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門は、北西と南東しかありませんが?
投稿: 川瀬 | 2018年11月 8日 (木) 18:01
追伸
この図面と博物館の復元模型を比べてみるとよくわかりますね。
豪族居館の廂付建物。この正面が居館部分の柵で囲まれた範囲の門になっています。
この門に至るには、西北の橋を渡って最初の門をくぐり、さらにその内側の二つの門を通って、邸宅の北部地域にまず入る。ここを抜けた南側に居館部分に通じる門があり、そこを抜けると居館を囲む柵列にぶつかるので、柵列に沿って西⇒南と歩いていくと、居館の正面の門に至る。
正門は、西北の門ですね。南東の門が裏門。
居館の東側、邸宅全体の南側に広がる広い空間は何でしょうか。
この邸宅の方位は東偏。それも東偏100何十度でしょうか。
投稿: 川瀬 | 2018年11月 8日 (木) 23:57
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 門は、北西と南東しかありませんが?
失礼しました。方位を見ないで書いていました。
〉 正門は、西北の門ですね。南東の門が裏門。
学芸員とは,違う結果になりましたね。東偏だとは言っていましたが・・・。
〉 居館の東側、邸宅全体の南側に広がる広い空間は何でしょうか。
儀式を行ったり,豪族に面会する場所のようです。
〉 この邸宅の方位は東偏。それも東偏100何十度でしょうか。
こんなに大きな東偏の傾きは,初めてですね。
ただ,図も模型も全部発掘されたもののように見えるのですが,
実際に発掘されたのは3分の1くらいのようです。
その変遷を,アップしますね。
投稿: 肥さん | 2018年11月 9日 (金) 04:41
学芸員さんの判断について。
もし南東の門を正門だとするのならば、遺構群の向きは西偏です。遺構群を東偏とするのであれば、正門が館の裏側にあることになる。
南東の門を正門とした理由と考えられるのが、居館の南側に広がる大きな庭の存在。「儀式を行ったり、豪族と面会する場」だそうな。
ということは南東の門は豪族たちが出入りする門ということで、北西の門は、この館の主や従者などが出入りする門ということだ。
やはり館の主が出入りする門を正門とすべきだと思う。
では豪族など「客人」が出入りする門を何と呼ぶべきだろうか。これは「客門」でしょう。
ずっと後世の城や館では正門を三つの種類に分けている。
普段主人などが出入りする門を「通用門」とし、客人が出入りする門を「客門」とする。
通常は「客門」が最も大きく、「通用門」はそのわきに少し小さく作る。
特に高位の人専用の門を作る場合には、これら二つの門の横にもっとも立派な門を建てる。
正門・裏門ではなくて、二つ重要な門があったと見たらどうでしょう。
そしてもう一つ、掘られていない北東と南東の側に本当の裏門があったかもね。
投稿: 川瀬 | 2018年11月10日 (土) 13:43
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 ずっと後世の城や館では正門を三つの種類に分けている。
普段主人などが出入りする門を「通用門」とし、客人が出入りする門を「客門」とする。
通常は「客門」が最も大きく、「通用門」はそのわきに少し小さく作る。
特に高位の人専用の門を作る場合には、これら二つの門の横にもっとも立派な門を建てる。
正門・裏門ではなくて、二つ重要な門があったと見たらどうでしょう。
そしてもう一つ、掘られていない北東と南東の側に本当の裏門があったかもね。
現代は,玄関と勝手口という二種類がかろうじて残っており,
その家の人も玄関で出入りしますが,昔はいろいろな門が必要だったのでしょうね。
その時代その時代の常識が違うのでちょっと厄介ですね。
投稿: 肥さん | 2018年11月10日 (土) 15:59