短冊形の地割と三富の開拓
所沢市には三富新田(水田ではなく畑)という江戸時代の開拓の跡が残されている。
その特色の一番は,短冊のように細長い地割で,
小学生たちは地元の学校の校舎の上からそれを見学するのだが,
本当に見事なものだ。
なぜそれを思い出したかというと,山田さんのサイトに,
「長地型(短冊形)」のほかに「半折型(色紙形)」というのがあって,
妄想としてだが「 「条里の坪付け」に関して「千鳥式坪並」と「平行式坪並」、
「坪地割り」に関して「長地型(短冊形)」と「半折型(色紙形)」が同じ王朝のものとは思えない」
というようなことが書いてあったからだ。
私も妄想を働かせて言うなら,三富開拓の地割は「短冊形」で,
それは関東が九州王朝の影響下にあった伝統を引き継いでいるのかもしれないなあ,なんて。
もちろん古代と近世では1000年も離れているし,「笑っておしまい」ということもあるが,
「1000年たっても神無月(出雲は逆に神在月)の神話は残っている」という訳だから,
笑ってしまうだけではもったいないような気もする。
第1に新田開発を成功させるために,個々の農家の条件をなるべく平等にする必要があったと思う。
例えば水利(川から遠く水が貴重),例えば肥料に使う雑木林の落ち葉の確保,
荒野を開拓して作物が取れるためには,まず「スタートとしての平等性」が
保証されないといけないのではないかな?
・・・ちょっと筆が進み過ぎてしまった。ここらで止めておくことにしよう。
最後に,山田さんのサイトに載っていた説明用の図を載せますね。
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/
条坊制と条里遺構
―都市(消費地域)と農村(生産地域)―[図書や論考等の紹介]から
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コメント
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戦後の岩手山麓原野の開拓も
上富の下の形でしたね。
そこへ父母が入植したのでした。
投稿: 翔空 | 2018年11月28日 (水) 07:55
翔空さんへ
コメントありがとうございます。
〉 戦後の岩手山麓原野の開拓も
上富の下の形でしたね。
そこへ父母が入植したのでした。
戦後だったら,その土地の地割の図や写真がありそうですね。
見てみたいですねえ。
投稿: 肥さん | 2018年11月28日 (水) 08:10