秋田城の政庁の変遷(案)
台形の形が途中で変わり,観察しにくいが,
私は7枚の図を,泉官衙施設(福島県南相馬市)のように
歴史段階を考えてみた。
歴史には,画期があり,それが建築にも反映しているという仮説である。
東偏・西偏については,いずれまた後日考察してみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
A 南朝の支配下の九州王朝(1)
Ⅰ期・・・左縦が4.9cm・右縦がが5.0cmでⅡ期と同じサイズの囲み。
Ⅱ期・・・囲みはⅠ期と同じだが,建物が1つ増え.庇付きも2棟に。(ただし,築地は減った)
B 南朝が滅びて,南朝のナンバー1になった九州王朝(2)
Ⅲ期 6棟に増え.左縦のサイズを拡大し,門も豪華なものに。
ⅣA期 サイズはⅢ期と変わらないが,建物は4棟に激減。
ⅣB期 建物を正倉に替える。食料が必要な事態?白村江に敗れて滅亡していく
C 8世紀初頭のおごり高ぶった近畿王朝と律令制が衰えた頃の近畿王朝
Ⅴ期 これまでと違って,3棟すべて庇付き。この世の春か
Ⅵ期 しかし,やがて律令制は衰え.建物も貧弱になっていった
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肥沼さんへ
全体に正方位の遺跡ですね。
この中に「やや西偏」「やや東偏」の建物がありますが、肥沼さんがこの間言われているように
「1・2度の範囲の西偏や東偏なら正方位で良い」と考えると良いのかもしれません。
この程度の差は図面でもあまり目立たないし、実際の建物だとほとんどわかりませんね。
はっきりと違いが目につくのは4度や5度以上です。
投稿: 川瀬 | 2018年11月29日 (木) 13:34
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 全体に正方位の遺跡ですね。
秋田城はかなり北なので,「東偏」の時代がなかった!
ということもあるかもしれません。
いきなり「正方位」スタートの例という訳です。
他の例がほしいところです。
まだあるんじゃないかな?
投稿: 肥さん | 2018年11月29日 (木) 15:08
肥沼さんへ
秋田城はその歴史から考えて、最初から近畿王朝の正方位の城としてつくられたと考えた方が良いと思います。蝦夷侵略の北上に伴うものとして。
すくなくとも秋田城は「『続日本紀』において733年(天平5年)に出羽柵(いではのき)を秋田村高清水岡に遷置したと記述されたことにさかのぼる」ようですから。
東北の柵・城を考える際には、蝦夷侵略の歴史をおさえ、それぞれの柵がいつ作られたと考えられているかをまず押えてください。そうすることで定説で考えれば東偏か正方位か西偏かと見当が付けられます。
そのうえで遺構を検討してみて、定説の創建年代から考えた方位と異なる方位の建物が出たら、古代文献に基づいた定説の時期以前にすでにそこに柵があったと考えることができるのだと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年11月29日 (木) 23:15
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 秋田城はその歴史から考えて、最初から近畿王朝の正方位の城としてつくられたと考えた方が良いと思います。蝦夷侵略の北上に伴うものとして。
私もそんなに秋田城で九州王朝をねばろうと思っている訳ではないのですが,
この遺跡の変遷の仕方で,何回か「興隆期」「様式変更」があると思うので,
その謎を解きたいと思うということです。
文献を先に読んでしまうと,素直な私は即一元史観に走りますので,
あえて違う方面から切り込めないかと試行錯誤します。
川瀬さんは研究者なので,文献的な位置づけを求めるのは当然だと思います。
投稿: 肥さん | 2018年11月30日 (金) 04:13
>この遺跡の変遷の仕方で,何回か「興隆期」「様式変更」があると思うので,
その謎を解きたいと思うということです。
秋田城遺跡については、基本的に様式変更はないと思います。
どの時期も、下向きのコの字型に中心建物を配する形式は同じですし、その周囲を塀などで囲む形式も同じです。
ウィキペディアの秋田城の記述を読んでみると、異なるのは様式ではなくて、役所を囲む施設の方式が時期で異なるようです。
土塀や柵や材木柵やなどなど。この外郭施設に変遷に時代と意味があるような。
上の図をみると最初の二つが二重線であとは一重線です。この違いの意味はなんだろうな。
投稿: 川瀬 | 2018年11月30日 (金) 13:41
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ウィキペディアの秋田城の記述を読んでみると、異なるのは様式ではなくて、役所を囲む施設の方式が時期で異なるようです。
土塀や柵や材木柵やなどなど。この外郭施設に変遷に時代と意味があるような。
私もそこに違いを見出そうとしている訳です。
〉 上の図をみると最初の二つが二重線であとは一重線です。この違いの意味はなんだろうな。
印象でいえば,築地塀と板塀という感じです。
時代が経つにつれて,防備が甘くなったというか,しなくて済むようになったか,
不思議な感じです。
投稿: 肥さん | 2018年12月 1日 (土) 04:38
ウィキペディアの秋田城の外郭についての記事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E
>外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている[39]。V期の堀は深さ1m、幅3mを超すものであるが、城の東辺、西辺での発見であり外周全体を囲うものであったかは定かでない[41]。III期以降は外郭に附設して櫓が設けられており、検出された遺構からの推定では、およそ80 - 90m間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている[41
Ⅲ期以降は防御施設として強化されていると思います。
築地米は防御施設ではなく寺院や官衙の飾りとしての塀です。それが材木列による材木塀になったとありますが、要はバリケードを作ったということで、さらに要所に櫓を設けて監視し、さらに外郭に深い大きい堀を掘ったのでは。
つまりⅠⅡ期は平和な時代の政庁。Ⅲ期以後が戦乱の時代で城としての機能に変化した。
ということではないでしょうか。
このⅢ期以後が桓武による蝦夷侵略の時期に相当するのだと思います。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 2日 (日) 13:24
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 >外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている[39]。V期の堀は深さ1m、幅3mを超すものであるが、城の東辺、西辺での発見であり外周全体を囲うものであったかは定かでない[41]。III期以降は外郭に附設して櫓が設けられており、検出された遺構からの推定では、およそ80 - 90m間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている[41
あの変遷図からだけではとてもわからないですね。
けっこうウィキペディアには細かく書かれているようです。
これだと,近畿王朝の城と言っていいと思います。
投稿: 肥さん | 2018年12月 2日 (日) 15:11
肥沼さんへ
「政庁遺構全体図」(図5)には政庁をとりまく塀の変遷については詳しく書いてありました。
ただし外郭遺構についての説明図はなく、どこを掘ったかは、「発掘調査位置図」(図2)を見るとわかります。かなり部分的です。
そして外郭に櫓があったことは、建物データ全体を見て初めて、11か所の櫓と思われるものが出ていることがわかる状態です。
やはり図面だけ読んだだけではわからないことが多く、発掘報告書を読まないと無理ですね。データベースの「全国遺跡総覧」にはあるかもしれませんが。
そして年代比定については、「政庁遺構全体図」に各時期の状況が表になっており、それぞれ実年代はいつごろかも推定されています。
この遺跡は最初は近畿王朝の政庁としてつくられ(築地塀時代)、その後木柵に変わった時期に城としての防御態勢が取られたことはあきらかです。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 3日 (月) 00:59
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 肥沼さんへ
「政庁遺構全体図」(図5)には政庁をとりまく塀の変遷については詳しく書いてありました。
図5
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100312-97096/up1.jpg
う~ん,「書いてある」と言えば「書いてあり」ますね。
ただ,全部の図を見ていくとペースがかなり落ちるので,
必要に応じてということになると思いますが・・・。
投稿: 肥さん | 2018年12月 3日 (月) 02:39
>う~ん,「書いてある」と言えば「書いてあり」ますね。ただ,全部の図を見ていくとペースがかなり落ちるので, 必要に応じてということになると思いますが・・・。
ペースを上げることだけを考えないことです。
今やっている寺院官衙遺構の悉皆調査は、各地の建物の方位を調べているだけですが、この秋田城のように長期にわたって変遷した遺構の場合は、遺構図を一つ見ただけではむりです。そして秋田城のようにかなり詳細に調査されている「拠点遺跡」は、少なくとも図面を全部見る必要はあります。そしてできたら報告書も。
今やっている悉皆調査でも、肥沼さんは「伽藍図」一つでやっていることが多い。でも同時に掲載されているいくつかの図面や、さらに建物データを見ると、その方位もさらに正確にでるでしょ。
私は肥沼さんの判断に疑問があるときは必ずこの方法で複数の資料を見ています。
肥沼さんご自身も、遺構の方位判断に迷った時はこの手間のかかる方法をやってください。ペースを上げることだけ気にして雑な分析をしても仕方がありません。一つ一つを雑にやると、後で集計したときにそのデータの信頼性が落ちます。
信頼性の高い悉皆調査データを出すには、一つ一つの遺構を丁寧に検討することが求められます。
投稿: 川瀬 | 2018年12月 3日 (月) 12:34
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ペースを上げることだけを考えないことです。
それはその通りだと思います。
〉 今やっている悉皆調査でも、肥沼さんは「伽藍図」一つでやっていることが多い。でも同時に掲載されているいくつかの図面や、さらに建物データを見ると、その方位もさらに正確にでるでしょ。
「建物データ」は「灯台下暗し」でした。
方位まで出ているとは・・・。
掲載しているのはたいてい1枚だけですが,一応何枚か見て,どれにしようか決めています。
〉 信頼性の高い悉皆調査データを出すには、一つ一つの遺構を丁寧に検討することが求められます。
もちろんそうです。でも,いろいろな遺跡があるので,「えーっ」と思うこともあるんです。(これは感情の問題ですから,致し方ない)
投稿: 肥さん | 2018年12月 4日 (火) 04:58