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2018年11月 8日 (木)

三ツ寺Ⅰ遺跡の豪族館の方位

学芸員の説明では,南西の方が正門。
北東の方が裏門ということでした。

Dscn4199

理由として,豪族舘の南に広いスペースがあることを挙げていました。
すると,5世紀のこの豪族舘は何偏?


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古田史学」カテゴリの記事

コメント

門は、北西と南東しかありませんが?

追伸
 この図面と博物館の復元模型を比べてみるとよくわかりますね。
 豪族居館の廂付建物。この正面が居館部分の柵で囲まれた範囲の門になっています。
 この門に至るには、西北の橋を渡って最初の門をくぐり、さらにその内側の二つの門を通って、邸宅の北部地域にまず入る。ここを抜けた南側に居館部分に通じる門があり、そこを抜けると居館を囲む柵列にぶつかるので、柵列に沿って西⇒南と歩いていくと、居館の正面の門に至る。
 正門は、西北の門ですね。南東の門が裏門。
 居館の東側、邸宅全体の南側に広がる広い空間は何でしょうか。

 この邸宅の方位は東偏。それも東偏100何十度でしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 門は、北西と南東しかありませんが?

失礼しました。方位を見ないで書いていました。

〉  正門は、西北の門ですね。南東の門が裏門。

学芸員とは,違う結果になりましたね。東偏だとは言っていましたが・・・。

〉 居館の東側、邸宅全体の南側に広がる広い空間は何でしょうか。

儀式を行ったり,豪族に面会する場所のようです。

〉 この邸宅の方位は東偏。それも東偏100何十度でしょうか。

こんなに大きな東偏の傾きは,初めてですね。

ただ,図も模型も全部発掘されたもののように見えるのですが,
実際に発掘されたのは3分の1くらいのようです。
その変遷を,アップしますね。

学芸員さんの判断について。

 もし南東の門を正門だとするのならば、遺構群の向きは西偏です。遺構群を東偏とするのであれば、正門が館の裏側にあることになる。
 南東の門を正門とした理由と考えられるのが、居館の南側に広がる大きな庭の存在。「儀式を行ったり、豪族と面会する場」だそうな。
 ということは南東の門は豪族たちが出入りする門ということで、北西の門は、この館の主や従者などが出入りする門ということだ。
 やはり館の主が出入りする門を正門とすべきだと思う。
 では豪族など「客人」が出入りする門を何と呼ぶべきだろうか。これは「客門」でしょう。
 ずっと後世の城や館では正門を三つの種類に分けている。
 普段主人などが出入りする門を「通用門」とし、客人が出入りする門を「客門」とする。
 通常は「客門」が最も大きく、「通用門」はそのわきに少し小さく作る。
 特に高位の人専用の門を作る場合には、これら二つの門の横にもっとも立派な門を建てる。

 正門・裏門ではなくて、二つ重要な門があったと見たらどうでしょう。
 そしてもう一つ、掘られていない北東と南東の側に本当の裏門があったかもね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ずっと後世の城や館では正門を三つの種類に分けている。
 普段主人などが出入りする門を「通用門」とし、客人が出入りする門を「客門」とする。
 通常は「客門」が最も大きく、「通用門」はそのわきに少し小さく作る。
 特に高位の人専用の門を作る場合には、これら二つの門の横にもっとも立派な門を建てる。
 正門・裏門ではなくて、二つ重要な門があったと見たらどうでしょう。
 そしてもう一つ、掘られていない北東と南東の側に本当の裏門があったかもね。

現代は,玄関と勝手口という二種類がかろうじて残っており,
その家の人も玄関で出入りしますが,昔はいろいろな門が必要だったのでしょうね。
その時代その時代の常識が違うのでちょっと厄介ですね。

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