荒陵寺でしかも物部守屋の館だったのではと気が付いた時点で、以前肥沼さんが難波宮以南の地が東偏であることを気にされていたことに思い出しました。
あの時は「磁気偏角が東偏である江戸時代の大坂の街路」の名残と返答しましたが、このちに古い東偏の建造物が出てくれば、ここは難波宮以前には東偏の街路があったと考えざるを得ません。
そういえば難波宮の下からも、東偏の官衙遺構が見つかっていますね。しかも東偏の道路を伴って。
図5:遺構図(内裏周辺下層)です。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102239-97348/up.jpg
これは難波宮以前にはこのちに、物部守屋の館や官衙(評衙でしょうか)を伴う街が作られていたということを示していると思います。
物部守屋が滅ぼされた事件は、丁未の変。587年。この事件ももしかしたら、九州王朝と近畿天皇家をめぐる国際路線の差(中国から自立するか朝貢するかの)が原因であったのかもしれません。
もう一つ気になっていること。
書紀では最初の四天王寺は摂津につくられたとあります。この荒陵寺の場所は河内です。守屋の館も河内にあったと書紀は記しています。ということは、最初に作られた四天王寺はこの荒陵寺ではなくて、摂津の別の場所だったということでしょうか。
それともこの地が、事変当時は摂津国だったのが、のちに河内に組み替えられたということでしょうか。
投稿: 川瀬 | 2018年11月12日 (月) 12:38
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 そういえば難波宮の下からも、東偏の官衙遺構が見つかっていますね。しかも東偏の道路を伴って。
図5:遺構図(内裏周辺下層)です。
もう一度「復習」のためにアップしますね。
〉 物部守屋が滅ぼされた事件は、丁未の変。587年。この事件ももしかしたら、九州王朝と近畿天皇家をめぐる国際路線の差(中国から自立するか朝貢するかの)が原因であったのかもしれません。
当然それもあるでしょうね。国の存亡を掛けてのことですから,大きな対立を生みます。
〉 もう一つ気になっていること。
書紀では最初の四天王寺は摂津につくられたとあります。この荒陵寺の場所は河内です。守屋の館も河内にあったと書紀は記しています。ということは、最初に作られた四天王寺はこの荒陵寺ではなくて、摂津の別の場所だったということでしょうか。
それともこの地が、事変当時は摂津国だったのが、のちに河内に組み替えられたということでしょうか。
私もよくわからないですが,前に山田さんと九州王朝の東山道の件で,「凡河内国」というのが出てきたことがあって,そのことと関係はないかと思っています。
投稿: 肥さん | 2018年11月13日 (火) 04:09